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2015/10/09

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<11>

<10>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<11>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

Ⅰ「東アジアのなかの日本」と向き合う 2013年4月12日 国際文化会館 岩崎小彌太郎記念ホール)p29

 いままで読み落としていたが、岩崎小彌太郎記念ホール、なんて表記もなんだか気になる。会場としてはもっとふさわしいところもありそうなものだが、早合点の私などは、なんだか、ネグリは、いくら反権力を標榜するとしても、権力の「囲われ者」になってしまったようなイメージさえ持ちかねない。(爆笑)

 2013年4月12日と言えば、当ブログではカテゴリ「Meditation in the Marketplace5」が進行しているところであり、村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んでメモしているころであった。ようやくiPadを手にいれて、いかに仕事に活用するか、そんなことをいろいろ考えていた時期である。

 「<帝国>」によって始められたわたしたちの三部作の三巻目「コモンウェルネス」(2009)において、マイケル・ハートとわたしは、いかなる留保もなしに、世界的均衡について、この新しい定義をさだめた。

 しかしながら、同時に、以前にも増してわかりやすくするように配慮しながら、これらの新しい政治的立場が総体としていかに依存しあっているかに光を当てたいと思った。これらすべての航跡のうえに、今日、世界的規模で生じているいくつかの変動を見直してみたいと思う。p33ネグリ「<帝国>とマルチチュード」

 <帝国>、マルチチュードと並ぶ、三つめの概念としてのコモンウェルネスについては、そのタイトルを持つ単行本雑誌を書籍としては読んでいたが、時期を逸したために、それほど重要な概念とは受け取っていなかった。再読を要す。

 地勢学的ネグリ解釈のグローバルな政治力が語られたあと、日本の分析が続く。

 最後に---ただし最後だからといって決して小さな問題ではないが---、容易には統治できな差し迫ったリスクを無視するわけにはいかない。それは日本国内のナショナリズム的傾向の増大、そして、残念ながらかなり確実に起こりうる中国のナショナリズムの復活によって生じる差し迫ったリスクである。p43ネグリ 「日本のマルチチュードと<コモン>の建設」

 今回、当ブログはこの本のタイトル「ネグリ、日本と向き合う」に惹かれて読み始めた読書であれば、なにはともあれ、日本という国に焦点を当てたところに目を配ることにする。

 この別のパースペクティブは、東アジアという大陸の労働者と市民たちが「共通の運命」の下にあることを認識することで開かれる。原子力政策の再開に反対する日本のマルチチュードの抵抗は、おそらく、来るべき未来のための創造的政策の正しい方向お切り開く可能性がある。p45ネグリ 同上

 ネグリは簡単に日本のマルチチュードと言ってしまうが、反原発デモにせよ、それの連続体と思われる反戦争法案デモであったとしても、はて、その参加者たちは、「日本のマルチチュード」という意識をもっているだろうか。どれだけあのデモ隊の中でマルチチュードという言葉さえ理解している人がいるだろう。

 折に触れ、この美しい国(引用者注・日本のこと)には、真のリーダーシップの機能が欠けているという話を耳にした。したがって、今度はわたしのほうから次のような問いを立ててみたい。これがわたしの話の終わり方である。

 すなわちコモンウェルネスの構築、つまり<コモン>を建設する空間の構築という国際的なプロジェクトは、現実的な取り組みのきっかけとなるような、試みの場になりえないだろうか、と。p47ネグリ 同上

 不思議な文脈である。マルチチュードとは、リーダーがいないからマルチチュードなのであろうと思ってきたが、どうも論理矛盾を感じることになる。そもそも、日本の現在の中で、我こそはマルチチュードである、と宣言する人はどれだけいるのだろうか。そして、そもそも、この言葉を知っている人はどれだけいるだろう。

 注9 ネグリが「構成」というとき、その背後には「構成的権力」の概念がある。「構成的権力」とは「憲法制定権力」のことで、それを担う主体は人民や国民ではなくマルチチュードである。

 ネグリは国民的国家を超えた支配力をもつ<帝国>への対抗原理としてマルチチュードを想定するので、マルチチュードも国境を越えた広がりをもたなければならない。マルチチュードが構成するのは世界民主主義である。p48 訳注

 絵にかいた餅のような文脈ではあるが、その絵はなんともおいしそうに、私には見える。

 注11 マルチチュードはスピノザに由来し、字義通りの意味は多数からなる「群衆」で、ソリチュード(孤独)の反対概念。市民革命後の近代国家の主権は人民ないし国民にあるとされるが、ネグリは人民や国民、あるいは社会主義革命の担い手としてのプロレタリアート(労働者階級)代えてマルチチュード概念を用いる。組合や政党によって組織されていない、ポスト産業化時代の自発的な抵抗のネットワークのイメージがあり、ドゥルーズ=ガタリの「リゾーム(根茎)とも響き合う。p49 訳注

 ドゥルーズには昔から食指が動いた。「ドゥルーズの哲学」(小泉義之 2000/05  講談社)もだいぶ前にメモしておいた。「哲学とは何か」ジル・ドゥルーズ /フェリックス・ガタリ 1997/10 河出書房新社)とか、「西田幾多郎の生命哲学」ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考 桧垣立哉 2005/01 講談社)、「現代思想の使い方」(高田明典 2006/10 秀和システム)、「哲学者たちの死に方」(サイモン・クリッチリー 2009/8 河出書房新社)、「ポストモダンの共産主義」(スラヴォイ・ジジェク 2010/07 筑摩書房)、あるいは「死の哲学」(江川隆男 2005/12 河出書房新社)、などなど・・・・ずいぶん、あちこちメモしていたもんだ。当ブログ2013/02/14分再掲

 注12 commoneealthの原義は「共通の富」ないし「共通善」(common good)で、公益を目的として組織された政治共同体すなわち「国家」をさす。「共和国」の語源であるラテン語のres publika(公共のもの)ははじめcommonwealthと訳されたが、後にフランス語republicの語が使われるようになった。(中略)

 なおcommonを名詞として使うのもネグリの独創で、ラテン語communisの原義「全員で均等に分けた、共有の」が活かされており、「コモン」は近代国家の「公」と「私」の二分法に対立する「共」であり、真のコミュニズムの再生をめざすキーワードとも言える。p49 訳注

 なかなか魅力的なネグリの世界ではあるが、当ブログとしては、同じく理想的でやや感傷的ではあるが、Oshoの文脈にもかなり共鳴するものである。

 真の社会主義は深い瞑想の中にあるコミューンのかぐわしい香りにほかならない。それは社会構造や経済とは何のかかわりもない。真の社会主義な社会における革命ではないし、それは社会的なものではない。それは個人の意識における革命だ。Osho「英知の辞典」「コミューン」   

<12>につづく

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