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2015/10/19

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<18>

<17>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<18>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

<応答1> 「社会的なもの」の行方 市川良彦 p104

 ネグリの講演に対して日本側から提示された「応答」の中では最もネグリの哲学よりに発言されたもの。とはいうものの、もっともっと「日本」の実情を語り、その実情にいかにネグリ哲学が対応するかを力説する。

 3・11からの二年間、次第によく耳にするようになった言葉として、次のようなものがあります。街頭デモは議員を選ぶ投票行為とならぶ、もう一つの「主権的」行為だ。想定を超える出来事に遭遇して国家が機能不全に陥っているとき、選挙を待っていられないとき、あるいは結局のところ様々に相反する利害を反映-調停することしかできない選挙には多くを期待できないとき、街頭から国家を動かすことは必要かつ健全な民主主義のあり方であり、国民の主権行為の一形態だ、という主張です。p106市川 「『市民社会』と『討議民主主義』」

 今年夏の戦争法案廃棄デモも、これらの主張に連なる動きとみることができる。しかしながら、現在、私たちの国は代議民主主義を採用しているのであり、国会前がいかに騒々しいとは言っても、国会内の議決による議決が先行するシステムである。

 ここでは、投票率を上げる、あるいは投票に行けば事足りる、と考える「代表される人間」であることで事足りるとする時代は次第の終わっているのかもしれない。国会といわず、街々の路上にでてこそ意志を表示すべき時代がやってきたのかもしれない。

 今日、「成長」路線の実体はコモンの破壊です。だとすれば、「社会的なもの」をめぐるマルチチュードの立場とは、負ならぬ正のコモンの建設によって、つまり共有財産の拡大によって、この破壊に抗(あらが)うことであるでしょう。ストックされた「財産」として私有された富を共有化する方策を想定すべきでしょう。p119市川 「『公共財』の奪還闘争とマルチチュード」

 最近になって、ようやく「コモン」が<帝国>やマルチチュードと並び立つ重要なネグリ三要素であることを「発見」した当ブログとしては、急いでこの部分を読みこまなければならない。コモンはコミューンにつらなる類似あるいは近似概念であるとするならば、Oshoの「コミューン」と対峙しつつ、引き寄せつつ解読する必要がある。すくなくともここでの市川の理解では、より物質化された経済観念に偏りすぎているように思われる。

<応答2> 日本のマルチチュード 上野千鶴子 p120

 ここの文章は、「現代思想」 (2013年7月号 特集=ネグリ+ハート 〈帝国〉・マルチチュード・コモンウェルス)に収録されている文章とほぼ同等の内容である。文末の調子や、広範の女性たちの活動などに対する補強はあるが、趣旨としては同じことと言えよう。

 マルクス主義の「生産」や「労働」の概念が失効したあと、ネグリの概念にわたしたちが期待するのは、それが抽象度の高い概念でありながら、現実に起きている変化を言い当てるリアリティをも備えているからである。p124上野 「社会的弱者のための<共>」 

 上野は常に女性に寄り添い、女性の立場から発言しつづけてきた、ある意味、女性を「代表」するような論客ではあるが、常に、具体的な生活レベルまで降りてくるところに、彼女の特性がある。

 ネグリの最初の来日が決まったとき、日本に来たら「日本のマルチチュード」に会いたいという意向を持っていることを知った。(中略)もしわたしなら、彼を、そういう女性たちが始めた社会的企業の現場へ連れていくだろう。p125上野 同上

 いかにも上野らしい発言と納得する。しかしながら、この時の女性たちに限らず、はて、日本において、「われこそはマルチチュード」という形で活動している人びとは、国会前デモを始めとして、どれだけいることだろうか。

 ある種の動きを、「外」から、あれこれ解釈することは可能であろうが、自らの動きを明瞭にマルチチュードとしての活動であると宣言している人びとはどれだけいるだろう。そこには、どのような世界観が展開していることだろう。

<応答3> 3・11以降の反原発運動に見る政治と文化 毛利嘉孝 p139

 この人の趣旨は、今回のこの応答の三人の中では、私の言葉使いや解釈に最も近い。なるほど、私の理解でいいのだ、と納得する部分も多い。しかしながら、そこにもまた、あらたなる落とし穴がある。

 ソーシャルメディアの情報ネットワークは多くの場合、個人ごとに編成されるので、ひとたび特定のクラスターに属してしまうと、異なるクラスターの情報から遮断されてしまいがちです。メディアは、人を繋げる機能もありますが、同時に人を分断する機能もあるのです。p154 毛利「3・11意向の反原発運動の可能性と問題点」 

 こうしてみると、この著者と私は、わりと近いクラスターに属していた可能性が高いかも、と言えるだろう。いつも不思議に思うのは、例えば反自民党が私の回りでは100%なのに、自民に有利に選挙が展開したり、反原発が100%なのに原発が再稼働したりすることである。これは、そのようなクラスターの下部にまで落ちていって見聞を広げているために、私には、他の意見が届きにくくなっている、とさえいえるだろう。

 長く日本の戦後を支えてきた、安定的な中流階級の幻想が打ち砕かれる中で、社会に対して批判的な視線をもつ新しい政治的主体が登場したのです。そこには、ミュージシャンやDJ、編集者やライター、アーティストやデザイナー、イラストレーターなどさまざまなクリエティブ産業、文化産業、メディア産業で働く労働者--「認知的プレカリアート」が多く含まれています。もちろん、ここに「マルチチュード」という言葉を重ね合わせることはそれほど難しくはありません。p148 毛利「3・11以降の反原発運動を文脈化する」

 まさに私のマルチチュードのイメージであり、国会前デモの認識である。ここでは「認知的マルチチュード」が主に置かれているが、上の上野千鶴子のように「情動的マルチチュード」たちの動きにも、もっともっと光を当てなければならない。

 この新しい国家資本主義は、もはや合意形成に頼ることはありません。むしろ、緊急性、非常事態を旗印に、「合意形成をしない」ということを最大の特徴としています。この時に用いられるのは国家の危機というレトリックです。p156毛利「3・11意向の反原発運動の可能性と問題点」

 まさにその通りの事態がどんどん進行している。ある意味、とても恐ろしい時代である。

 反原発運動をネグリが論じてきたさまざまなグローバルな対抗運動の文脈の中で捉え直すことは決して無駄ではないでしょう。(中略)ネグリの理論を通じてではなく、ネグリの傍らで反原発運動を考えること。私は、このことが、新しい政治的連帯にとってとても重要なことに思えるのです。p159毛利 「ネグリの傍らで反原発運動を考える」 

 まさに正論。国会前反戦争デモを見ながら、マルチチュード的にとらえ直そうとするのは、こちらの認知的衝動なのであって、彼らに、マルチチュード的自覚を求めようとするのは、やや妥当性が欠けるのだ、と理解しておこう。

<19>へつづく

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