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2015/10/14

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<15>

<14>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<15>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 マルチチュードは無分別な群衆として現れることはありえない。わたしたち個々人の孤独は変容をこうむっているからだ。近代において個人のエネルギーと企業人のヒロイズムが見られた場所には、今日では社会規範に従属した個人の悲しい情熱しかのこっていない。

 個人主義はいまや存在論的に不可能になっている。なぜなら、わたしたちは言語とコミュニケーションのただなかに生きており、豊かな表現と拡張する力を持った特異性は、ものを生産しない個人の暗い内面性という古いかたちに対し、絶対的優位性を獲得しているからだ。p86 ネグリ 「認知労働と協働ネットワークが社会を変えた」

 この辺で、ネグリが何を言おうとしているのかは、さまざまな文脈と、彼流の言葉の使い方、それぞれの定義をより明確しつつ、再検討、再々検討されていかなければならない。それにしても、この辺の「個人主義」と言われているもので、彼は何を言おうとしているのだろうか。

 「ものを生産しない個人の暗い内面性」とマルチチュードは、この地点では反対概念として捉えられている。善し悪しはともかく、当ブログにおける人間像(例えば地球人、とか、地球人スピリットとか・・)とは、かなり距離が隔たっているものだな、と痛感する。

 周囲を見渡せば、子供や老人、一定の障害がある人々を除いて、「ものを生産しない」人々と見られそうな存在は、たしかにいる。ものを生産し得る立場でありながら、個人的な環境にあり、ある意味「ひきこもり」とさえ言えるほどに、「個人の内面性」に入りこんでいるかのようでもある。

 逆にある意味、積極的に個人の内面性(暗いとは決して断定できない)に入ることによって、自らの人間性を完成させようとする流れもある。

 翻って、私はどうなのだろう、と考える。おそらく私は年齢的にもすでに正規雇用者ではないので、いわゆる組織された労働階級ではない。逆にいえば、認知的労働とみられる業務についているわけだし、考えようによっては協働ネットワークに繋がっているので、個人主義的ではあるが、マルチチュードを自称しようとしても、的外れとは言い難いポジションにいる(筈)。

 統治(ガバメント)の諸科学は、まず諸個人を「人口」として構成するとき、個人をより容易に統治できることを学んだ。ついで、諸個人からなる「人口」は、彼らが相互間にむすぶ間主観的関係にはたらきかけるとき、はじめて指導と誘導が可能になることを学んだ。

 さらに良い方法として、最終的には民主主義的なやり方によって、諸々の特性の経済的ニーズと政治的意志を根底部分からとらえ、それを規範として表現するときはじめて指導と誘導が可能になることを学んだのである。p87ネグリ 同上

 分かりにくい翻訳だが、この辺りはネグリも否定的にとらえている部分とみていいのだろう。ガバメントとは、近代国家による一元的統治を意味し、それに対峙する概念としてガバナンスを用い、マルチチュードによる脱中心的で多元的な民主主義を表しているからである。(p49参照)

 マルチチュードのコンセプトは<コモン>というもうひとつのコンセプトと分かちがたく結びついているという点だ。<コモン>とはなによりもまず、わたしたちが現在そのなかで生きており、かつ、わたしたち自信が生み出している生産的全体を意識化することにある。

 <コモン>とは、わたしたちがそのなかに投げ込まれており、かつ、わたしたちが未来に生みだす生産的全体を意識化することにある。無数の特性が交叉し、主体性による生産が集団的プロセスのなかに書き込まれ、<コモン>が形成される。 p88 ネグリ 「<コモン>構築のプロセス」

 この辺も実に夢想的で、性善説にのっとって展開されている論理だと思える。夢想的で性善説で、理想的ですらあることにおいては、わがOshoが展開する世界観とどっこいどっこいだ。

 もちろん、<コモン>を形成すべく無数の特異性の出会いが実現しても、<コモン>の「織物」は生まれないかもしれない。特異な情熱のあいだの架橋は失敗に終わるかもしれないし、共同の生は作り物のアイデンティティやイデオロギー的物神(フェティッシュ)のかたちで、時間と空間のなかに断片化され分散されるかもしれない。

 しかし、この河は流れつづける。たしかにはじめは激しく荒々しい流れとなって。しかし平野に出れば、水は広がり流れは和らいで、<コモン>の相貌を獲得するにいたる。そこに至れば、連帯が支配的になり、根底的なつながりが生まれる。p88 ネグリ 同上

 ここまでくれば、もうすでに政治学者が述べる論理とかではなく、もはや詩人ネグリの希望的楽観論である。しかるに私は、このような詩情をネグリが持っていることに安堵するし、なんとかこの辺りから、さらなる繋がりを見つけることができないか奮闘することになる。

<16>につづく

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