「ボタニカル・ライフ―植物生活」 いとう せいこう<2>
「ボタニカル・ライフ―植物生活」 <2>
いとう せいこう 1999/03 紀伊国屋書店 単行本 p274 2004/02 新潮社 文庫p399
★★★★★
前回は2004年発行の文庫本を手にしたが、今回は1999年の初版をめくってみた。もともとは著者自らのサイト・マガジン等で1997/04~1998/03まで連載され、一部雑誌「ガーデン・ライフ」に連載された一連のエッセイをひとまとめにして1999年に刊行されたものである。
NHKBSテレビ番組「植物男子ベランダー」をたまたま見てしまい、それ以降は病みつきになってしまった。1994年にシーズン1、1995年にシーズン2が放映され、私はそれを順不同ながら、大体一通りみたが、それでもほとぼりがさめず、ネットであちこちに合法か非合法かしらないが、散見される動画を探し出しては、何度も見ている。
見るたび、なんでこの番組はこんなに面白いのだろう、と考えたがよくわからなかった。他人のエッセイや小説を読むことはあまり得意ではないので、原作としてこちらがあることは分かっていたが、どうも面倒くさいので、読まずに動画ばかりみていた。本の朗読動画というものもあるので、そちらにも手をだし、こちらも面白かった。
今回、現在進行中の「ボタニカル・スピリチュアリティ」カテゴリを締めるにあたり、重い腰を上げて、こちらの原作を一通り読んでみることにした。そして分かった。なぜ、あのテレビ番組が面白いかが。それは、当たり前に単純な答えだった。原作が面白いからである。
小説がテレビ化されたら、そこには多くの脚色が含まれており、またキャラクターは登場する役者たちの演技力で大きく左右される。このテレビ番組は、大方、かなり脚色されたものであろうと、タカをくくっていた。
しかしながら、こちらの原作を一読して分かったことは、良くも悪くも、この原作があったればこそのテレビ番組なのだった。だから、あの田口トモロヲ演じるベランダーは、大きくいとうせいこうの実存に大きく影響されているのだった。
私は、この番組をもっと見たいなぁ、と思って、来年もぜひシーズン3をやってほしいと願っているものだが、しかし、ある意味において、その世界の可能性と限界も、この原作を読んで分かってしまった気がする。
言っておくが、ベランダーは単に都会の趣味人ではない。空を共有する世界の労働者諸君と連帯をしているのである。このことを忘れてもらっては困る。だからこそ俺は、トロ箱に荷物を入れ、各地の道路を不法占拠するばばあどもにエールを送っているのである。
階級をわきまえずエセガーデナー気分にひたる日本の頭の悪いプチブルどもと我々は、敵対関係にあるのだ。
これがベランダー思想というものである。植物主義は幻想を許さない。植物たちを通して社会的現実を凝視し、自らの立場を鮮明にし続ける。
だからハーブは、俺たちのシンボルでもあるのだ。p211いとう「ハーブ すました雑草」
洒脱に筆の走る著者であるが、どこまでがシャレでどこまでが本気なのかは、簡単に一線を区切ることはできない。しかし、この冗漫な洒落口と、どこか本音が入り混じった文章の中に、都会のマンションで暮らすバツイチ中年の真摯な本音が混じる。
私は都会で暮らしていないし、マンションで暮らしたこともない。最適なベランダを探して引っ越しを続けたこともないし、幸い、カタチとしてはバツイチというライフスタイルにはなっていない。むしろ孫たちと暮らす大家族でギュウギュウ詰めで暮らしているのが実態である。
だから、わがボタニカルライフ、などとこちら本家の言葉を借りて、連載ブログを書いていたとしても、かなりの差があることがわかった。まぁ、これでいいのだ。だから、そういった意味においては限界を知ることができた。
そしてまた、著者が「べランダーは単に都会の趣味人ではない。空を共有する世界の労働者諸君と連帯をしているのである。このことを忘れてもらっては困る。」などと洒落る時、私は、村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」のなかの一説を思い出す。
走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空は空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体でないものだ。僕らはそのような茫然とした容物(いれもの)の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」p32
おそらく、男のハーブ道だろうが、マラソン道だろうが、ひとつの「空」に通じているのである。
当ブログは、アントニオ・ネグリを迎えて、その「コモン」を「コミューン」と読み替えてみる作業に着手しつつある。そして、おそらくそれは、「空」なのだ、と閃くことができた一冊でもあった。
おなじ名前なのに、いままで著者の本を一冊も読んだことがなかった。いちど、なにかのシンポジウムで一人のパネラーとしての生の著者を拝見しただけである。今後、数ある著者の類書や、著者が師と仰ぐカレル・チャペック「園芸家の一年」などにに目を通すかどうかは、微妙なところだ。
1961年生まれの著者30代半ばの、相当に油の乗り切った若々しい時代の作品である。
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