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2015/10/03

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<2>

<1>からつづく 

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「ネグリ、日本と向き合う」
<2>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

1)互いの「力能」を減ずることなく、それを互いに増大させる、関係制に開かれた「衝動」や「欲望」を解放すること、それをネグリは「<生>をまるごと享受すること」と指摘し、「絶対的に革命的なことは、人間的経験の総体を生きようとすることにほかならない」(「ネグリ 生政治的自伝」邦訳p37)と述べるのである。

 スピノザ的な<生>の肯定、それがマルチチュードの核心にある。だからこそ、マルチチュードは、スピノザの言う意味での生きる「喜び」を減退させ、<生>を外的な規範や制度に馴致(じゅんち)する「権力」には敵対し、「共」(common)を「私的なもの」に囲い込み市場化する「権力」に抗して、特異性を保持しつつ共同の活動を推し進める能動的な力能---制度的権力を掘り崩す構成的権力---の主体として生成する。p20伊藤守「アントニオ・ネグリの現在」

2)はてさて、このたった数行の一文ですら、キチンとした日本語になっているのかどうか定かではないが、「絶対的に革命的なことは、人間的経験の総体を生きようとすることにほかならない」なんてあたりは、ある意味、わがマスターOsho言うところのゾルバ・ザ・ブッダ的人生観とでもいうことが可能だろう。

3)スピノザについては、当ブログでもおっとり刀で読み込みはしてみたものの、なまくら刀ではななかなか歯がたたないことはわかった。しかしながら、ひとりひとりの人生にもどるなら、なにも、スピノザを読みこなせなくても、人間的経験の総体を生きようとすることは、決して難しいことではない筈だ。

4)ネグリの論考から、私は、日本をめぐる彼の思索がより一層深く、より明晰になった、という印象を受けた。ネグリは問いかける。日本の超近代性と伝統の深い力、その両者を同時に可能にしているものは何か、と。

 その両者の結び付きが、高度な生産性と「共に生きる力」との有機的な連結をもたらす可能性を否定すべきではない。

 だが、いま、多くの市民が原発の吐きを望むなか、安倍政権が誕生し、その下で原発再稼働への動きや保守的な外交政策が推進されている事態は、「『原子力国家』の技術的機能による、絶対的主権の伝統の更新」ではないか。

 それが正しい認識であるとすれば、日本社会を覆う社会的断絶や格差、東アジアにおける緊張と不安、これらを解決に導くことなどできない。ネグリは私たちにそう訴えている。p25伊藤 同上

5)ちょっくらまどろっこしいが、早い話は、日本は原発を廃して、近隣となかよくやっていく道を探したら、どうですか、とネグリが言ってますよ、ということだ。

6)ところで、ここで生じる最初の問題は、今日展開されている太平洋の理バランス・ゲームに日本が参加するかどうか、参加するとsるえば日本の機能は何か、ということである。

 もちろん、軍事的観点も含めて、日本が新しい主役として登場するという仮説にはあ、アジア諸国から葛藤に満ちた反発があることを忘れるわけにはいかない。

 しかし、日本の内部にも看過できない困難が山積している。少子高齢化、経済産業上の危機、そして言うまでもなくフクシマの原発事故の後遺症である。p43伊藤 同上

7)日本は戦争を語る時、被害者としての立場を強調する嫌いがあり、アジア全体から見た場合、あまりにも極端に加害者意識を持っていない。9条の縛りで抑制のきいた近隣外交を続けてきた70年の歴史から、一歩まちがえば、またまた一億火宅の人になりかねない危険性と隣り合わせであるのだ。そして、悪政の当事者たちは、内政の矛盾をごまかすために、外交へと目を向けさせるのが、世の常である。

8)認知資本主義のもとで行なわれる非物質的労働について、当初、ネグリの念頭にあったものは、彼の用語によれば認知的労働、いわゆる知識労働に従事するIT技術者や金融トレーダーのような「知的労働者エリート」であったようだ[平田2013]。だが、もう一方で彼は非物質的労働に「情動労働」をつけくわえるのを忘れない。 

 ソフト化エコノミーは、情報とサービス、その両方を主要な産業として生みだした。ネグリによれば情動労働とは「精神と身体の両方に等しく」作用する、「安心感や幸福感、満足、興奮、情熱といった情動を生み出したり操作したりする労働」[ネグリ&ハート(上):185]を指す。p129「『3・11後の日本』と向き合う」

9)このあたりを読んでいて、私は自分が昔書いた文章を思い出していた。脈略は違うのだが、この本と当ブログを繋ぐには適当な部分だな、と思ったので、当時の文章をそのまま転記しておくことにする。

10)ひょんなことで始まった当ブログの読書ノートだったが、進行のプロセスにおいて、科学、芸術、意識の三分野の統合的人間、という意味で、プログラマ、ジャーナリスト、カウンセラー、という現代的職業要素の三面から点検をしていた時期があった。

 養老孟司バカの壁」、 レイ・カーツワイルの「スピリチュアル・マシーン」や神田敏晶「ウェブ3.0型社会」、デボラ・ブラム「幽霊を捕まえようとした科学者たち」、桧垣立哉「生と権力の哲学」、ジェームズ・レッドフィール 「新しき流れの中へ」、などなどを読みながら、何回も繰り返し考えてきた。

 その三つの職業はより詳しくは次のように形容しておいた。

1)グローバル社会に対応する創造的なプログラマー
2)マルチな表現を理解する瞑想的なジャーナリスト
3)転生輪廻を自らの体験として理解する精神的なカウンセラー

 この現代を象徴するような職業像は、また、自分自身のなりたい自画像の反映であっただろうと思う。ある意味での自己実現の姿だ。なれるものならなってみたい。もちろん、多くの現代人たちがすでにこのような姿で働いているはずだ。でも、自分がなれるとしたら、かなり限定されてくるなぁ、と思われてきた。

 まず、1)グローバル社会に対応する創造的なプログラマー、という時、頭の中には、リナックスな人々の中で生きていく、難解なアナロジーを自由に使いこなしていくようなクールな現代人のイメージがあった。そうだったらいいのにな、の世界ではあるが、時代はどんどん進んでしまって、リナックスどころか、ネット環境に対応するだけでも精一杯という感じになってしまった。ケータイの世界やiPodやらiTuneやらと、やたらと時代は進化する。リナックスのプログラミングどころか、パソコン一台で日常の仕事をこなすのがせいいっぱい、という感じになってきた。われながら、老いを感じるw。

 つぎなる、2)マルチな表現を理解する瞑想的なジャーナリスト、だが、これもまた、なんだか形容矛盾でいまいちはっきりしないイメージではあった。つまりは、小学生のころにガリ版で学級新聞をつくってクラスメイトの情報係をやっていた感覚で、ブログを始めてみて、これはいけるぞ、と思って、ブログジャーナリズムとやらに、すこしは夢を馳せてみたのだった。しかし、「ブログ論壇の誕生」などを読むまでもなく、ブログはブログとしての機能は素晴らしいのだが、実際に個人ブログが、社会的に大きな力を単独で持つなんてことは、ほとんどありえないということが次第に痛感されるようになってきた。

 さて、残る、3)転生輪廻を自らの体験として理解する精神的なカウンセラー、だが、これは割と最後まで生き伸び続けてきている。特にこの春からのチベット問題=FREE-TIBETムーブメントの盛りあがりのなか、チベット密教にふかく入り込もうとした時、いまのままの三分の一的探究の仕方では追いつかないぞ、と思った。その時に、1)や2)の人間像をすてて、3)に集中してみようじゃないか、という気分になってきた。これはまだなかなか可能性がありそうである。

 トランスパーソナルな流れなかでスタニスラフ・グロフのマトリックス理論をながめたり、「高僧謁見記」を再読したり、津田真一の「反密教学」や、杉木恒彦「サンヴァラ系密教の諸相」などを見るにつけ、なにかの骨格ができあがり、次第次第に部分部分の肉付けが始まっているような感覚が湧いてきた。

 さてさて、3)転生輪廻を自らの体験として理解する精神的なカウンセラー、というテーマだが、さらにここから、こまかく分解して、ていねいに見ていく必要がある。

a,転生輪廻、とはなにか
b,自ら体験する、とはなにか
c,理解、とはなにか
d,精神的、とはなにか
e,カウンセラーとはなにか

 まず、b、自ら体験する、についてだが、プログラマであろうとジャーナリストであろうと、自らが体験すること自体は当たり前のことであり、体験的でなければ、意味がない。当然のこととしてある。

 c、理解、については体験を十分に自分なりに消化して血肉にするということだから、時間をかけて熟練していけば、そのような帰結は、これまた当然のことであろうと思われる。

 d、精神的とは、つまりスピリチュアルということであろうから、規定はあいまいであろうと、つまりそういうことだ、と、暗黙の了解を得やすい。自分自身でもなんとなく分かったような気になれる。

 さてここまで来て、残る二つはなかなか難しい。難しいのは、この二つが、両極にあるからだ。つまり、e,カウンセラーとは、もろに職業的役割を意味し、自分のイメージや考えだけでは成立しない世界に立たされているということだ。クライエントがいてこそ成立し、また、現実にその行為があってこそ自らの存在が、そのように形容し得るのである。しかしながら、カウンセラーという名刺を作り、看板をかかげ、HPを作成して、クライエントとの出会いを待ち、それ相応の関係をつくることは、現実的に、難しいことではない。むしろおおいにあり得ることだし、経験もある。だから、ここまでは解決可能としておこう。

 さて、a,転生輪廻だが、これは扱いが相当に難しい。キューブラ・ロスやスタニスラフ・グロフたちの先見的な研究は大いに力にはなるが、しかし、「科学的に証明」したことにはならず、また、密教的秘儀をもってして「自ら体験し理解」することが可能であっても、クライエントとどのように理解しあい、受容しあうかというテーマになると、ほとんど不可能ということになる。あくまでも主観的な感覚となる。

 しかし、ここからは覚えたての言葉でいえば、マナ識やアラヤ識の理解を深める、つまり瞑想する、ということなのだが、これらについての理解が互いに深まっていった場合、カウンセラーとクライエントという立場に限らず、二つの魂、あるいは、複数の魂、あるいはもっと大きな魂のプールのなかで、同時的な理解、つまりシンクロニシティーが起きる可能性は十分あるのである。あるいは、そうあってほしい、ないしは、そうあるべきである、という思いが強まる。

 当ブログは、世界の各地で起きている経済的情報や政治的事件をジャーナリスティックに報道するような参加のしかたはできないだろうが、しかし、魂のプロセスにおける同時性、そしてその進行具合については、多少はスピリチュアルな瞑想的ジャーナリストとして振る舞うことができるのではないだろうか、と思えてくる。

 さらに言えば、アラヤ識が宇宙の意識の巨大なライブラリーやアーカイブスだとするなら、現在インターネット上で行われている情報の集積と利用可能領域の拡大は、実はほんの序の口であり、さらなる展開がありうるのだとした場合、ビジョンとして、プログラマ的センスで、次なる展開を提案し得るのではないか、という可能性も見えてくる。

 そうなってくると、結局は、プログラマ、ジャーナリスト、カウンセラーという三面的要素は、ふたたび結合しうるのであって、ここまでくればめでたしめでたし、という結果になるのではないか・・・・・・。

 などなど、この「魂のプロセス」を読みながら考えていた。Bhavesh 2008/12/14

11)今日のところは、プログラマーの権化はスティーブ・ジョブズと見、カウンセラーの権化はダライ・ラマと見立てた。さて、ジャーナリストとは誰だろうと、いろいろ逡巡してみたが、それこそアントニオ・ネグリでいいじゃないか、と府に落ちるところがある。

<3>につづく

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