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2015/10/08

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<9>

<8>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<9>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 「<帝国>」の主題をネグリはその冒頭ではっきりと述べている。すなわち、

「市場と生産回路のグローバル化に伴い、グローバルな秩序、支配の新たな論理と構造、ひと言でいえば新たな主権の形態が出現しているのだ。<帝国>とは、これらグローバルな交換を有効に調整する政治的主体のことであり、この世界を統治している主権的権力のことである」「<帝国>」邦訳3ページ」

と。つまり、<帝国>とは、支配的な国民国家や、世界銀行など超国家的政治的・経済的諸機関、グローバルに展開する多国籍企業、そして各種のNGOやメディア・コングロマリットなどを水平的に接合した脱中心的で脱領土的なネットワーク上の権力と考えられている。p17 伊藤守 「グローバル権力とマルチチュード」

 今回の日本の戦争法案や太平洋に面した国家間の経済的交渉TPPなども、「<帝国>」へつながる大きな動きではあろうが、水平的に接合した脱中心的で脱領土的なネットワーク上の権力、とまでは言いきれていないだろう。まだまだ弱肉強食で生き残ろうとする「中心」指向を持った国家なり企業なりが暗躍する。つまり、「<帝国>」へ向けて、権力構造は完成しているわけではないが、まだまだその途上である、とみたほうがいいようだ。

 グローバル化した市場と生産回路のもとに出現した<帝国>に抗して、知的労働やjコミュニケーション、そしてその果実を分かち合い「共有財」「共」(commom)とするための社会的関係や民主的なネットワークはいかに構想できるのであろうか。ここで、ネグリとハートが、スピノザの思想の大胆な試みを介して提起したのが「マルチチュード」(miltitude)という概念である。p18 伊藤 同上

 ここに書かれているあり様の原型となるものは、おそらく、リチャード・ストールマン「フリーソフトウェアと自由な社会」( 2003/05 アスキー)たちが影響を与えたリナックス「運動」の果実のことが念頭にあっただろう。リーナス・トーバルスが立ち上げに成功したリナックスは、90年代半ばにおいては一世を風靡していた。

 そのリナックスは、現在グーグルのアンドロイドなどに受けつがれているわけだし、オープンソース運動はそれなりの成果を上げていることはまちがないないのだが、マルチチュード側というより、グローバルに展開する多国籍企業的ニュアンスを持ってさえいる現在である。

 当ブログとしては、逆にこの初期のリナックス的側面を多大に評価して受容したからこそ、ネグリ&ハートのマルチチュードの概念に惹かれたわけだが、はてさて、2015年の現在、もうすこし細かく検証される必要があるだろう。

 また、このリナックス的成功例に匹敵するような他のケースがあるのかどうか私は知らない。つまり、一面的成功例を取り上げて、全てがそうなるような幻想を持ってしまっている危険性もあるし、マルチチュードとは、一体何か、という問いはますます深まる。

 マルチチュードは「統一化されることなく、あくまで複数の多様な存在であり続け」、その差異が決して同じものに還元できない社会的主体」(マルチチュード(上)邦訳171p)を意味する。

 しかし、その「差異」の強調は、マルチチュードが孤立した(solitude)「個」であることを意味しない。彼らは「特異性同志が共有するもの(common)に基づいて行動する、機能的な社会的主体」(同掲、172p)だからである。p18伊藤 同上

 ここが、ネグリ&ハートと、当ブログが大きく分かれる分かれ道である。当ブログは当然のごとくOshoに影響されており、「個」を強調する。一人の人間として生きる道を、時にOshoはソリタリー・バードとさえ表現する。

 ここに大きなパラドックスが存在しているのだが、「特異性同志が共有するもの(common)に基づいて行動する、機能的な社会的主体」という文脈は、Oshoは無視する。ないしは、この時の共有するもの(common)を、「社会的」なものとしては存在し得ないとする。それぞれが内面に向かった時に、均質なものとして存在する絶対的な「無」あるいは「空」を、Oshoは絶対的な「共」とするのである。

 だから、もしこの時、ネグリ&ハートのいうところのマルチチュードが内面に向かい、無や空を「社会的主体」とまで昇華しうるのであれば、ここにマルチチュードとサニヤシンの差異は限りなくゼロに近づいていく。

 ネグリ(とハート)によるこうしたマルチチュードの概念規定のベースには、政治的活動家としての過酷な闘争の経験とスピノザ思想の読解が交叉する地点に成立した、彼独自の人間観がある。そう私は考えている、それは、ネグリの言葉を引用するなら、「ギリシャ人がビオス(bios)と呼んだもの、つまり<生>をまるごと享受すること」「ネグリ 生政治的自伝」邦訳37p)への絶対的な信頼である。p19伊藤 同上

 Oshoがいうところの、<生>をまるごと教授する、「ゾルバ・ザ・ブッダ」という概念は、その半分を「ギリシャ人ゾルバ」 (邦題「その男ゾルバ」に借りている。

 だから、ここまで視る限り、ネグリ&ハートの思索の「差異」はほとんどなく、互いに「共(コモン)」を確認できるギリギリのところまで歩み寄っている、ということになる。

 さてここでいうところのOshoがその半分概念としている「ブッダ」の意味を、ネグリ&ハートは、西洋キリスト教社会における「異端者」スピノザに求めていく。

 スピノザは「エチカ」のなかで「私たちはあらゆるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し、意志し、衝動を感じ、欲望するものではなく、反対に、あらゆるものへの努力し、意志し、衝動を感じ、欲望するがゆえにそのものを善と判断する」(「エチカ(上)」邦訳179)と述べた。

 すなわちスピノザは、善悪の根拠を外部に求めることを拒否し、あくまで<生>を維持し展開する力能である「衝動」や「意志」に内在するかたちで善悪を判断することを主張する。ネグリはこのスピノザ的な<生>を肯定し継承する。

 しかも重要なのは、「この生命力が、身体において、より全面的に展開する過程で生ずる感情にほかならない「喜び」が、一個体に閉じられたものではなく、他の身体や魂との関係のなかで、互いの「力量」を減ずることなく、それを互いに増大させるような関係性に根差している、という点にある。p19 伊藤 同上

 つまり、Oshoは限りなくブッタの境地を言葉を使って指し示そうとし、スピノザは言葉を使って限りなくない面に向かい、キリスト教社会的善悪を越えた境地に辿り着こうとする。

 ここでふたつの「思想」を比較しても、本当は意味がない。これら二つの潮流の思想を、現代に生きる私たち、あるいは私が、どのように受け取り、自らをどのように理解するかに、ウェイトをかけるべきだ。

 つまり、街頭にでていく人々をネグリ&ハートが「マルチチュード」と呼んだとしても、その人々がそう自分たちを自覚しなければ、マルチチュードは存在しないことになる。あるいはOshoの影響を受けた人々がサニヤシンとして、街頭にでていき、「社会的主体」となることもあり得るのだ。

 互いの「力能」を減ずることなく、それを互いに増大させる、関係制に開かれた「衝動」や「欲望」を解放すること、それをネグリは「<生>をまるごと享受すること」と指摘し、「絶対的に革命的なことは、人間的経験の総体を生きようとすることにほかならない」(「ネグリ 生政治的自伝」邦訳p37)と述べるのである。

 スピノザ的な<生>の肯定、それがマルチチュードの核心にある。だからこそ、マルチチュードは、スピノザの言う意味での生きる「喜び」を減退させ、<生>を外的な規範や制度に馴致(じゅんち)する「権力」には敵対し、「共」(common)を「私的なもの」に囲い込み市場化する「権力」に抗して、特異性を保持しつつ共同の活動を推し進める能動的な力能---制度的権力を掘り崩す構成的権力---の主体として生成する。p20伊藤 同上

 ここまでくれば、物事の裏と表から、互いに表現しあっているだけであって、それこそ表裏一体のものである、と結論づけてしまうことも不可能ではない。ここにこそネグリ&ハートのリベリアス・スピリット、反逆の精神があるのであり、また、Oshoが語る所の人間のあり様でもある。

 それを、現在、私が、あなたが、彼が、そして人々が、どこまで意識し、自覚しているかにかかっている。

<10>につづく

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