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2015/09/27

「覚醒の舞踏」グルジェフ・ムーヴメンツ 郷尚文<4>

<3>よりつづく

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「覚醒の舞踏」 グルジェフ・ムーヴメンツ <4> 
郷 尚文(スワミ・アナンド・プラヴァン) 2001/06 市民出版社 単行本 343p
★★★★★

 私にとって、この探求へと自分を駆り立てる力の主要な源泉のひとつは、グルジェ」自身の存在の気配そのものである。読者もまた、グルジェフ自身の存在の気配から、少なくともこの本を最後まで読みとおすに必要な原動力を得られるよう、次の章では、東方への長い旅を終えてからのグルジェフの生涯を追いながら、グルジェフが弟子たちに与えたワークのなかで、ムーブメンツはどのような役割を果たしたのかに、目を向けることにする。p48「グルジェフ・ムーブメンツ」とは何か。

 ひとつひとつは面白いのだが、たしかにひとおおりこの本を読みとおすのは難しい。グルジェフの「気配」、そして「ムーブメンツ」。私は正統か邪道なのか、この本の著者であるプラヴァンの「気配」をも感じつつ、最近このワークショップを企画している古い友人Vの「気配」をも感じながら、読み進めている。

 グルジェフは、知識と理解の違いについて教え、理解のためには存在が必要だと溶いた。存在という言葉の意味については、四章以降で探っていくが、それはなによりもまず、眠っていないこと、つまり、意識の関与なしに機械的に考えたり、為したりするのではないことを指す。p52「グルジェフの生涯とムーヴメンツ」

 当ブログは、むしろ眠りの世界へと意識を集めつつある。しかし、この文脈でいえば、いかに眠りについて目覚めるか、いかに目覚めつつ眠るか、というパラドックスに満ちた言い方になろう。

 「実際にワークをすることは、ワークを志願することほどむずかしくはない」とグルジェフは言う。ムーヴメンツのワークでも、もっともむずかしいのは、それを始めることかもしれない。
 生活のためや、エゴの満足のため、あるいはあれこれの「夢」の達成のためならば、普通人は、超人的な努力さえいとわない。だが、グルジェフは、人々が「夢」を抱いてワークに接近することを意図的に拒んだ。
 個人の探求は、状況の恐ろしさと、ワークが提供する可能性の大きさに対する、バランスのとれた理解から始まらなければならない。
 そしてそのような理解が探求の原動力となるには、それは知的な理解というよりは、感情的な理解でなければならない。この章の主題となるのは、そうした感情的な理解である。
p84「ムーヴメンツとの出会いと探求の始まり」

 日本のいわゆる精神世界ブックフェア的な、グルジェフに対する理解も、私個人はOshoの書籍を通して(あるいは、タイミングとしてその後に)広がっていったように記憶する。だから、Oshoを通じてのグルジェフのイメージがどうしても強いし、この本の著者もまた、Oshoを通じてグルジェフと出会った人ではないか、と推測する。

 Oshoは、自らに繋がる系譜(あるいは親和性)をJ・クリシュナムルティやグルジェフに頼るところが大きい。いや、むしろ近代において、かなりの部分をこのふたつの存在に依拠するところが大きいように思う。しがたって、私なぞは、その経緯のなかでグルジェフを捉えようとしてしまう。

 自らを知るという言葉には、さまざまなニュアンスが含まれている。名前、出自、外見、能力、生へ気、職業、地位、特徴など、人にはさまざまな属性や性格がある。そのすべてをしりたいのだろうか。いや、人が自らを知りたいと望むとき、それはふつう、自己の内側にあって、自らがもっとも本質的だとみなすものを知りたいということである。

 その欲求が強ければ強いほど、人は、占いや性格テストが提供するような答えでは満足しない。自らの内側にある非個人的あるいは普遍的存在、疑いもなく自己の本性として感じられながらも、あるい意味では自分のなかにあって自分のもんではない、そんな中心的存在を見いだすまで、探求をやめないだろう。p99「ムーヴメンツとの出会いと探求の始まり」

 先日ムーヴメンツを見せてくれるために来宅した友人Vは、まだこの本を読んでいないとのことであった。彼もまた長いことOshoの門弟であってみれば、ひとつひとつ共振する部分が多いだろうが、ふと考えてみるに、すでに出会いがあり、現在ムーヴメンツを体験し、進行中なのであれば、この本は、ひょっとすると、今は不要なのかもしれない。

 グルジェフの教えと自己想起について、洞察に満ちた言葉の数々を提供する和尚(旧称ラジニーシ)は、自己想起を話題にするたびに、この危険性を強調する。自己想起の試みは、容易に「エゴ想起」の試みになりかねないという。

 グルジェフの教えに接した人たちにしばしば見られ、グルジェフ・グループの典型的な特徴として有名にさえなっている過度の深刻さや自己意識過剰は、ひとつには、自己想起のポイントに関する、こうした誤解から生じたものだろう。

 和尚は、自己想起の試みに「自己」という言葉を持ちこまないようにと言った。ここで和尚の言葉を引用するが、それは読んであきらかなとおり、先に引用したウスペンスキーの文章を念頭において語られている。

 だが、微妙ながら決定的に表現を改めており、ウスペンスキーの文章にはあらわれていない、自己想起の重要なポイントが、明確に指摘されている。また、これを読むことで、前述した第一のアプローチと第二のアプローチとのあいだの関係もわかるだろう。p112「二つの世界の狭間---注意力の分割と自己想起」

 青年時代にOshoと出会い、それを自らの道とした私は、他の優れた道やマスターたちが数多存在しているのではないか、という想像はしてみるが、自らの目的と能力を考えれば、道は、一本道でいい、と決めている。

 しかし、それではおそらく、今回またこの本にもどってこようというチャンスは巡ってこなかったのではないだろうか。今回友人Vがこのような機会を作ってくれたことに、改めて感謝する。

 当ブログにおいては、「グルジェフ&ウスペンスキー関連リスト」を作成して、自らが触れた関連リストの感想記事をまとめてある。また、Oshoがグルジェフやウスペンスキーに触れた部分も一部ではあるが、当ブログに転写してある。

<5>につづく

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