« 「ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか」 伊藤 守 | トップページ | 「植物男子ベランダー」<4> »

2015/10/20

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<21>

<20>からつづく
81iaqltrs5l
「ネグリ、日本と向き合う」
<21>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 「原子力--主権国家体制」の行方 白井 聡 p185

 タイトルの如く、かならずしもこの本の「ネグリ、日本と向き合う」という時事的話題に語っている部分ではないが、ネグリがいうとこの「原子力国家」というものを、他の文脈を交えながら、いかに国家と原子力が深く結びついてきたかについて、メモしている。このあたりの認識を「コモン」しよう、という大掛かりで、かつ、分かりやすい説明。

 かつてロベルト・ユンクは、その原子力批判の古典において原子力利用を推進する体制を「原子力帝国」と名づけた。

 原子力はそれ自体で孤立的に発展してきたテクノロジーなのではなく、それはある特定の国家体制のなかでのみ発生し、発展することができ、さらにそれは自らを生んだ体制の在り方に大きな影響を及ぼすに至る、ちう洞察がこのネーミングに含まれている。p186白井「はじめに」

 この人の文章はセンテンスが長々しいのが難点だが、言っていることは実に分かりやすい。

 (ネグリとハートは)<帝国>とは特定の主権国家を指すものではなく、従来の、国家を絶対的中心とする権力によって構成されるものとは異なる世界秩序の在り様、すなわち、国家に加えて超国家的な諸制度や多国籍企業等が織りなす「ネットワーク上の権力」を指すものである、と主張したのである。p191「主権国家の成立・変容と核開発」

 なんどもなんども、似たようなフレーズを聞いているうちに、次第次第に、そのイメージが固まってきた。

 2011年の3・11福島第一原発事故の衝撃は、ドイツおよびイタリアの脱原発の決断という大きな副次的作用をもたらした。脱原発を決断できた両国が旧枢軸国であり、核兵器を持たない(持てない)国であるという事実は偶然ではないだろう。p194「リヴァイアサンのテクノロジーとしての原子力」

 テーマそのものは、当ブログの関心からやや外れて、世界の国家間の力学に入っていき、権力を持たない一人間としては、このような話を聞きすぎると、無力感に襲われて、もう関係ないや、となりそうだ。この辺あたりから、マルチチュードへと話を戻していかなければならない。

 絶対的民主主義への道はどこに? 大澤真幸 p209

 <帝国>に対するところの、マルチチュードとは何か。ネグリとハートは、スピノザから借用したというこの概念を明確には定義していない。彼らの記述を総合的に解釈するならば、マルチチュードとは、この世界を構成する異種混交的な群衆のことであり、最も広い意味での労働する主体のことである。擁するに、マルチチュードとは、現代版のプロレタリア―トである。p211大澤「<帝国>VSマルチチュード」

 ちょっと残念な部分である。このように理解されれば、もう当ブログとのオーバーラップからはどんどん遠ざかっていく。このように解釈することが一般的なのであるならば、それに従うしかないが、当ブログは、この読みではなく、もっとネグリ流の新概念に沿った理解をしたい。

 ネグリとハートは、三部作の全体を通じて、資本主義に対して両極的な態度を示しており、両者の間を揺れている。一方には、もちろん、「一者」へと統一する資本主義的権力(つまり<帝国>と多様でリゾーム状のマルチチュードが闘争している、という像がある。

 先に述べたように、この構図は、「<帝国>」の基本的な軸になっている。しかし、他方では、彼らは、グローバルな資本主義が持っている解放的なポテンシャルに強い魅力を感じている。p217 大澤

 なかなか面白そうな一稿なのだが、どうも話題が他に飛びやすい。この本に沿って「ネグリ、日本に向き合う」と、そのテーマにもどりたいのだ。

 2011年3月11日、日本人は、大津波とともに、大規模な原発事故を経験した。それから3年が経過するのに、日本人は、未だに、断固として原発を放棄することができない。この問題について、ネグリも、「日本の友人」の示唆に基づきながら考えている。

 どうして、日本人は、優柔不断なのか。もし、これが単純に利害打算の問題であるならば、この優柔不断さの原因は、日本人がただ愚かだからだ、ということに尽きる。(後略)p229 大澤

 ああ、ここまで読んできて飽きてしまった。このような日本人論は、当ブログの好みではない。巻末の白井と大澤の論文は、付け足しのように思える。少なくともこの本の本来の趣旨の柱ではない。むしろ、ネグリを初めて読むような人への参考として書かれているかのようだ。

 しかしそれにしても、このような紹介なら、私ならますますネグリ&ハートが嫌いになるだろう。何かが違う。

 そのうち、またこの本を最初から読みなおしてみる予定だ。なぜ、この二人の論文が「つまらないのか」、もうすこし多面的に考えてみる。それは後日のことだ~~

<22>につづく

|

« 「ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか」 伊藤 守 | トップページ | 「植物男子ベランダー」<4> »

16)ボタニカル・スピリチュアリティ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<21>:

« 「ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか」 伊藤 守 | トップページ | 「植物男子ベランダー」<4> »