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2015/10/20

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<20>

<19>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<20>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 こうした偏更偏流にたいするオルタナティブはあるのか。これこそ、わたしが日本滞在中に友人や同僚たちと議論した中心テーマだった。答えはイエス、オルタナティブが可能であることは明らかだ。しかしオルタナティブは、国家構造に対する民主的な反抗を通してだけではなく、労働者が諸々の技術を自分のものにする再所有化と再価値化を通したオルタナティブである。

 これは、ポスト産業化時代における新しい編成の労働力、より非物質的でより認知的になった労働力によって可能になる転換である。非物質的で認知的労働のオペレーターたちによって可能になる転換と言ってもいい。p166ネグリ 「原発危機をめぐって」

 ここで簡単にオルタナティブはイエスである、と断言することは本当は難しいのであろうが、ここでイエスと言わなければ、ネグリのネグリたる意味がないだろう。

 第一の波の農業においてのコモンが、農地の共有化でありそれは農村の構造にヒントがあっただろう。第二の波の工業においては、工場がそのコモンの目標になった。労働者たちの組合活動などが、大きな力を持ってきたことは確かなことだ。

 しかし、今、第三の波、情報の時代におけるコモンとは何か。ウィキペディアのような衆合知をいうのか、フリーソフトウェアのような技術のオープン化をいうのか、ツイッターやフェイスブックの時間や情報の共有のようなことを言っているのであろうか。

 少なくとも、ここでネグリが最終的に宮崎駿の「風たちぬ」を結句としているところを見ると、技術を国家の爆撃機の為に使うのではなく、大きなあの青空を飛ぶ、そのことのために技術をわがものとして奪還することでもあるようだ。

 短い日本滞在中に、反原発・脱原発の集会やデモに参加し、人々と議論できたのは、わたしにとって感動的な経験であった。多様なかたちで市民の抗議が政治的討議と結びついていることをこの目で見たからである。(中略)

 行動のルーチン的儀式性を越えて、彼らから湧き出る力は信じがたいほどのものだった。そのことをこの目で見、理解することが重要であった。p174 ネグリ「なぜフクシマのあとに安倍政権か」

 これは反原発に限らず、ここから繋がる反戦争法案の街頭デモなどにも言えるだろう。少なくともネグリがこのように表現している限り、ネグリの側からは、これらの動きを「マルチチュード」と捉えてしかるべき動きである、と断定してもいいだろう。

 アメリカ帝国の衰退を説明する要素は多々あるが、ここでは逐一取り上げるゆとりはない。わたしたちの関心の中心は、ガタがきたワシントンの力を強化するアメリカの試みが、現在は極力、日本との関係で行なわれていることだ。ヨーロッパは、いわばその固有の運命に打ち捨てられているかのようだ。ヨーロッパは自分の運命を自分でコントロールできるだろうか。そして日本は、アメリカの提案を歓迎するだろうか。p174 ネグリ「戦争と平和の問題」

 現安倍政権の数々の嘘は聞きあきたが、すでにネグリでさえ(笑)このように指摘しているアメリカと日本の関係に、さまざまな嘘をつきつつ、ずぶずぶの関係にハマっていく姿を、私たちは黙って見ているしかないのだろうか。

 ポスト工業化時代を特徴づける生産力および生産力の社会化の進展によって、人間精神もまた大きく発達した。科学は労働世界によって吸収され、生産のための協力は社会的次元を獲得している。労働は社会的に生産する。それは、工場のなかに閉じ込められて生産するのではなく、社会全体の活動を通して生産するということだ。

 つまり、逆説的なことに、搾取される立場の労働者が技術を自分のものにすることが、可能になるのだ。こうして、社会全体をカバーするまで協力が拡大されていく。p180 ネグリ「原子力国家の支配に対する抵抗」

 かつて、農地のコモン化や工場のコモン化が意味したものが、現代のグローバル情報時代においては、社会そのものがコモン化していくのだ、というのは、相当に面白い。現実味はどこまであるだろう。

 核エネルギーがテクノロジーを支配するとき、闘争は死を賭したものになる。それは闘争のアクターの双方にとって致命的なものになる。しかしながらわたしたちは賭けている。生きた労働が、一切の資本の包摂から解き放たれて、固定資本の主要部分をふたたび自分のものにすることができる、固定資本が使うテクノロジーを解放する道具にすることができることに賭けている。181 ネグリ 同上

 原子力エネルギーの技術を搾取されるのではなく、自分のものにする、という時、例えば私などは、小出裕章氏のような人物像を連想する。

<21>へつづく 

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