「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<16>
<15>からつづく
「ネグリ、日本と向き合う」<16>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著), その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次
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<コモン>のなかにマルチチュードを構築するとは、政治概念や統治の装置を表明するにとどまらない。それはまた、教育し、労働を組織し、愛し、富を配分することである。限界や分裂が現れるのはそのときであり、場合によっては逆に癒着や重なり合いも生じる。つまり唯物論が突如として歴史の存在論と出会うことになる。p89ネグリ「マルチチュードはいかに自らを組織化するか」
ここまで読み進めてきて、ハタと思い立ったことがある。これまでネグリ&ハートの三部作とされる「<帝国>」、「マルチチュード」に加えるところの、「コモンウェルス」への読み込みは、3・11後の邦訳でもあったために読み込みは全く不十分であった。
しかしながら、ここに来て、その重みを更に感じつつ読んでみると、その<コモン>は、当ブログの重要キーワードでもある<コミューン>に類似し、あるいは親和性を持っているのではないか、ということに気づいた。
ここには「共通の」「コミューン」「コモングランド」など、キーワード「コモン」に結びついた語が使われている。「コモン」はcommon good(「共通善」あるいは「共通財」)の例に見られるように「共通の」「共有の」という意味。
ただしネグリはこの語を名詞形で使うときは、「公」と「私」の二分法を越えた「共」の次元をさす。イタリア語のcomune(コムーネ=自治年の共同体)の語感もある。p100 訳注
かなり近い。当ブログなりに、かなり恣意的に読解するとして、仮に「マルチチュード」をサニヤシンと読み、「<帝国>」を魂へのマフィア達、と読みかえる時、「コモン」あるいは「コモンウェルス」をコミューンの類語あるいは近似として読みかえることも可能なのではないか。
「魂へのマフィア達」、「サニヤシン」、「コミューン」。この三大テーマの一つとして捉えるなら、ネグリ&ハートのいうところの「コモン」ないし「コモンウェルネス」は、極めて身近な、そして重大なテーマであることに、今さらながらに気づくのである。
マルチチュードはいかにして、自らを構成している主体の自立性を損なうことなく、自己を組織化できるのか。いかにして特異性の肉体をマルチチュードの身体のなかに構築できるのか。p89ネグリ「マルチチュードはいかに自らを組織化するか」
ここではこの後は問いかけにすぎない。私はここである1980年代の中盤に行なわれたひとつの先行的な実験を思い出さずにはいられない。読みかえればこうなる。「サニヤシンはいかにして、自らの瞑想的な自立性を損なうことなく、コミューンを建設できるのか。いかにしてひとりひとりの個性をブッダフィールドのなかに溶け込ませていくのか」
この問題に取り組むに先だって、わたしたちの「敵」はどうなったのか、現在どんなかたちで現れているのか考えてみたい。その際、3・11を21世紀が始まっていらい経験した危機の最高点と考えたい。
つまりあの原発事故は、あらゆる不均衡の全体、政治的主権の危機、そして勝ち誇るネオリベラリズムによる経済支配の危機、それらすべての範例(パラダイム)的要約なのだと考える。p90「『原子力国家』とは何か」
3・11を「21世紀が始まっていらい経験した危機の最高点」と考えている、というところが、当初、当ブログで、この本は他の本との類似性を直感したことに繋がっていると思う。
3月11日から間もなく、わたしは共同通信のインタビューに応じなければならなかった。最初の質問は、地震・津波・原発事故が引き起こした悲劇は日本を、いや日本を越えて文明全体を、ひとつの重要な問いの前に立たせたのではないか、という質問だった。
この問いは、わたしたちの文明が深い自己批判なしに存続していけるか否かを問うものであり、自然と共存する新しい方法が必要ではないという認識を迫るものだった。
しかし、10年以上前からグローバリゼーションの理論家たちは、「歴史は終わった」、資本主義の発達はさまざまな改革を経て、最終的にはわたしたいを「アメリカ的幸福」に近づけるという、楽観的な展望を開陳してきた。
ところがわたしたちはたちまち、2001年の9・11の恐るべき事件、2008年の金融危機を経て、2011年3月の日本の破局を経験してしまった。これらの出来事は、わたしたちを文明の完成ではなく、文明の限界の前に立たせたのではないか。p78 ネグリ 「3・11が突きつける問い」
このインタビューは、「世界が日本のことを考えている」 3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ共同通信社( 2012/03 太郎次郎社)の中に「原子力は「怪物(リバイアサン)」である」アントニオ・ネグリ、という文章で残されている。
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