「ターシャ・テューダーのガーデン」 <1>
ターシャ テューダー(著), Tovah Martin(原著), 1997/4 文藝春秋 大型本 158ページNo.3571★★★★★
1)ターシャ・テューダーについては、いつか家族とともに茶の間のテレビで何度か見ただけだ。凄いな~、憧れる~、という想いと、このような世界を、我が家の奥さんも夢見ているかもなぁ、と思いつつ、テレビの画面を見ていた。
2)ひとつの極である。ガーデン、という単語が浮かんできて、図書館の園芸コーナーに行ったら、いやでもこの大型本が目についてくる。そうそう、彼女もいたよな。そう思い出しながら、<しぶしぶ>一冊、ひも解いてみる。
3)この本を、そして、主人公である彼女と、彼女の庭を絶賛し、ほめちぎることはそれほど難しくはない。とてつもない偉業である。美辞麗句を並び立て、私もひとりのターシャ・テューダー信奉者になることは、割と簡単なことである。
4)しかし、私の心の中では、なにかどす黒い、それは綺麗な花や、透き通るような緑に反する、ドロドロの、疑念や、反感が湧きでることも確かなのである。それは、うらやましー、という嫉妬の念がベースになっているとは言え、まるで無視して、私の理性が圧倒的に勝利するような簡単なものではない。
5)未整理のまま、それらのあれこれをメモしてみると・・・。
・イギリスのまるで中世の魔法使いのようにさえ見えるけれど、これは現代のアメリカである。
・当時90歳と言われる彼女が、まるで「ひとり」で作り上げたように言われているが、実はそうではない。多くのスタッフがいるはず。しかし、そこで「ひとり」が強調されるのはなにか。
・人里離れた緑豊かな環境にひとりくらす老人老女は日本にも多くいる。しかし、そこでは、過疎とか、介護とかの話題が先行する。ターシャ・チューダーとて、病気や身の回りのことが、まるで「ひとり」で出来るわけはない。
・この動画がそうであるように、、ごくごく自然の中であるように見えて、実はカメラワークなどには、かなり多くの現代的機器が使われているし、現実以上のフレームアップが行なわているようで、納得できない部分がある。
・このガーデンは40万坪あると言われているが、そもそも老女「ひとり」にこれだけの広さが管理できるわけがないし、おそらく、通常の人間が生きていくうえで、こんなに広いスペースは必要ない。東京ドーム30倍ほどの広さの「ガーデン」が、「老女ひとり分」として必要であろうか。
・野菜や穀物や果実など、食料はどうするのか。生活費はどうなっているのか。運営費はどうなっているのか。成功した絵本作家ゆえに、そういう心配はない、のかもしれないが、それでも、人間離れしたスケール感が、人々を驚かせ、また真実味を遠ざける。
・などなど・・・。
6)そして、究極には、ディビット・ソローの「森の生活」も、鴨長明の「方丈記.」も、必ずしも、人間がひとり俗世間を離れて、自然の中に埋没していくことを、推奨はしていない。スナイダーであろうと、三省であろうと、決して、耽美的ではない。
7)翻って考えてみるに、私の周囲にも、それぞれの条件下(多くは親からの相続だが)、ひろい庭にひとり住んでいるという人物も少なからずいる。言ってみれば、ターシャ・テューダー予備軍である。しかしながら、彼らは、ターシャのようには「美しく」は生きていない。
8)だから、どうのこうのという前に、ターシャにはターシャの素質や資質があり、その環境の中で生きていて、結果としてあのようになったということは、むしろ喜ばしいことであろう、と共感してみるほうが素直である。
9)ターシャの「完成」や「成功」が、誰かに不必要以上に「未達感」や「失敗感」を味わわせているとしたら、それは受け取り方のほうが間違っているとは言え、不必要以上に、ターシャのガーデンをほめちぎることは、ふさわしくない、と私は思う。
10)ヘルマン・ヘッセの「庭仕事」のほうが、私にとってはやや控えめで、いたずらな誇張が含まれていないと思う。それもこれも、受け取り方次第だが。
11)NHKテレビドラマ「植物男子ベランダー」のようにちょっと卑屈過ぎるのどうかと思うが、それでも、現代人には、スケール的には共感を呼ぼうというものである。
12)はてさて、さりながら、わたし的には、エコビレッジ構想、クラインガルテン計画、市民農園体験、ボタニカル生活、などなどの試掘の中で、自分なりのスケールをなんとか探りよせなければならないと思う。
13)ターシャ・テューダーのような「夢」のようなことは夢として、今、自らの目の前にあるリアルな現実を、敢えて受容し、その上に立って、生きることこそ、地球の上に生きる人間としての自覚であろう。
14)素晴らしい先人たちの、輝くような作品を見つつ、自分は自分の足で立つ必要性を感じる。
<2>につづく
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