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2015年10月の53件の記事

2015/10/31

地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<57>「ボタニカル・スピリチュアリティ 」カテゴリについて

<56>よりつづく

「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版

<57>「ボタニカル・スピリチュアリティ 」カテゴリについて

 ある種、当ブログは、先行すべきテーマというものを失ってしまい、糸のきれたタコのような様相を呈している。あらかじめカテゴリ名となるべきテーマを決めるのだが、108のエントリー記事を書いていく間にどんどんそのテーマが変わってしまうのだ。

 それにきづいた今期は、あらかじめテーマを決めることなく、もっとベタな日付をタイトルにすることにした。いわく「2015/08/27~」であった。

 最初はこれでスタートしたのだが、それほど時間が立たないうちに「ボタニカル」というテーマが浮上し、心の中ではすぐに内定した。しかしそれでもやっぱり「ボタニカル」だけでは弱いので、半ばを過ぎたあたりから「スピリチュアリティ」をつけて、「ボタニカル・スピリチュアリティ」となった。

 このカテゴリの期間にもっとも楽しんだのは、いとうせいこう「ボタニカル・ライフ 植物生活」を原作とした、テレビ番組「植物男子ベランダー」、雑誌「Pen」の中にあった何枚かの素敵な画像、そしてアントニオ・ネグリの「ネグリ、日本に向き合う」だった。

 書かれた期間は2015/08/27~2015/10/31。

 このカテゴリこの三冊については、悩んだが、次の三冊としておく。よりカテゴリ名に寄り添った本が残ったほうが、あとで再読した時に落差を感じないで済みそうだな、という直観である。

「ボタニカル・ライフ―植物生活」 いとう せいこう

「ターシャ・テューダーのガーデン」 Tovah Martin 

「植物図譜の歴史」ボタニカル・アート 芸術と科学の出会い ウィルフリッド ブラント

 次なるカテゴリ名は「ねぇ、ムーミン」とする。別段にムーミンファンというほどでもないのだが、ここのところ二冊のムーミン関連の本が目につき、いつか精読したいなぁ、と思っていたのが、第一のきっかけである。

 そして、ムーミンという具体的なキャラクターの具象性に合わせて、いくつかの他のキャラクター像というものも再検討してみたい。さらには、モノローグであった当ブログにおいて、「ねぇ」という呼びかけとともに、多少はダイアローグの要素を取り入れていこうじゃないか、という反省の念も込めている。

<58>につづく

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再読したいこのカテゴリこの3冊「ボタニカル・スピリチュアリティ 」編

前からつづく

再読したいこのカテゴリこの3冊
「ボタニカル・スピリチュアリティ」

「ボタニカル・ライフ―植物生活」 いとう せいこう

「ターシャ・テューダーのガーデン」 Tovah Martin 

「植物図譜の歴史」ボタニカル・アート 芸術と科学の出会い ウィルフリッド ブラント

後につづく

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「地球の家を保つには エコロジーと精神革命」  ゲーリー・スナイダー<5>

<4>からつづく

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「地球の家を保つには」 <5> エコロジーと精神革命
ゲーリー・スナイダー (著), 片桐 ユズル (翻訳) 1975/12 社会思想社 単行本 264p

 当ブログ「ボタニカル・スピリチュアリティ」を終えるに当たり、今回は、最後の一冊として、この本以外に思い付かなかったので、締めの締めとして、この本を置いておく。

<6>につづく

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「藤森照信×伊東豊雄の住宅セレクション30」(vol.1) <2>

<1>からつづく

【送料無料】藤森照信×伊東豊雄の住宅セレクション30(vol.1)
藤森照信×伊東豊雄の「住宅セレクション30」(vol.1) 
東京建築士会 2006/03 エクスナレッジ  単行本 139p
★★★★☆

 3・11震災の三週間前に読んでいた本。今回、アントニオ・ネグリの「ネグリ、日本と向き合う」の中に、伊東豊雄グループの「みんなの家」がでてきたことをきっかけとして、伊東の「あの日からの建築」( 2012/10 集英社)、「ここに、建築は、可能か」(2013/01 TOTO出版)に目を通したことで、思い出した一冊。

 当然、伊東は、我らが中央図書館の建築を代表作としていることを知っての読書であったが、そもそもこの本はその5年前、2006/03に出ている本だから、必ずしも時機を得た読書だとは言えない。しかしながら、当ブログの流れとしては、グッドタイミングで読みこんでいた一冊と言えるだろう。

 あの時、私はこう書いている。

 この人たちこそ、自分が住むべき家を作ることこそ、仕事とすべきなのだ。施主のことなど考えずに、自分の家を建ててみたらどうだ。自然のなかに、スローでエコで、そして、未来な一軒を。2011/02/20

 一切、全文敬称略で、テニヲハもおぼつかない当ブログではあるが、まぁ、自分のためのブログなのであり、多少失礼とは思いながら、その時の思いをなるだけ素直に残そうとは務めている。だとしても、この文章は、あまり的確とは言い難いが、どこか納得しない自分の心境をメモしておいた、ということになる。

 この本は、長野新幹線の群馬県「安中榛名」駅に隣接した住宅街の実際の土地をテーマとして一般住宅を建てるコンテストであり、審査員としての藤森&伊東の二軒とともに、30軒程のアイディアが紹介されている。

 都市部からは外れた地域ではあるが、実際に存在する住宅街の、やや広めの土地にどのような家を建てるか、という実にリアルな設定なのであり、一般の私たちの暮らしからは、それほど離れた設定ではない。

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 その彼らが3・11以降、どのような発想の転換を迫られたのかは、「あの日からの建築」に描かれているし、また「ここに、建築は、可能か」では、実際にどのような活動を被災地で行なったのかがより図解入りで展開されており、国際的なコンテストでも多いに評価された、ということになっている。

 今回はアントニオ・ネグリの指摘でこの設計家たちの活動に目を向けることになったのだが、はてさて、腹の底から、腑に落ちるような納得感はまだない。3・11の爪痕に対して、建築家グループとして何ができるのか、という問い掛けは間違いないのだが、人間として、3・11後に何ができるのか、という問い掛けにはやや弱いように思う。

 3・11後を問われるということは、3・11以前が問われることになるのである。そういった意味において、3・11で初めて気が付きました、というような機を見るのに敏な世渡り上手な政治家などのような行動は取りたくない。

 そういった意味において、私は、このカテゴリ「ボトニカル・スピリチュアリティ」においては、ネグリの鑑定眼も、最終的には、信頼しきれていないところがある。

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「ボタニカル・ライフ―植物生活」 いとう せいこう<2>

<1>からつづく 

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「ボタニカル・ライフ―植物生活」 <2>
いとう せいこう 1999/03 紀伊国屋書店 単行本 p274 2004/02 新潮社 文庫p399
★★★★★

 前回は2004年発行の文庫本を手にしたが、今回は1999年の初版をめくってみた。もともとは著者自らのサイト・マガジン等で1997/04~1998/03まで連載され、一部雑誌「ガーデン・ライフ」に連載された一連のエッセイをひとまとめにして1999年に刊行されたものである。

 NHKBSテレビ番組「植物男子ベランダー」をたまたま見てしまい、それ以降は病みつきになってしまった。1994年にシーズン1、1995年にシーズン2が放映され、私はそれを順不同ながら、大体一通りみたが、それでもほとぼりがさめず、ネットであちこちに合法か非合法かしらないが、散見される動画を探し出しては、何度も見ている。

 見るたび、なんでこの番組はこんなに面白いのだろう、と考えたがよくわからなかった。他人のエッセイや小説を読むことはあまり得意ではないので、原作としてこちらがあることは分かっていたが、どうも面倒くさいので、読まずに動画ばかりみていた。本の朗読動画というものもあるので、そちらにも手をだし、こちらも面白かった。

 今回、現在進行中の「ボタニカル・スピリチュアリティ」カテゴリを締めるにあたり、重い腰を上げて、こちらの原作を一通り読んでみることにした。そして分かった。なぜ、あのテレビ番組が面白いかが。それは、当たり前に単純な答えだった。原作が面白いからである。

 小説がテレビ化されたら、そこには多くの脚色が含まれており、またキャラクターは登場する役者たちの演技力で大きく左右される。このテレビ番組は、大方、かなり脚色されたものであろうと、タカをくくっていた。

 しかしながら、こちらの原作を一読して分かったことは、良くも悪くも、この原作があったればこそのテレビ番組なのだった。だから、あの田口トモロヲ演じるベランダーは、大きくいとうせいこうの実存に大きく影響されているのだった。

 私は、この番組をもっと見たいなぁ、と思って、来年もぜひシーズン3をやってほしいと願っているものだが、しかし、ある意味において、その世界の可能性と限界も、この原作を読んで分かってしまった気がする。

 言っておくが、ベランダーは単に都会の趣味人ではない。空を共有する世界の労働者諸君と連帯をしているのである。このことを忘れてもらっては困る。だからこそ俺は、トロ箱に荷物を入れ、各地の道路を不法占拠するばばあどもにエールを送っているのである。

 階級をわきまえずエセガーデナー気分にひたる日本の頭の悪いプチブルどもと我々は、敵対関係にあるのだ。

 これがベランダー思想というものである。植物主義は幻想を許さない。植物たちを通して社会的現実を凝視し、自らの立場を鮮明にし続ける。

 だからハーブは、俺たちのシンボルでもあるのだ。p211いとう「ハーブ すました雑草」

 洒脱に筆の走る著者であるが、どこまでがシャレでどこまでが本気なのかは、簡単に一線を区切ることはできない。しかし、この冗漫な洒落口と、どこか本音が入り混じった文章の中に、都会のマンションで暮らすバツイチ中年の真摯な本音が混じる。

 私は都会で暮らしていないし、マンションで暮らしたこともない。最適なベランダを探して引っ越しを続けたこともないし、幸い、カタチとしてはバツイチというライフスタイルにはなっていない。むしろ孫たちと暮らす大家族でギュウギュウ詰めで暮らしているのが実態である。

 だから、わがボタニカルライフ、などとこちら本家の言葉を借りて、連載ブログを書いていたとしても、かなりの差があることがわかった。まぁ、これでいいのだ。だから、そういった意味においては限界を知ることができた。

 そしてまた、著者が「べランダーは単に都会の趣味人ではない。空を共有する世界の労働者諸君と連帯をしているのである。このことを忘れてもらっては困る。」などと洒落る時、私は、村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」のなかの一説を思い出す。

 走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空は空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体でないものだ。僕らはそのような茫然とした容物(いれもの)の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」p32

 おそらく、男のハーブ道だろうが、マラソン道だろうが、ひとつの「空」に通じているのである。

 当ブログは、アントニオ・ネグリを迎えて、その「コモン」を「コミューン」と読み替えてみる作業に着手しつつある。そして、おそらくそれは、「空」なのだ、と閃くことができた一冊でもあった。

 おなじ名前なのに、いままで著者の本を一冊も読んだことがなかった。いちど、なにかのシンポジウムで一人のパネラーとしての生の著者を拝見しただけである。今後、数ある著者の類書や、著者が師と仰ぐカレル・チャペック「園芸家の一年」などにに目を通すかどうかは、微妙なところだ。

 1961年生まれの著者30代半ばの、相当に油の乗り切った若々しい時代の作品である。

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2015/10/30

「わがボタニカルライフ」<21>悠久の時を継ぐ

<20>からつづく

「わがボタニカルライフ」

<21> 悠久の時を継ぐ

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 樹齢推定1350年を生き抜く仙台最古の樹木カヤの木。

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 樹皮からも沢山の枝がでている。

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 本当に若々しい。

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 根元を見るとたくさんのカヤの実が落ちている。

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 その中には発芽しているものもあり、まだまだ生命力は衰えない。

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 管理者の承諾を得て掘り出してみると、しっかりと大地に根づいている。

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 これを見る限り、確かにカヤの実から発芽しているのだ。

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 カヤの苗をいただき鉢植えにしてみる。

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 わがボタニカル・ライフに、このようなダイナミズムがあるとは、なんともすごい迫力である。

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<22>につづく

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2015/10/29

Architecture. Possible Here? "Home-for-All" Toyo Ito

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「ここに、建築は、可能か」
伊東豊雄、乾 久美子、藤本壮介、平田晃久、畠山直哉(著) ペーパーバック– 2013/01 TOTO出版 ペーパーバック: 184ページ
No.3592★★★★★

 アントニオ・ネグリは2013年3月に来日した際、「3・11後の日本におけるマルチチュードと権力」と題する講演で、伊東豊雄にふれている。「ネグリ、日本に向き合う」p79 ネグリ「コモン・グランドという想像力」

 数週間前(2013年3月)に、日本の建築家・伊東豊雄は彼の仕事にふさわしいプリツカー賞(建築のノーベル賞といわれる)を受けた。受賞を知ったとき、わたしはこの講演原稿を書き始めていた。伊東の作品にわたしはすでにつよい印象を受けていた。

 2012年ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で、彼は「ここに、建築は、可能か?」をテーマに、日本館のための建築家グループでつくった「みんなの家」を展示し、金獅子賞を受賞したのである。

 建築家たちは、津波で押し流された多くの町のひとつである陸前高田の被災者たちと対話を重ね、共同住居のプロジェクトを立ち上げた。それは回収可能な材料を再利用した住居の構想であり、被災後の市民たちが共同生活のありかたを想像できるようなものだった。

 建築家たちはこの構想のもとで、市民グループと協力して建築モデルをつくりあげ、それをヴェネチアに展示したのである。そこでは木のピロティの上に住居が建てられ、住居の内部と外部のつながりを維持する、伝統的な日本の家のコンセプトが活かされている。

 「みんなの家」は、伝統的材料の再利用を通して、共通の習慣や伝統的使用法と、コミューン(自治体)における新しい住居モデルとを結びつけようとする。こうしてこのプロジェクトは、わたしたちの文明を再建しうるコモン・グランド(共通の土壌)はいかなるものかという、ビエンナーレの問いかけに応えていたのである。

 この作品には希望の息吹がかよっているのを感じた。破局の恐怖に見合うだけの深い息吹を、すなわち市民たちが共同で新しいかたちの生活、まさに新しい共同生活をつくろうとして発揮した力に見合うだけの、深い息吹を感じた。「ネグリ、日本に向き合う」p79 ネグリ「コモン・グランドという想像力」

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 ここには、3・11後に、三陸との関わりの中で、伊東を初めとする建築家グループが地域の人々とともに、広域からの支援を受けながら、シンボルとなるような「みんなの家」を建設するプロセスが描かれている。

 豊富な画像、図面、英訳文が並列され、見ても分かりやすいヴィジュアルな一冊となっている。

ここに、建築は、可能か

津波によってすべてを流されたまち、
人々は家族や友人を失い、家を失った。
この人々のために、建築は何が可能か。

近代以降、建築家は、個のオリジナリティを根拠に建築を考えてきた。
しかしそれは建築家による建築家のためのエゴイズムではないのか。
建築家は一体誰のために、そして何のために建築をつくるのだろう。

私たちは被災地に一軒の小さな共同の家「みんなの家」をつくることによって、
個による個としての建築家のあり方を根底から問い直そうと試みる。
「みんなの家」は失われた家の記憶を蘇らせる。人々は家を求めてここに集まり、
語り合い、飲み、食べ、心を暖めあう。

この家をつくるプロセスにおいて、もはや「つくり手」と「住まい手」の境界は存在しない。
現地の人々とわれわれは共に考え、考えながらつくり、
つくりながら考える。時に住まい手はつくり手であり、つくり手は住まい手である。

「みんなの家」はガレキの間から立ち上がってきた植物のように、
「上昇する生命体のような建築」である。
それは仮設の家であるが、復興への強い意志を象徴する。

「みんなの家」は建築家のつくる家でありながら、
個のオリジナリティに固執しない。建築家は住まい手と意識を共有し得る。
個によって個を超えることは可能か。近代を超える鍵がここにある。

私たちはこの一軒の「みんなの家」をつくるプロセスのすべてをドキュメントとして展示し、来訪者に「建築とはなにか」を問いかけたい。

2012年8月28日 伊東豊雄(ヴェネチア・ビエンナーレ日本館入口展示コンセプト文より) p124

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 この本は読みやすく分かりやすい本だが、いっぺんに通読することができない。さまざまな想念が行き来する。特にネグリが、半田也寸志の震災直後の被災地の写真集や、宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」 と合わせて語る時、さまざまな思いが乱舞し、なかなかひとつの像にまとまらない。

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 こうして完成したあとの「みんなの家」を見ていると、どこか青森県にある縄文遺跡、三内丸山にあっただろう建築に、さも似てきたようにも思える。

 自分が3・11直後からエコビレッジ構想に惹かれ、3・11後においてはゲーリー・スナイダー「地球の家を保つには」(Earth House Hold、1969年)から読書を始めたのも、どこかここに提示されているテーマに繋がっていくように思える。

 そして、当ブログの現在進行形のカテゴリー「ボトニカル・スピリチュアリティ」にも、深く根底部分でつながっていくようである。

「みんなの家」はガレキの間から立ち上がってきた植物のように、
「上昇する生命体のような建築」である。
それは仮設の家であるが、復興への強い意志を象徴する。 
伊東豊雄p124

つづく

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2015/10/26

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <53>/「市民農園体験記」<44>孫と市民農園

<52>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」 

<53>孫と市民農園

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<43>からつづく

市民農園体験記 

<44>孫と市民農園
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「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」 <54>につづく

「市民民農園体験記」 <45>につづく

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2015/10/22

「あの日からの建築」 伊東豊雄 <1>

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「あの日からの建築」 <1>
伊東 豊雄(著) 2012/10 集英社 新書 192ページ
No.3591

アントニオ・ネグリは2013年3月に来日した際、「3・11後の日本におけるマルチチュードと権力」と題する講演で、伊東豊雄にふれている。「ネグリ、日本に向き合う」p79 ネグリ「コモン・グランドという想像力」

 数週間前(2013年3月)に、日本の建築家・伊東豊雄は彼の仕事にふさわしいプリツカー賞(建築のノーベル賞といわれる)を受けた。受賞を知ったとき、わたしはこの講演原稿を書き始めていた。伊東の作品にわたしはすでにつよい印象を受けていた。

 2012年ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で、彼は「ここに、建築は、可能か?」をテーマに、日本館のための建築家グループでつくった「みんなの家」を展示し、金獅子賞を受賞したのである。

 建築家たちは、津波で押し流された多くの町のひとつである陸前高田の被災者たちと対話を重ね、共同住居のプロジェクトを立ち上げた。それは回収可能な材料を再利用した住居の構想であり、被災後の市民たちが共同生活のありかたを想像できるようなものだった。

 建築家たちはこの構想のもとで、市民グループと協力して建築モデルをつくりあげ、それをヴェネチアに展示したのである。そこでは木のピロティの上に住居が建てられ、住居の内部と外部のつながりを維持する、伝統的な日本の家のコンセプトが活かされている。

 「みんなの家」は、伝統的材料の再利用を通して、共通の習慣や伝統的使用法と、コミューン(自治体)における新しい住居モデルとを結びつけようとする。こうしてこのプロジェクトは、わたしたちの文明を再建しうるコモン・グランド(共通の土壌)はいかなるものかという、ビエンナーレの問いかけに応えていたのである。

 この作品には希望の息吹がかよっているのを感じた。破局の恐怖に見合うだけの深い息吹を、すなわち市民たちが共同で新しいかたちの生活、まさに新しい共同生活をつくろうとして発揮した力に見合うだけの、深い息吹を感じた。「ネグリ、日本に向き合う」p79 ネグリ「コモン・グランドという想像力」

 この文章を読んでから図書館を検索したところ、近くの図書館に「ここに、建築は、可能か?」(2013/01 TOTO出版)が収蔵されているので取り寄せ中。その前にこちらの「あの日からの建築」が先に届いた。

 フリーのライターのインタビューを受けて一冊にまとまった本ではあるが、この本は3・11の当日から始まる。

 いちばん気になったのは、私が設計を手掛けた「せんだいメディアテーク」がどうなっているかということでした。丁度翌日の3月12日は仙台で、メディアテークがオープンして10周年記念のお祝いの会があって、仙台市の奥山恵美子市長らとメディアテークの10年間について話す予定になっていました。p17 伊東 「地震発生当日のこと」

 この「せんだいメディアテーク」(略称smt)は私がいつも本やDVDを借りている図書館の本館であり、セミナーやイベントなどで通うことが多い施設である。残念ながら自転車でいける距離ではないので、頻度はそれほど多くはないが、その「近代的」でユニークなたたずまいは、私に、映画「2001年宇宙の旅」を連想させる。

 個人的には、震災前から、当ブログにおいて「プロジェクト567」における重要ファクターになっていたのであり、私も地震直後から、ガラス全面張りのあの施設がどのような状態にあるのか気になって仕方なかった。幸い、直後に友人が通りかかって、外から見る限り、影響はなさそうだ、という情報を得ていたので、ホットしていたのだった。

 グローバル経済によって支配される現代社会では、建築家の論理感や善意をはるかに超えた力によって建築はつくられ、破壊されている。そこにはかつてのような公共空間やコミュニティの場が成立する余地はほとんどない。

 それどころか経済を効率よく循環させるためには、共同体は個に解体せたほうがよい。そのような巨大資本につき動かされる巨大都市に建築家はどう向き合っていくべきなのか、そんなことを考えている最中(さなか)に大震災は起こった。伊東 p3「はじめに」

 「smt」は、地元の一般市民にとっては「超」近代的な建物で、たしかに中央図書館やイベントホール、展示ホールなどの多目的用途に使われているが、それでも私のなかでは、あの建築と、被災地における、木造や再利用物を利用した「みんなの家」には、相当のギャップがあるように感じられた。

 しかし、この本の後半にまとめてある彼の人生ストーリーの中で、なるほどそうであったか、という納得するものがあった。彼は震災後、釜石市の復興にも関わっていく。

 釜石市という自治体は市長以下役所の人たちもかなりリベラルで、市民の声をに耳を傾ける柔軟性を持っています。また住民の意識も高く、住民のなかに、将来の街に関する強いビジョンを持った人もいます。p48 伊東「住民たちの生の声を聞く」

 この市長というのが、知人であり、かつて若いころに一緒にアメリカ・オレゴン州のコミューンに数週間滞在したことがあったので、人ごとだとは思えない。久しくあってはいないが、このように伊東から評価されて、私もなんだか嬉しくなった。また、私の家族も、通信関係の復旧にこの市に長く赴任していたので、私も何度か足を運んだ。

 被災して家や家族を失った人々に対し、自分はどんな言葉で語りかけることができるのだろうかと考えました。これまで建築家として自分の建築の妥当性を語ってきた言葉で被災した人々に話しかけることはできない、と思ったからです。

 「みんなの家」を思いついたのはそんな動機からです。「みんなの家」、なんと凡庸でなんと閃きのない名前だと思われるかもしれません。でも被災地の高齢者と話すにはこのわかりやすさしかないと思いました。p66伊東「『みんなの家』というプロジェクト」

 この「みんなの家」にネグリは共鳴したのだが、それはイタリア・ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で金獅子賞を受賞したことにも大きな要素があるだろうが、ここにおける「みんな」という「コンセプト」が、ネグリがいうところの「コモン」とも大きく共振したからであろう。

 2012年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展において、私は日本館のコミッショナーを務めることになりました。日本館の展示は毎回、国際交流基金の予算でまかなわれます。今回コミッショナーとして私が選んだテーマは「ここに、建築は、可能か」でした。p84 伊東「ヴェネチア・ビエンナーレと陸前高田の『みんなの家』」

 この建築展や賞の重み、あるいはその作品の内容は、それが中心にまとめられている「ここに、建築は、可能か」という本があるので、そちらをめくる時に、もうすこし細かく理解することにする。

 オープニングの8月29日朝、私たちは日本館の展示によって、最高の栄誉である金獅子賞を獲得することができたのです。p92 伊東

 3・11直後であるという状況が「みんなの家」に注目があつまる要因にもなったのだろうが、その受賞があったがゆえに、この話題はネグリにまで届いている、と解釈することにしよう。 

 現在の資本主義が技術万能の近代主義の年をつくり上げていて、建築家はその経済、資本を目に見える形にする、その道具になり下がってしまいまいた。ほんとうに情けないことですが、例えば中東のドバイにオイルマネーが集中しているとなると、世界の著名建築家はみなドバイに集まる。

 そこで、こんな超高層のオフィスやハウジングのプロジェクトを提案したと、自慢し合っています。それはひどく空虚なことです。そうした状況のなかでは建築が資本の論理でつくられる以上、常に新しいものが求められます。古いものは壊し、新しいものが求められる。そうしなければ市場経済では生き残れないと誰もが信じています。

 いわば目に見えない資本を視覚化する役割を担うのが建築家であって、彼らはその資本の蓄積される場所を求めて移動を繰り返す。それが現代建築家なのです。p169 「資本主義と建築」

 このあたりの伊東の述懐を聞いていると、ネグリが、もう一人の日本人、宮崎駿「風立ちぬ」に触れて、国家と技術に対する葛藤を思ったように、伊東のこのあたりのハートがネグリに繋がっているのだろう。資本や国家のための建築ではなく、「みんな」のための家、それこそコモンなのだ。

 「スペースさえ用意すれば、コミュニティの実現は誰かがやってくれるでしょう」と思いこんでいて、建築家がコミュニティを提案すれば、それで理想の社会が実現できると考えているのです。ひとりの社会人として自分が社会とどう関わっていくかという自覚も感じられない。

 なぜ現実の都市で建築家が思い描いたコミュニティがうまくつくれないかを考えることは、単に共用のスペースを提案することよりもはるかに意味があることだと思います。p102 伊東「アカデミックな建築教育におけるコンセプトとは」

 単的に言えば、仏つくって魂いれず、という状態だろう。翻って考えるに、ネグリの「コモン」もまた、概念が先行するのではなく、実際にそのような実体があり、また要求があるからこそのコモンであるべきだ、という反語にもなるだろう。

 「みんなの家」で学んだことの意味は、すごく大きいと思います。自分が他者と何かを共有できるという確信、つまり仮設に住んでいる人たちに対して、お互いに共有できるものがあるという確信を得ることができました。

 ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展でも、目指すところは一緒です。建築化のエゴイズムをみんなで乗り越えられれば、きっとその先には、かなり特異な表現でも、個を超えた個に行き着けると思います。まだまだ試行錯誤は続くでしょうが、おそらくそれが次の時代の建築になっていくはずです。p184 伊東「新しい建築の原理へ」

 「個を超えた個」という表現あたりは、ちょっと気になるところである。

 この本には、「せんだいメディアテーク」(smt)についても、たくさん報告されていて、興味深い一冊である。

<2>につづく

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「Pen(ペン) 」2015年 11/1 号 [理想の家グランプリ]

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Pen(ペン) 」2015年 11/1 号 [理想の家グランプリ]
CCCメディアハウス 2015/10 雑誌 月2回刊版
No.3590★★★★☆

 「Pen」はなかなか気になる雑誌である。毎号毎号テーマは違うが、どこか一貫した矜持というものがある。カラー写真が多く外人モデルを活用したおしゃれなページが多い。特にインテリアやハウジングなどの特集も多く、私はそれらに目がいく。

 今回もタブレットの無料アプリでこの号の何ページかが気になり、さっそく近くの書店で購入した。なにが一番気になったかと言えば、やっぱりこの[理想の家グランプリ]とやらのコンテストでグランプリを受賞した住まいが、わが市内にあるお宅だったことである。

 この表紙にあるお宅がその作品である。中には6ページに渡って、その素敵なお住まいが紹介されていて、おお、いいなぁ、と思った。特に、奥さんのお祖父さんが使っていたという古い足踏みミシンが置かれているあたりが、なにかとてもなつかしくなった。

 さてと、この号に対する讃辞はこのくらいにして、結論からいえば、私はおそらくこの本を「永久保存」はしないのではないか、という直観があった。というのも、何回も開いてヨダレを垂らすようなページはなかった、からである。

 この雑誌に収めきれなかった参加作品の300のお住まいの他の情報については、オンラインで見ることができるようだが、私はどうも、そこまで追っかけはしないような気がする。

 このお宅、同じ市内にある建築物だから、検索すればおそらく一度くらいは外から眺めることはできるだろうが、見たら見たで、また感想は大きく違ってくるだろう。だが、他の人にとっての「理想の住まい」は、必ずしも、自分の「理想の住まい」とは限らないな、と思った。当たり前のことだが。

 まず、この家、同じ市内だが北部の丘陵地にある。私は市内南部の平坦地である。まずここに違いがある。そして、このお宅にはどうも子供の気配がない。お二人のお住まいなのかもしれない。二人の小さな孫と暮らす二世帯住まいの我が家には、当然、ピッタリとは言いにくい。

 それに、結果的にはエリアの問題がある。広い土地を求められるエリアと、狭くても交通の便を確保しようというエリアでは、おのずと基本の設計が違ってくる。

 そして一番の「違和感」というか、はてはて、それでどうした、と思ったのは、傍らに「タイニーハウス」ムーブメントがあるからである。3・11後の世界の動きの中で、エコで小さくて、地球に負荷がなく、時にはDIYで作れそうな小さな家が「はやって」いるのである。

 私は、「理想の家グランプリ」にも、「タイニーハウス」にも、両方惹かれるが、結果的には、人生の中で何度も何度も家を建てられるほどの蓄財がある人間でもないので、今の住まいが一番いいなぁ、ということになる。タイニーかつ理想を、今の住まいに、どうとりいれようか、という、そういう視点で、どうしてもこういう作品群をみてしまうのだった。

 そして、このお宅にしても、我が家にしても、決して沿岸部にあるわけではない。沿岸部にあるあの3・11のあとの爪痕のことを考える時に、この雑誌に取り上げられている他の住宅などのゴージャスさを見るにつけ、なにか、ポイントが離れている気がしてしまう。

 いやいや、そういうタイミングだからこそ、理想の家、なのかもしれないが、今日のところは、まず、そのように感じたのだった。今後、この私の感想がどのように変化していくのか、もうすこし注視してみよう。

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2015/10/21

「20 DAYS AFTER 」半田 也寸志(写真)<1>

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「20 DAYS AFTER 」
半田 也寸志(写真) 2012/03 ワニブックス ヨシモトブックス 大型本(写真集)
No.3589★★★★☆

「ネグリ、日本と向き合う」(2014/03 NHK出版)の中で、ネグリはこう語る。

 日本に着いたときわたしの脳裏にあったのは、ヴェネチア・ビエンナーレで大きな衝撃を受けていた伊東豊雄の建築であり、それを最初の講演の導入としたのだが、今日こうして遠く離れた場所から日本の友人たちと議論を再開するにあたって、わたしの目の前にあるのは半田也寸志の圧倒的な写真集「マイティ・サイレンス」(イタリア・スキラ社、2013/03刊)である。

 フクシマのまわりにひろがる平原を、嵐のあと亡霊のような静けさが支配し、自然が引き起こした悲劇が、生きることの意味を問うている。それこそが最初に考えるべきことだから。フクシマの悲劇は終わってはいない。悲劇は続いており、深まっている。しかし、それにもかかわらず、生きていかなければならない。この荒涼とした、悲嘆にくれた土地で、闘っていかなければならない。p163 ネグリ 「原発危機をめぐって」

 ネグリが語る「マイティ・サイレンス」(イタリア・スキラ社、2013/03)はこの本と異なるだろう。こちらの本は3・11後20日の被災地の風景であり、その沿岸部も岩手、宮城に留まっている。ネグリが見た写真集はフクシマの風景が映っているようであり、別に出版されているものである。

 しかし、同じ写真家であるならば、同じ様な切り取り方になり、その被写体は別の県とは言え、おなじ海岸つながりなので、それほど大きく変わることはないだろう。少なくともネグリは、イタリアの出版者から出版された半田也寸志の写真で3・11を直視しているのである。

 被災地で被災した人々の中にはカメラを持っていても一度もシャッターを押さなかったという人は多い。私もその中の一人だ。写真家においては、遠く離れていても、被災地に入り、その記録を残そうとする。

 正直に言えば、被災地の「現状」は、この写真集に切り取られたような「甘い」ものではない。口舌に表せないとは、あのことだろう。決して、あの惨状をあますことなく写した写真などというものは存在し得ない。

 しかしながら、例えばイタリアにすむネグリに、どのような形で3・11を伝えることができるだろう。いかに不完全であったとしても、この写真集が伝えようとしている意味は、はっきり分かる。ネグリだって、この写真集が全てだとはとても思ってはいまい。少なくとも、彼はイタリアにいて「日本に向き合おう」として、半田也寸志の写真集を手に持ったのである

 序文は、(当時?)仙台に自宅を持っていた作家の伊集院静が書いている。被災した立場としては、その体験は、それほど隔たってはいない。

 一人の写真家が震災という歴史の中に立ち、何が私たちに起こったのかを告げてくれている。それは黙示録のように地上の憂国の滅亡を叙述しているのではなく、復興への光を見いだそうとする救世の写真集である。 伊集院静

 被災地を写した写真集は多々ある。見ようとせずとも見てしまうが、やはり自らが自らの目でみた青森から岩手、宮城、福島、茨城、千葉までの海岸線の風景に勝るものはない。写真集を掻き集めれば、それは数えきれないほどの数になるだろう。

 だから、この写真集が、突出して素晴らしいとは、私には言うことができない。しかし、ネグリが、イタリアで出版された写真集の作家の名前を教えてくれたことで、私にとっても、半田也寸志は特別な名前になった。

 ネグリが半田の他、建築家の伊東豊雄や、アニメ監督の宮崎駿の名前を出すことによって、「日本に向き合」っている姿勢を示していることに感謝する。彼が、日本の、ナニを、見ているのか、そこのところを、私も見つめていこうと思う。

<2>につづく

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「植物男子ベランダー」<4>

<3>よりつづく

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「植物男子ベランダー」 <4>
NHKBSプレミアム 番組リスト目次

 ほんと、何が面白いんだろうね、この番組。何回も見てしまう。偶然に途中から見た番組の時もよくわからなかったけど、何回も見たあとの今でもよくわからない。

 きっと、まず植物が沢山でてくるところがいいのだろう。でも、だったとしたら、他のNHK番組の「趣味の園芸」とか「やさしい野菜づくり」(って番組あったっけ)とか、そのような番組でもいいはずなのだが、そちらは重ねてまで見る気にはならない。一回見落としたからと言って、悔しくはない。

 最近、ネットをいじっていたら、この番組、おそらく著作権とかには引っかかるのだろうが、韓国版とか台湾版とかあるらしいことがわかった。

season1は http://mvnavidr.blog116.fc2.com/blog-entry-12920.html

season2は http://videonavi.blog66.fc2.com/blog-entry-3635.html

 ただ、いつも、てあたりばったりで、ほぼ偶然に出会うので、ついつい見てしまうのである。おおよそ30分の短い番組だ。ちょっと見るだけでも気休めになる。時間があれば、続きか他の回を見ればいいのだ。

 主人公がおおよそ40代の中年男というのがいいのだろう。こちらはアラ還ですでに老人の領域に入ってはいるが、気分はこの男とほぼ同じでいることはできる。バツイチの独身という設定は、わが身とは違うが、いまだに女性やJKに関心がなくもないようなところは、共感のいたり。

 私の回りにも、バツイチと言わず、男性、女性を問わず、中年の独身ライフを楽しんでいる(のかどうか)連中が、というか、そのような人々がいることはいる。ただ、彼女ら、彼らが、はて、この番組を楽しく見ているかどうかは定かではない。

 私は、このシリーズをあちこち大体は見た。順番も、テーマも、ある時は、前半だけ、ある時は後半だけみた。テレビ放映の番組も毎回録画するようにしたが、孫たちのお子ちゃま番組のために、すぐに削除しなければならなかったのは、すこし念が残る。

<5>につづく 

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2015/10/20

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<21>

<20>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<21>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 「原子力--主権国家体制」の行方 白井 聡 p185

 タイトルの如く、かならずしもこの本の「ネグリ、日本と向き合う」という時事的話題に語っている部分ではないが、ネグリがいうとこの「原子力国家」というものを、他の文脈を交えながら、いかに国家と原子力が深く結びついてきたかについて、メモしている。このあたりの認識を「コモン」しよう、という大掛かりで、かつ、分かりやすい説明。

 かつてロベルト・ユンクは、その原子力批判の古典において原子力利用を推進する体制を「原子力帝国」と名づけた。

 原子力はそれ自体で孤立的に発展してきたテクノロジーなのではなく、それはある特定の国家体制のなかでのみ発生し、発展することができ、さらにそれは自らを生んだ体制の在り方に大きな影響を及ぼすに至る、ちう洞察がこのネーミングに含まれている。p186白井「はじめに」

 この人の文章はセンテンスが長々しいのが難点だが、言っていることは実に分かりやすい。

 (ネグリとハートは)<帝国>とは特定の主権国家を指すものではなく、従来の、国家を絶対的中心とする権力によって構成されるものとは異なる世界秩序の在り様、すなわち、国家に加えて超国家的な諸制度や多国籍企業等が織りなす「ネットワーク上の権力」を指すものである、と主張したのである。p191「主権国家の成立・変容と核開発」

 なんどもなんども、似たようなフレーズを聞いているうちに、次第次第に、そのイメージが固まってきた。

 2011年の3・11福島第一原発事故の衝撃は、ドイツおよびイタリアの脱原発の決断という大きな副次的作用をもたらした。脱原発を決断できた両国が旧枢軸国であり、核兵器を持たない(持てない)国であるという事実は偶然ではないだろう。p194「リヴァイアサンのテクノロジーとしての原子力」

 テーマそのものは、当ブログの関心からやや外れて、世界の国家間の力学に入っていき、権力を持たない一人間としては、このような話を聞きすぎると、無力感に襲われて、もう関係ないや、となりそうだ。この辺あたりから、マルチチュードへと話を戻していかなければならない。

 絶対的民主主義への道はどこに? 大澤真幸 p209

 <帝国>に対するところの、マルチチュードとは何か。ネグリとハートは、スピノザから借用したというこの概念を明確には定義していない。彼らの記述を総合的に解釈するならば、マルチチュードとは、この世界を構成する異種混交的な群衆のことであり、最も広い意味での労働する主体のことである。擁するに、マルチチュードとは、現代版のプロレタリア―トである。p211大澤「<帝国>VSマルチチュード」

 ちょっと残念な部分である。このように理解されれば、もう当ブログとのオーバーラップからはどんどん遠ざかっていく。このように解釈することが一般的なのであるならば、それに従うしかないが、当ブログは、この読みではなく、もっとネグリ流の新概念に沿った理解をしたい。

 ネグリとハートは、三部作の全体を通じて、資本主義に対して両極的な態度を示しており、両者の間を揺れている。一方には、もちろん、「一者」へと統一する資本主義的権力(つまり<帝国>と多様でリゾーム状のマルチチュードが闘争している、という像がある。

 先に述べたように、この構図は、「<帝国>」の基本的な軸になっている。しかし、他方では、彼らは、グローバルな資本主義が持っている解放的なポテンシャルに強い魅力を感じている。p217 大澤

 なかなか面白そうな一稿なのだが、どうも話題が他に飛びやすい。この本に沿って「ネグリ、日本に向き合う」と、そのテーマにもどりたいのだ。

 2011年3月11日、日本人は、大津波とともに、大規模な原発事故を経験した。それから3年が経過するのに、日本人は、未だに、断固として原発を放棄することができない。この問題について、ネグリも、「日本の友人」の示唆に基づきながら考えている。

 どうして、日本人は、優柔不断なのか。もし、これが単純に利害打算の問題であるならば、この優柔不断さの原因は、日本人がただ愚かだからだ、ということに尽きる。(後略)p229 大澤

 ああ、ここまで読んできて飽きてしまった。このような日本人論は、当ブログの好みではない。巻末の白井と大澤の論文は、付け足しのように思える。少なくともこの本の本来の趣旨の柱ではない。むしろ、ネグリを初めて読むような人への参考として書かれているかのようだ。

 しかしそれにしても、このような紹介なら、私ならますますネグリ&ハートが嫌いになるだろう。何かが違う。

 そのうち、またこの本を最初から読みなおしてみる予定だ。なぜ、この二人の論文が「つまらないのか」、もうすこし多面的に考えてみる。それは後日のことだ~~

<22>につづく

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「ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか」 伊藤 守

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「ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか」 
伊藤 守(著) 2012/3 平凡社 新書 263ページ
No.3588★★★★☆

 「ネグリ、日本と向き合う」2014/03NHK出版)を読み進める上で、この本にいったいどんな人々が関わっているのだろう、と開いて見た本。伊藤守は 「序 アントニオ・ネグリの現在」を書いている。1954年生まれということだから、私と同年輩。メディアの在り方を研究している教授である。

 3・11震災直後の一週間、特にその中でも福島第一原発についてどのようにテレビが伝えたのかを、ドキュメントとして追っている。

 「批判のための批判」は意図しない。だが、これほどまでに、マスメディアへの信頼、マスメディアが伝える情報への信頼が揺らぐなかで、信頼を回復するための課題を発見し、あらたな一歩を踏み出していくためには、徹底した検証が求められる。

 既存のマスメディアを「真実を一切報じないマスゴミ」として極端なバッシングを行なうことからは、何も建設的な方向は見出せないとも考える。p25伊藤 「政府と東電による情報コントロールとメディアの対応」

 3・11に関する書籍はたくさん出版されており、多岐にわたるが、この本はその中にあっても、キチンと節度を守りつつも、直後の一週間の、各立場のうろたえぶりを、テレビ報道をまとめるだけで、あぶり出す。

 抜き書きすべきところは沢山あるが、今回はネグリ関連で開いた一冊だったので、伊藤がすでにこの本でネグリに触れていた部分を摘出するに留めておく。

 現代社会の変化の根底に、資本の論理を極端なかたちで進めたネオリベラリズム政策が行き着いた経済的・社会的格差と分断、貧困からの脱却を展望するとき、そのカギとなるのは「COMMON=共有」にあることを主張しているのはイタリアの思想家であり社会運動家のアントニオ・ネグリである。

 現代の資本主義が、ポストフォーディズムといわれる知識産業や情報産業そしてサーヴィス産業へと転化し、アイディア、コミュニケーション、さらには気配りや表情といった感情表現すら、高利潤を生み出す重要な資源として資本の論理に組み込まれていく状況のなかで、自己のアイデアや感情を、そして他者とのコミュニケーションを、文字どおり「他者と分かち合う」共同の営みとして実践し、「COMMON=共同」を実現する、その先に「来たるべき社会」の基本原理を彼は展望する。

 こうしたネグリの展望はけっして荒唐無稽なものではない。情報をめぐる「所有」から「共有」への基本原理、理念の変化は、実際にいたるところで見られたのではないだろうか。チュニジアで、エジプトで、リビアで、そして日本でも・・・・。p234 伊藤「市民の価値意識の変化から挑戦を受けるマスメディア」 

 きわめてまともな本である。場合によったら、貴重な資料ブックとなる。このようなまじめな人々が、ネグリの来日にからみ、それぞれの仕事をしているのであった。そのことをまず確認した。

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<20>

<19>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<20>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 こうした偏更偏流にたいするオルタナティブはあるのか。これこそ、わたしが日本滞在中に友人や同僚たちと議論した中心テーマだった。答えはイエス、オルタナティブが可能であることは明らかだ。しかしオルタナティブは、国家構造に対する民主的な反抗を通してだけではなく、労働者が諸々の技術を自分のものにする再所有化と再価値化を通したオルタナティブである。

 これは、ポスト産業化時代における新しい編成の労働力、より非物質的でより認知的になった労働力によって可能になる転換である。非物質的で認知的労働のオペレーターたちによって可能になる転換と言ってもいい。p166ネグリ 「原発危機をめぐって」

 ここで簡単にオルタナティブはイエスである、と断言することは本当は難しいのであろうが、ここでイエスと言わなければ、ネグリのネグリたる意味がないだろう。

 第一の波の農業においてのコモンが、農地の共有化でありそれは農村の構造にヒントがあっただろう。第二の波の工業においては、工場がそのコモンの目標になった。労働者たちの組合活動などが、大きな力を持ってきたことは確かなことだ。

 しかし、今、第三の波、情報の時代におけるコモンとは何か。ウィキペディアのような衆合知をいうのか、フリーソフトウェアのような技術のオープン化をいうのか、ツイッターやフェイスブックの時間や情報の共有のようなことを言っているのであろうか。

 少なくとも、ここでネグリが最終的に宮崎駿の「風たちぬ」を結句としているところを見ると、技術を国家の爆撃機の為に使うのではなく、大きなあの青空を飛ぶ、そのことのために技術をわがものとして奪還することでもあるようだ。

 短い日本滞在中に、反原発・脱原発の集会やデモに参加し、人々と議論できたのは、わたしにとって感動的な経験であった。多様なかたちで市民の抗議が政治的討議と結びついていることをこの目で見たからである。(中略)

 行動のルーチン的儀式性を越えて、彼らから湧き出る力は信じがたいほどのものだった。そのことをこの目で見、理解することが重要であった。p174 ネグリ「なぜフクシマのあとに安倍政権か」

 これは反原発に限らず、ここから繋がる反戦争法案の街頭デモなどにも言えるだろう。少なくともネグリがこのように表現している限り、ネグリの側からは、これらの動きを「マルチチュード」と捉えてしかるべき動きである、と断定してもいいだろう。

 アメリカ帝国の衰退を説明する要素は多々あるが、ここでは逐一取り上げるゆとりはない。わたしたちの関心の中心は、ガタがきたワシントンの力を強化するアメリカの試みが、現在は極力、日本との関係で行なわれていることだ。ヨーロッパは、いわばその固有の運命に打ち捨てられているかのようだ。ヨーロッパは自分の運命を自分でコントロールできるだろうか。そして日本は、アメリカの提案を歓迎するだろうか。p174 ネグリ「戦争と平和の問題」

 現安倍政権の数々の嘘は聞きあきたが、すでにネグリでさえ(笑)このように指摘しているアメリカと日本の関係に、さまざまな嘘をつきつつ、ずぶずぶの関係にハマっていく姿を、私たちは黙って見ているしかないのだろうか。

 ポスト工業化時代を特徴づける生産力および生産力の社会化の進展によって、人間精神もまた大きく発達した。科学は労働世界によって吸収され、生産のための協力は社会的次元を獲得している。労働は社会的に生産する。それは、工場のなかに閉じ込められて生産するのではなく、社会全体の活動を通して生産するということだ。

 つまり、逆説的なことに、搾取される立場の労働者が技術を自分のものにすることが、可能になるのだ。こうして、社会全体をカバーするまで協力が拡大されていく。p180 ネグリ「原子力国家の支配に対する抵抗」

 かつて、農地のコモン化や工場のコモン化が意味したものが、現代のグローバル情報時代においては、社会そのものがコモン化していくのだ、というのは、相当に面白い。現実味はどこまであるだろう。

 核エネルギーがテクノロジーを支配するとき、闘争は死を賭したものになる。それは闘争のアクターの双方にとって致命的なものになる。しかしながらわたしたちは賭けている。生きた労働が、一切の資本の包摂から解き放たれて、固定資本の主要部分をふたたび自分のものにすることができる、固定資本が使うテクノロジーを解放する道具にすることができることに賭けている。181 ネグリ 同上

 原子力エネルギーの技術を搾取されるのではなく、自分のものにする、という時、例えば私などは、小出裕章氏のような人物像を連想する。

<21>へつづく 

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2015/10/19

「市民農園体験記」<43>秋の感傷

<42>からつづく

市民農園体験記 
<43>秋の感傷

2004
 夏の猛暑の一ヶ月、畑に行っても、何もする気になれず帰ってくることが多かったのは、ひとつに、ウネの巾が狭く、私の巨体が入りにくいことも原因していた。

2005

 だから夏の間世話をできなかったトマトに屋根をかけてあげておいたのだが、なんと大風の日にビニールの屋根が飛ばされてしまった。

2008

 せっかく大きくなったトマトをせめて赤くなって割れないように収獲しようと思っていたのだが、その計画は失敗に終わった。

2002

 このトマト食べたかったが、もう終りである。サツマイモも、キチンと苗を根づけしなかったために、期待したような収獲はない。あれほど葉はしげっているのに(涙)。

2007

 秋なすびも実は期待していたのだが、やはりウネが狭いために体を入れて根のお世話ができなかったために張り方が浅い。そのためコヤシ不足を起こしているようだ。ひとつひとつが失敗と勉強の連続である。

2001

 支柱やネットを取り外すと、ガランとして、とても寂しい。ああ、私は、これから畑仕事を続けることができるのだろうか、なんて、ちょっと、秋の感傷に浸ってみる。

2003

 それでも、先日蒔いたミズナが芽を出し始めた。これからもなんとか、希望を見つけては、畑仕事に精出そう、そう思える瞬間である。サツマイモももうすこし。頑張れ!

2020

<44>へつづく

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<19>

<18>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<19>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

Ⅲ原発危機からアベノミクスまで、「日本の現在」と向き合う 

  アベノミクスと「風立ちぬ」 アントニオ・ネグリ(訳 三浦信孝)---日本から帰って考えたいくつかのこと p162

 日本に着いたときわたしの脳裏にあったのは、ヴェネチア・ビエンナーレで大きな衝撃を受けていた伊東豊雄の建築であり、それを最初の講演の導入としたのだが、今日こうして遠く離れた場所から日本の友人たちと議論を再開するにあたって、わたしの目の前にあるのは半田也寸志の圧倒的な写真集「マイティ・サイレンス」(イタリア・スキラ社、2013/03刊)である。

 フクシマのまわりにひろがる平原を、嵐のあと亡霊のような静けさが支配し、自然が引き起こした悲劇が、生きることの意味を問うている。それこそが最初に考えるべきことだから。フクシマの悲劇は終わってはいない。悲劇は続いており、深まっている。しかし、それにもかかわらず、生きていかなければならない。この荒涼とした、悲嘆にくれた土地で、闘っていかなければならない。p163 ネグリ 「原発危機をめぐって」

 この本を一読したあと、私の脳裏に残っていたのは、伊東豊雄のことであるし、宮崎駿のことであった。ネグリは積極的に日本に向き合っている。ともすれば、リップサービスに近いものでないのか。それにしても、伊東豊雄と宮崎駿だけでは、ちょっと物足りないな、もう一人だれか必要だろう。誰だろう。

 そう思っていた矢先、ここまで来て、なんと半田也寸志の名前がでてきたのだった。ちゃんと出ていたのである。私の速読は大事なところを、すっぽりと読み残していたようだ。

 伊東豊雄の建築は、私がいつも行く中央図書館の出来栄えで、良く知っている。ある意味、当ブログのプロジェクト567のひとつの象徴でもあった。

 宮崎駿のアニメは、あまり得意ではないが、先日、この本を読んでからさっそく「風立ちぬ」を見ることになった。DVDを予約したのだが、何十人待ちの大人気作品である。私の番にくるまでいつのことになるやら、と諦め気分だったが、実は、すでに我が家のテレビの録画ハードディスクには「風立ちぬ」はちゃんと入っていたのだった。見ていないのは我が家では私だけだった(汗)。

 なんとまぁ、身近な存在にネグリは、ちゃんとアクセスしてきている。単なるリップサービスなんではないか、という私の下衆の勘ぐりは、あまりに失礼だったのではないか。伊東はヴェネチア・ビエンナーレ国別参加部門で最高賞となる金獅子賞を受賞していたし、ヴェネチアのモストラ映画祭で、ネグリは数日前に「風立ちぬ」を見た、のだった。なんというイタリア・ネグリと、わがエリアの繋がりであろうか。

 そして、私にとっては三人目として登場した半田也寸志の写真集「マイティ・サイレンス」(イタリア・スキラ社 2013 /03)は、イタリアで刊行されたのであった。そして、この原稿を書いている時のネグリの目の前に、その写真集はあると言っている。原発事故直後のフクシマの風景である。

 残念ながら、半田の写真集はイタリア版は、わが図書館にはない。しかし「20 DAYS AFTER」ヨシモトブックス 出版年 2012/3)なる本は入っている。もちろん、被写体は、あの3・11直後の被災地の風景である。私は、直後に被災地に立ったが、一枚も写真を取ることはできなかった。まずはこの写真集から見てみよう。

 少なくとも、ネグリは、その写真を元に、3・11と向き合おうとしている。この本の読んで、そして、さらにこの章を読みかけて、私はネグリにとても近いものを感じるようになった。

<20>につづく

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「WIRED×STEVE JOBS」 『WIRED』 保存版特別号<4>

<3>からつづく

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WIRED×STEVE JOBS」 <4>
『WIRED』 保存版特別号 2013/10 コンデナスト・ジャパン 雑誌 p178 kindle版 

 保存版特別号である。私は、マック派ではなかったので、ジョブズのことは余り追いかけなかった。むしろ80年代から90年代後半にかけてのジョブズのニュースは決して明るいものではなかった。いやな奴で、マック陣営から追い出されてしまった、というニュアンスが強かった。

 1998年頃になって、スケルトンのパソコンiMacが売り出され、大変な話題になった。丁度我が家では娘が高校に入ることになり、入学祝いにiMacをプレゼントしたのだった。これで娘はMac派になるのかな、と思っていたが、結局二台目のパソコンはWin派に転向してしまったのである。

 開いてしまったiMacを私はリナックスを入れて遊んだりしたのだが、じゃぁ、それが何なんじゃい、と馬鹿らしくなり、結局は近くの小学生に譲ってしまったのだった。私はパソコンレベルでは、ジョブズの偉さは分からなかった。

 ところが子供たちは高校大学と進むうち、iPodなるものに夢中になり、我が家も人並みにMacに冒されていたのである。気付かなかったのは私ばかり。だが、通信費がかさむiPhoneにはさすがに子供たちの手も出なかった。連絡用にどうしてもケータイが欲しい時は、ガラケーでガマンさせた。
 
 子供たちも働くようになり、そしてさらには2台持ちも当たり前の時代になると、ちらほらiPhoneの話題もでるようになったのである。Win+Docomoの保守的な体質(笑)の私は、iPhoneの話題は積極的に無視していた。知らなくていいのである。アナログ派とまでは言わないまでも、もうアラ還の私たちの世代は、ある意味、ITはもはや飽和状態なのである。
 
 3・11を経験し、56歳7ヵ月のジョブズは逝ってしまった。その時になっても、私は、ジョブズの「偉さ」には気付くことはなかった。逝ってしまって、大量に出されたジョブズ哀悼の記事をおっかけているうちに、ようやくその偉業に気づかざるを得なかったのである。
 
 いや今だって、本当はどうかな、と思う。仕事でややMac類も解禁モードになってきたし、DocomoもiPhoneを扱うようになって、私はようやくiPadを扱い、iPhoneを使うようになった。パソコンはまだ仕事モードでは使えないので、古いWinで誤魔化しているが、実は、いずれはMac派に転向しようかな、と気もそぞろなこの頃なのである。
 
 この本を読んでいて、本当は、佐々木俊尚がどこかに辛口のジョブズ評を書いていたので、読後感は、その文章を転写することで終りにしようと思っていた。しかし、どこに逝ったか見つからない。あの人にして、そこまで辛口なのだから、私のジョブズ「嫌い」も許して貰えるかな、そんな気分がすこしあった。 
 
 ジョブズが仕事仲間だったら、そして彼の部下だったりしたら、私なんぞは、さっさと辞めただろうな。聞けば聞くほど、いやな奴だなぁ、と思う(爆笑)。すくなくとも、私のライフスタイルの中に、彼のような「友人」は持ちたくないと思う(爆笑)。だけど、その偉業は、私たちの世代では、忘れられない大偉業だったのだ。
 
 ジョブズの本当の姿は、もう少したってみないと、正当には評価できないかもしれない。少なくとも映画「スティーブ・ジョブズ(2013/11)はまた見たいとは思うけれど、それって、本当はまだまだジョブズの真実ではないに決っている。
 
 「Wired」って雑誌は気になる雑誌ではあるが、まだまだ私自信の好みとはずれているために、熟読できていない。そのうち、こちらの「Wired」誌についても追っかけをしたいと思っている。
 「WIRED」はいかにスティーブ・ジョブズを伝えたか?
 1995~2012 ジョブズ/アップル傑作記事アーカイヴ 表紙より

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<18>

<17>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<18>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

<応答1> 「社会的なもの」の行方 市川良彦 p104

 ネグリの講演に対して日本側から提示された「応答」の中では最もネグリの哲学よりに発言されたもの。とはいうものの、もっともっと「日本」の実情を語り、その実情にいかにネグリ哲学が対応するかを力説する。

 3・11からの二年間、次第によく耳にするようになった言葉として、次のようなものがあります。街頭デモは議員を選ぶ投票行為とならぶ、もう一つの「主権的」行為だ。想定を超える出来事に遭遇して国家が機能不全に陥っているとき、選挙を待っていられないとき、あるいは結局のところ様々に相反する利害を反映-調停することしかできない選挙には多くを期待できないとき、街頭から国家を動かすことは必要かつ健全な民主主義のあり方であり、国民の主権行為の一形態だ、という主張です。p106市川 「『市民社会』と『討議民主主義』」

 今年夏の戦争法案廃棄デモも、これらの主張に連なる動きとみることができる。しかしながら、現在、私たちの国は代議民主主義を採用しているのであり、国会前がいかに騒々しいとは言っても、国会内の議決による議決が先行するシステムである。

 ここでは、投票率を上げる、あるいは投票に行けば事足りる、と考える「代表される人間」であることで事足りるとする時代は次第の終わっているのかもしれない。国会といわず、街々の路上にでてこそ意志を表示すべき時代がやってきたのかもしれない。

 今日、「成長」路線の実体はコモンの破壊です。だとすれば、「社会的なもの」をめぐるマルチチュードの立場とは、負ならぬ正のコモンの建設によって、つまり共有財産の拡大によって、この破壊に抗(あらが)うことであるでしょう。ストックされた「財産」として私有された富を共有化する方策を想定すべきでしょう。p119市川 「『公共財』の奪還闘争とマルチチュード」

 最近になって、ようやく「コモン」が<帝国>やマルチチュードと並び立つ重要なネグリ三要素であることを「発見」した当ブログとしては、急いでこの部分を読みこまなければならない。コモンはコミューンにつらなる類似あるいは近似概念であるとするならば、Oshoの「コミューン」と対峙しつつ、引き寄せつつ解読する必要がある。すくなくともここでの市川の理解では、より物質化された経済観念に偏りすぎているように思われる。

<応答2> 日本のマルチチュード 上野千鶴子 p120

 ここの文章は、「現代思想」 (2013年7月号 特集=ネグリ+ハート 〈帝国〉・マルチチュード・コモンウェルス)に収録されている文章とほぼ同等の内容である。文末の調子や、広範の女性たちの活動などに対する補強はあるが、趣旨としては同じことと言えよう。

 マルクス主義の「生産」や「労働」の概念が失効したあと、ネグリの概念にわたしたちが期待するのは、それが抽象度の高い概念でありながら、現実に起きている変化を言い当てるリアリティをも備えているからである。p124上野 「社会的弱者のための<共>」 

 上野は常に女性に寄り添い、女性の立場から発言しつづけてきた、ある意味、女性を「代表」するような論客ではあるが、常に、具体的な生活レベルまで降りてくるところに、彼女の特性がある。

 ネグリの最初の来日が決まったとき、日本に来たら「日本のマルチチュード」に会いたいという意向を持っていることを知った。(中略)もしわたしなら、彼を、そういう女性たちが始めた社会的企業の現場へ連れていくだろう。p125上野 同上

 いかにも上野らしい発言と納得する。しかしながら、この時の女性たちに限らず、はて、日本において、「われこそはマルチチュード」という形で活動している人びとは、国会前デモを始めとして、どれだけいることだろうか。

 ある種の動きを、「外」から、あれこれ解釈することは可能であろうが、自らの動きを明瞭にマルチチュードとしての活動であると宣言している人びとはどれだけいるだろう。そこには、どのような世界観が展開していることだろう。

<応答3> 3・11以降の反原発運動に見る政治と文化 毛利嘉孝 p139

 この人の趣旨は、今回のこの応答の三人の中では、私の言葉使いや解釈に最も近い。なるほど、私の理解でいいのだ、と納得する部分も多い。しかしながら、そこにもまた、あらたなる落とし穴がある。

 ソーシャルメディアの情報ネットワークは多くの場合、個人ごとに編成されるので、ひとたび特定のクラスターに属してしまうと、異なるクラスターの情報から遮断されてしまいがちです。メディアは、人を繋げる機能もありますが、同時に人を分断する機能もあるのです。p154 毛利「3・11意向の反原発運動の可能性と問題点」 

 こうしてみると、この著者と私は、わりと近いクラスターに属していた可能性が高いかも、と言えるだろう。いつも不思議に思うのは、例えば反自民党が私の回りでは100%なのに、自民に有利に選挙が展開したり、反原発が100%なのに原発が再稼働したりすることである。これは、そのようなクラスターの下部にまで落ちていって見聞を広げているために、私には、他の意見が届きにくくなっている、とさえいえるだろう。

 長く日本の戦後を支えてきた、安定的な中流階級の幻想が打ち砕かれる中で、社会に対して批判的な視線をもつ新しい政治的主体が登場したのです。そこには、ミュージシャンやDJ、編集者やライター、アーティストやデザイナー、イラストレーターなどさまざまなクリエティブ産業、文化産業、メディア産業で働く労働者--「認知的プレカリアート」が多く含まれています。もちろん、ここに「マルチチュード」という言葉を重ね合わせることはそれほど難しくはありません。p148 毛利「3・11以降の反原発運動を文脈化する」

 まさに私のマルチチュードのイメージであり、国会前デモの認識である。ここでは「認知的マルチチュード」が主に置かれているが、上の上野千鶴子のように「情動的マルチチュード」たちの動きにも、もっともっと光を当てなければならない。

 この新しい国家資本主義は、もはや合意形成に頼ることはありません。むしろ、緊急性、非常事態を旗印に、「合意形成をしない」ということを最大の特徴としています。この時に用いられるのは国家の危機というレトリックです。p156毛利「3・11意向の反原発運動の可能性と問題点」

 まさにその通りの事態がどんどん進行している。ある意味、とても恐ろしい時代である。

 反原発運動をネグリが論じてきたさまざまなグローバルな対抗運動の文脈の中で捉え直すことは決して無駄ではないでしょう。(中略)ネグリの理論を通じてではなく、ネグリの傍らで反原発運動を考えること。私は、このことが、新しい政治的連帯にとってとても重要なことに思えるのです。p159毛利 「ネグリの傍らで反原発運動を考える」 

 まさに正論。国会前反戦争デモを見ながら、マルチチュード的にとらえ直そうとするのは、こちらの認知的衝動なのであって、彼らに、マルチチュード的自覚を求めようとするのは、やや妥当性が欠けるのだ、と理解しておこう。

<19>へつづく

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「わがボタニカルライフ」<20>ボタニカル・アラカルト

<19>からつづく

「わがボタニカルライフ」

<20> ボタニカル・アラカルト

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 友人がホームセンターのおまけでもらったパンジーを持ってきてくれた。寄せ植えにでもしようかな、とも思ったが、たった一苗のパンジーもどういう成長を遂げるか見るために鉢植えに。

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 こちらは、兄弟が持ってきてくれた野菜の中に入っていたクレソン。このまま食べてしまったのだが、そういえばクレソンの水栽培とやらがあるらしいということで、コップに刺してみた。

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 日差しが強すぎたのか、一時はぐったりしたものの、持ち直して、パリパリ元気になってきた。どこか根らしきものさえ生えてきている。

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 だいぶ前に捨ててしまったはずのアジアンタムが家の裏で自生していた。その元気さに見とれて、鉢上げすることにした。

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 元気に大きく育ってほしい。

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 こちらは真実の木こと、ドラセナ・マジナータ、とやら。

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 ちょっと大きめの鉢に植えかえた。もう何年ぶりなのだろう。

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 冬さびしくなるので、花壇に花キャベツ。

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 先日、孫が蒔いたミズナも目を出して、どんどん成長中。

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<21>につづく

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2015/10/18

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<17>

<16>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<17>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 「原子力国家」の本性とはなにか。わたしが「原子力国家」と呼ぶのは、エネルギー政策だけではなく政策全体の基礎を、原子力の活用と、それが意味する重大な社会的リスクのうえに据え、このテクノロジーをを前提として巨大なピラミッドをなす金銭的均衡のうえに据えている国家のことである。p90 ネグリ 「『原子力国家『』とは何か」

 <帝国>の一翼を成す原子力国家。その全貌をスケッチする。

 この権力は自律性を大幅に失っているにもかかわらず、まだ自律性を維持しているとヒステリックに主張しようとしている。だからこのこの権力はマルチチュードに対して、「下からの」デモクラシーをつくりだしている特異性の全体に対して、政治的再構築の中心的位置をゆずるのを絶対に拒んでいるのだ。p91ネグリ 同上

 ネグリは、現在のマルチチュードを4つの人間像の特異性を列挙する。

 それらは4つの人間像により具体的に表現される。というのも新たな生政治的統治力は、より強力的でマルチチュード的な未来、すなわちデモクラシー的<コモン>の構築に近づいている個々人の特異性を、この4つの人間像によって管理運営しようとしているからである。

 4つの人間像とは、「借金を抱える人間」 「メディアに媒介され人間」 「セキュリティを保障される人間」、そして「代表される人間」である。最近マイケル・ハートとの共著「叛逆」で分析したこれらの人間像は、現在進行中の社会的危機のパラダイムを4つの角度から表現している。ネグリ p92「危機が生みだした『4つの人間像』」

 「叛逆」マルチチュードの民主主義宣言 2013/03 NHK出版)にも目を通していたが、私はこの4つの人間像という部分を読み落としていたようである。

 まず「借金をかかえる人間」は、賃金が個々の人間の搾取の対価でなくなった後に、金融が社会を支配するようになったことの産物である。 

 二番目の「メディアに媒介される人間」は、メディア権力が強いる疎外が生みだした人間像である。メディア権力が主体に対して、その頭脳と知識と実践、そして社会的関係に基づいた協力によって価値をつくり出させた後、真理を歪曲し、欺瞞の世界秩序に服従せざるをえなくする、そのときに現れる自己疎外である。 

 三つ目の「セキュリティを保障される人間」は、「治安の悪さ」におびえる人々のことである。「人間はたがいに敵である」という妄想をふりまく国家に、より多くの統治と保護を求めるようにしむけるため、「治安の悪さ」がたえず生産される。 

 治安対策の名のもとに人間たちをさらに服従させるために利用される、恒常的な治安の悪さという脅かしと妄想は、まったくばかげている。というのも、いまや生の世界における生産は人間どうし結びつきのパワーに依存するようになり、私有財産ではなく共通の活動に依存するようになっているからだ。 

 四つ目の「代表される人間」という人間像は、制度構築の偽りの規範に基づいている。この偽りの規範の中で代表制(代議政治)の概念は、もっぱら資本主義権力に奉仕する官僚的かつ象徴的な機能に依存している。この「代表される人間」という人間像こそが、権力の中枢と生(バイオ)資本主義の骨格をつらぬく矛盾の総体を、もっともよく表しているのではないだろうか。

 債務と恐怖は、わたしたち一人ひとりの生の内部、特異性の肉体の内部に、もちこまれた災いをしめす、二重の顔であるが、その二つが真理に対するあらゆる関係を、規律と遵守すべきあらゆる理由を奪い去っている。規律の遵守はもはやひとつの知ではなく、愉快な感情でもなく、絶望をともなう悲しい情熱になってしまった。p92 ネグリ 同上

つまり、革命の主体たるマルチチュードは、4つの典型の形で、その力を抑制され、束縛されている、という理解でいいのだろう。

 「借金をかかえる人間」。つまり、住宅ローン、奨学金ローン、カード負債、などなどのローンに絡み取られている現代人の姿がある。

 「メディアに媒介される人間」。つまりは一次情報に触れることなく、作り出された二次三時以降の情報の海に投げ込まれている姿であるか。

 「セキュリティを保障される人間」。守る人は守られるというルールの押し付け。作り出されたリスク、危険。尻尾を捕まえられている。

 「代表される人間」。直接民主制が実行されず、常に作られた選択肢の中に埋没していくように仕向けられている。

 まずは、このようなイメージで理解するが、はてさて、こんな風な理解でいいかな。

<18>につづく

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2015/10/16

「ヤバいLINE」 日本人が知らない不都合な真実 慎武宏他

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「ヤバいLINE」 日本人が知らない不都合な真実
慎 武宏(著), 河 鐘基(著) 2015/05 光文社 新書 254ページ
No.3587★★★☆☆

 一年ちょっと前に近くに大型家具店「IKEA」がオープンした時、商品類はたしかにデザイン的に凝っているものが多く、あちこちから若い女性の声が「かわいい!」って聞こえてきた。ふむふむ。

 カッコイイ、とか、素敵、かわいい、って言葉に混じって、後ろからやってくる若き女性たちの口から、「ヤバい!」という言葉が連発されるのには参った。ヤバい、という言葉は、私たちアラ還の世代ならば、「ヤバいところを見つかって、捕まった」などと、否定的に使うのだが、どうも、若い世代はそうではないらしい。

 カッコイイ、素敵、かわいい、を通り越して、この魅力的な存在に、私は圧倒されてしまいましたわ、的にこの「ヤバい」という表現が使われているらしいのだ。

 はてさて、この本においての「ヤバい」はどちらの意味で使われているだろうか。サブタイトルの「日本人が知らない不都合な真実」が示すように、決して超素敵、超カワイイというニュアンスだけではないような使われ方をしているようだ。

 おそらく、LINEというネットサービスは、素敵、カッコイイ、かわいいのレベルで、あるいはそれ以上の意味で若い層を中心に魅力を振りまいているのだろうが、アラ還の私なぞは、「『LINE』なぜ若者たちは無料通話&メールに飛びついたのか?」(2012/11マイナビ)の時にメモしたままのイメージで、ずっと来ている。

 日本で生まれた純日本制のメッセージアプリ。ましてそれが東日本大震災を機に生まれたというエピソードは、日本人の心に強く非ビック。日本で急速に普及した背景には、こうしたドラマチックな要素も多分に影響したのだろう。LINEが純日本製のアプリではないという報道もあるが、その誕生秘話については第三章で詳しく後述することにする。p39「ヤバいLINEの『稼ぐ』力」

 誕生秘話に一難あるな、という直観は、この本で詳述されているので、そこに関心のポイントがある人は、この本は見逃せない一冊だが、私はそれ以前に、サービスそのものが、私のネットライフには合わないな、と思ってきた。

 まず、繋がりのひとりひとりの距離感が近すぎること。ここが、悪い意味で「ヤバい」。勝手に自分の電話番号や個人情報が吸い上げられたり、他人が「売り渡している」ことに強い違和感を感じる。さらにリアルな人間関係に、無駄に接近しすぎる。ここが、私にとってはヤバい。

 日常生活においても、キスをしたり、ハグをしたり、あるいは子供を抱っこするような場合には肉体的接触もあるだろうが、普通の会話をするなら、適当な距離感というものが必要である。駅のホームの線路を挟んで会話するのは遠すぎるだろうが、口と耳をこする程度では、あまりに近すぎる。その必要な距離感は、それぞれの感性にもとづくものだろうが、LINEは、私の距離感には合わない。

 重要なのは親と子の関係、やはり基本となるのは家庭でのコミュニケーションじゃないでしょうか。親が一方的に禁止しないで、むしろ率先してLINEを使ってみるべきです。p94「LINEで苦しむ子どもたち」

 それはもっともなことだ。活用しないまでも、私もユーザー登録して、アプリもインストールしている。

 人々に愛されるサービスになるには、偉大な哲学が不可欠だ。それは、古今東西すべての商品や企業に共通していえる。ましてや、グローバルな市場を追求するIT企業は、世に放つサービスの哲学をより一層問われることになるだろう。p111同上

 こちらも最もな話ではあるが、当ブログは現在「ネグリ、日本と向き合う」を読み進めているところである。ネット企業として、「<帝国>」の落とし穴に早々と堕ちていってしまうのか、あるいは、新たなる若きマルチチュードたちを育て、さらにその<武器>とさえなるのか。ある意味、テストパターンとしても、関心を寄せ続けておきたいテーマである。

 NEVERは収益を出すために、公平性やユーザーの利便性などはあまり尊重していない。おそらく、他のグローバルIT企業のような、哲学がないのだと思います。p195「哲学はあるか」

 LINE日本社の親会社と目される韓国NEVERも、その質を問われることになる。

 日本で向かうところ敵なし、そしてグローバル市場でも虎視眈々とトップの座を狙うLINE。はたして並みいる強敵を押しのけて、人気、サービスともに充実したスマートフォン時代の覇者になれるか。月並みだが、おそらくその答えはユーザーにとって魅力的で、有用なサービスを開発し続けられるかどうかにかかっている。

 LINE社とユーザー間のオープンでリアルなコミュニケーション。それがLINEの未来を左右するはずだ。p240「LINEの未来」

 おそらく私は、ことLINEにおいては、いちユーザーとして、遅れてやってくる大衆レイトマジョリティーに甘んじるだけでなく、不採用者ラガードに落ちるであろう。まぁ、代替サービスがあるので、私はそれで足りそうであるが、私が完全に「時代遅れ」になる前に、私を魅了してくれる、「<帝国>」に対峙するマルチチュードとしてのツール、コモンを建設するような、新しい機能へと進化する道筋が見えてくるといいなぁ、と思う。

 いい意味での「ヤバい」ツール、ほしいなぁ。

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<16>

<15>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<16>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 <コモン>のなかにマルチチュードを構築するとは、政治概念や統治の装置を表明するにとどまらない。それはまた、教育し、労働を組織し、愛し、富を配分することである。限界や分裂が現れるのはそのときであり、場合によっては逆に癒着や重なり合いも生じる。つまり唯物論が突如として歴史の存在論と出会うことになる。p89ネグリ「マルチチュードはいかに自らを組織化するか」

 ここまで読み進めてきて、ハタと思い立ったことがある。これまでネグリ&ハートの三部作とされる「<帝国>」、「マルチチュード」に加えるところの、「コモンウェルス」への読み込みは、3・11後の邦訳でもあったために読み込みは全く不十分であった。

 しかしながら、ここに来て、その重みを更に感じつつ読んでみると、その<コモン>は、当ブログの重要キーワードでもある<コミューン>に類似し、あるいは親和性を持っているのではないか、ということに気づいた。

 ここには「共通の」「コミューン」「コモングランド」など、キーワード「コモン」に結びついた語が使われている。「コモン」はcommon good(「共通善」あるいは「共通財」)の例に見られるように「共通の」「共有の」という意味。

 ただしネグリはこの語を名詞形で使うときは、「公」と「私」の二分法を越えた「共」の次元をさす。イタリア語のcomune(コムーネ=自治年の共同体)の語感もある。p100  訳注

 かなり近い。当ブログなりに、かなり恣意的に読解するとして、仮に「マルチチュード」をサニヤシンと読み、「<帝国>」を魂へのマフィア達、と読みかえる時、「コモン」あるいは「コモンウェルス」をコミューンの類語あるいは近似として読みかえることも可能なのではないか。

 「魂へのマフィア達」、「サニヤシン」、「コミューン」。この三大テーマの一つとして捉えるなら、ネグリ&ハートのいうところの「コモン」ないし「コモンウェルネス」は、極めて身近な、そして重大なテーマであることに、今さらながらに気づくのである。

 マルチチュードはいかにして、自らを構成している主体の自立性を損なうことなく、自己を組織化できるのか。いかにして特異性の肉体をマルチチュードの身体のなかに構築できるのか。p89ネグリ「マルチチュードはいかに自らを組織化するか」

 ここではこの後は問いかけにすぎない。私はここである1980年代の中盤に行なわれたひとつの先行的な実験を思い出さずにはいられない。読みかえればこうなる。「サニヤシンはいかにして、自らの瞑想的な自立性を損なうことなく、コミューンを建設できるのか。いかにしてひとりひとりの個性をブッダフィールドのなかに溶け込ませていくのか」

 この問題に取り組むに先だって、わたしたちの「敵」はどうなったのか、現在どんなかたちで現れているのか考えてみたい。その際、3・11を21世紀が始まっていらい経験した危機の最高点と考えたい。

 つまりあの原発事故は、あらゆる不均衡の全体、政治的主権の危機、そして勝ち誇るネオリベラリズムによる経済支配の危機、それらすべての範例(パラダイム)的要約なのだと考える。p90「『原子力国家』とは何か」

 3・11を「21世紀が始まっていらい経験した危機の最高点」と考えている、というところが、当初、当ブログで、この本は他の本との類似性を直感したことに繋がっていると思う。

4p

 3月11日から間もなく、わたしは共同通信のインタビューに応じなければならなかった。最初の質問は、地震・津波・原発事故が引き起こした悲劇は日本を、いや日本を越えて文明全体を、ひとつの重要な問いの前に立たせたのではないか、という質問だった。

 この問いは、わたしたちの文明が深い自己批判なしに存続していけるか否かを問うものであり、自然と共存する新しい方法が必要ではないという認識を迫るものだった。

 しかし、10年以上前からグローバリゼーションの理論家たちは、「歴史は終わった」、資本主義の発達はさまざまな改革を経て、最終的にはわたしたいを「アメリカ的幸福」に近づけるという、楽観的な展望を開陳してきた。

 ところがわたしたちはたちまち、2001年の9・11の恐るべき事件、2008年の金融危機を経て、2011年3月の日本の破局を経験してしまった。これらの出来事は、わたしたちを文明の完成ではなく、文明の限界の前に立たせたのではないか。p78  ネグリ 「3・11が突きつける問い」

 このインタビューは、「世界が日本のことを考えている」 3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ共同通信社( 2012/03 太郎次郎社)の中に「原子力は「怪物(リバイアサン)」である」アントニオ・ネグリ、という文章で残されている。

<17>につづく

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2015/10/15

「ボタニカル・ライフ―植物生活」 いとう せいこう<1>

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「ボタニカル・ライフ―植物生活」<1>
いとう せいこう 2004/02 新潮社 文庫 399ページ
No.3586★★★★★

 この本、図書館から一旦は借りだしたものの、結局、まだ読んでいない。NHKBSテレビ番組「植物男子ベランダー」のseason2をテレビで見、ネットで動画を繰り返して観て、season1も、再放送で見たので、なんとなく全編を見たようにも思うのだが、まだ見足りない。来年のseson3があることを期待しながら、ネットをいじっていたら、この本の朗読を発見した。

 これは便利だ。最近はあまり目を酷使したくない、と思いつつ、本当はもともと小説などは苦手な私は、あまり本なんど読みたくないのだ。ベットやソファーに横になって、イヤフォンでほんの内容を知ることができるなら、これにこしたことはない。

 そう言えば、最近ハマった藤沢周平の小説も結局はまともに読んでいない。映画とビディオと、朗読DVDで済ましてしまったのだった。こちらの本も、それができるかもな、と、私としては大喜び。この朗読をしている人はカタリナさん、という人だ。

 どういう人なのだろう。声の感じでは30代の女性。おそらく中肉中背か、やや小柄で、ナチュラルな黒いヘアー、白やブルーのニットやコットンの服を愛用しているのではないだろうか、なんて勝手に想像する。

 ちょっとナマったり、引っかかったりするときの感じが、若い時の友人に似ているので、おそらくカタリナさんは、関西出身の方なのではないか、とますます妄想をたくましくする。そんな私のイメージがどんどん膨らんだのは、いとうせいこうにかぎらず、彼女の朗読がどんどん広がり、その広がりが、割と私の好みの世界に連なっていったからである。

 こちらはヘルマン・ヘッセ。しかも「庭仕事の愉しみ」(フォルカー・ミヒェルス編集 1996/06 草思社)へと連なっていくのである。なんといたったりかなったりか。当面は、カタリナさんの朗読で足りるのではないだろうか。

 なんて考えていたら、彼女の朗読の数は半端じゃない。河合隼雄や宮沢賢治、エーリック・フロムやエックハルト・トールなどにもどんどん通じていくのだった。そしてそれぞれの視聴の回数も半端じゃない。この人は、人気者なのだ。ひょっとすると、ネット界のアイドルかも。

 そしてついに「タオ自然学」なんてのも発見した。そもそも原文は相当に面白いのだが、読んでいると眠くなる。正直言って私は通読したことはない。読み疲れるのだ。そんな文章も、カタリナさんのたんたんとした、余計な飾りのない朗読だと、とても分かり安く、どんどん頭に入ってくるから不思議なものだ。

 ああ、またまた読書の秋、芸術の秋にして、新しい楽しみを見つけることになった感じがする。

<2>につづく

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2015/10/14

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<15>

<14>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<15>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 マルチチュードは無分別な群衆として現れることはありえない。わたしたち個々人の孤独は変容をこうむっているからだ。近代において個人のエネルギーと企業人のヒロイズムが見られた場所には、今日では社会規範に従属した個人の悲しい情熱しかのこっていない。

 個人主義はいまや存在論的に不可能になっている。なぜなら、わたしたちは言語とコミュニケーションのただなかに生きており、豊かな表現と拡張する力を持った特異性は、ものを生産しない個人の暗い内面性という古いかたちに対し、絶対的優位性を獲得しているからだ。p86 ネグリ 「認知労働と協働ネットワークが社会を変えた」

 この辺で、ネグリが何を言おうとしているのかは、さまざまな文脈と、彼流の言葉の使い方、それぞれの定義をより明確しつつ、再検討、再々検討されていかなければならない。それにしても、この辺の「個人主義」と言われているもので、彼は何を言おうとしているのだろうか。

 「ものを生産しない個人の暗い内面性」とマルチチュードは、この地点では反対概念として捉えられている。善し悪しはともかく、当ブログにおける人間像(例えば地球人、とか、地球人スピリットとか・・)とは、かなり距離が隔たっているものだな、と痛感する。

 周囲を見渡せば、子供や老人、一定の障害がある人々を除いて、「ものを生産しない」人々と見られそうな存在は、たしかにいる。ものを生産し得る立場でありながら、個人的な環境にあり、ある意味「ひきこもり」とさえ言えるほどに、「個人の内面性」に入りこんでいるかのようでもある。

 逆にある意味、積極的に個人の内面性(暗いとは決して断定できない)に入ることによって、自らの人間性を完成させようとする流れもある。

 翻って、私はどうなのだろう、と考える。おそらく私は年齢的にもすでに正規雇用者ではないので、いわゆる組織された労働階級ではない。逆にいえば、認知的労働とみられる業務についているわけだし、考えようによっては協働ネットワークに繋がっているので、個人主義的ではあるが、マルチチュードを自称しようとしても、的外れとは言い難いポジションにいる(筈)。

 統治(ガバメント)の諸科学は、まず諸個人を「人口」として構成するとき、個人をより容易に統治できることを学んだ。ついで、諸個人からなる「人口」は、彼らが相互間にむすぶ間主観的関係にはたらきかけるとき、はじめて指導と誘導が可能になることを学んだ。

 さらに良い方法として、最終的には民主主義的なやり方によって、諸々の特性の経済的ニーズと政治的意志を根底部分からとらえ、それを規範として表現するときはじめて指導と誘導が可能になることを学んだのである。p87ネグリ 同上

 分かりにくい翻訳だが、この辺りはネグリも否定的にとらえている部分とみていいのだろう。ガバメントとは、近代国家による一元的統治を意味し、それに対峙する概念としてガバナンスを用い、マルチチュードによる脱中心的で多元的な民主主義を表しているからである。(p49参照)

 マルチチュードのコンセプトは<コモン>というもうひとつのコンセプトと分かちがたく結びついているという点だ。<コモン>とはなによりもまず、わたしたちが現在そのなかで生きており、かつ、わたしたち自信が生み出している生産的全体を意識化することにある。

 <コモン>とは、わたしたちがそのなかに投げ込まれており、かつ、わたしたちが未来に生みだす生産的全体を意識化することにある。無数の特性が交叉し、主体性による生産が集団的プロセスのなかに書き込まれ、<コモン>が形成される。 p88 ネグリ 「<コモン>構築のプロセス」

 この辺も実に夢想的で、性善説にのっとって展開されている論理だと思える。夢想的で性善説で、理想的ですらあることにおいては、わがOshoが展開する世界観とどっこいどっこいだ。

 もちろん、<コモン>を形成すべく無数の特異性の出会いが実現しても、<コモン>の「織物」は生まれないかもしれない。特異な情熱のあいだの架橋は失敗に終わるかもしれないし、共同の生は作り物のアイデンティティやイデオロギー的物神(フェティッシュ)のかたちで、時間と空間のなかに断片化され分散されるかもしれない。

 しかし、この河は流れつづける。たしかにはじめは激しく荒々しい流れとなって。しかし平野に出れば、水は広がり流れは和らいで、<コモン>の相貌を獲得するにいたる。そこに至れば、連帯が支配的になり、根底的なつながりが生まれる。p88 ネグリ 同上

 ここまでくれば、もうすでに政治学者が述べる論理とかではなく、もはや詩人ネグリの希望的楽観論である。しかるに私は、このような詩情をネグリが持っていることに安堵するし、なんとかこの辺りから、さらなる繋がりを見つけることができないか奮闘することになる。

<16>につづく

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2015/10/12

今日の気分はこの3冊<13>目次

<12>からつづく 

 

今日の気分はこの3冊<13> 目次

54)2021/05/08  NEW
「スピリット・オブ・ロードスター」
ハワイアン  「歯科椅子上のリゾート」シリーズ
「龐居士の語録」

53)2021/03/06
「瓢鮎図」の謎
「禅問答入門」
現代人のための「禅問答入門」

52)2021/02/11
「NHKスペシャル MEGAQUAKE巨大地震」 
「仙台平野の歴史津波」
「原子炉時限爆弾」 

51)2021/01/20
It's All About Change: The Greatest Challenge to Create a Golden Future for Humanity
Osho(著), Osho International Foundation(編さん)
Words from a Man of No Words

Osho 2015/12 ペーパーバック Osho Media International  
「A Course in Meditation」 A 21-Day Workout for Your Consciousness
Osho(著)  2019/09 

50)2020/11/30
「ウィキペディアで何が起こっているのか」 変わり始めるソーシャルメディア信仰 
山本 まさき (著), 古田 雄介 (著) 2008/9  オーム社 
「21 Lessons」 21世紀の人類のための21の思考
ユヴァル・ノア・ハラリ (著), 柴田裕之 (翻訳) 2019/11 河出書房新社  
「瞑想録: 静寂の言葉」
OSHO (著), 中原 邦彦 (翻訳), 庄司 純 (翻訳) 2019/11  季節社 

49)2020/06/25 
可笑しな小屋」 居心地のいい「ミニハウス」---羨望の35軒
  ジェィン・フィールド=ルイス 2013/12 二見書房
「恐竜の世界へ。」 ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS 013)
真 鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ 
「京都人の密かな愉しみ」
NHK「京都人の密かな愉しみ」制作班+源孝志 (監修) 2018/03 宝島社 

48)2020/04/11 
「 死について41の答え」 
OSHO(著), 伊藤アジータ(翻訳) 2015/01めるくまーる
「瞑想録: 静寂の言葉」
OSHO (著), 中原 邦彦 (翻訳), 庄司 純 (翻訳) 2019/11 出版社: 季節社 
「あなたの魂を照らす60の物語」
OSHO (著), Amy Okudaira (翻訳)2019/11 出版社: 大和書房 

47)2020/03/28 
「5Gビジネス」
亀井 卓也 (著) 2019/06 日本経済新聞出版社 
「ペスト」カミュ全集〈4〉
カミュ 佐藤 朔 (編集), 高畠 正明 (編集), 宮崎 嶺雄 (翻訳) 1972/12   新潮社 
「日本仏教史」―思想史としてのアプローチ
末木 文美士 (著)  1992/07 出版社: 新潮社
 

46)2020/03/05
「WIRED (ワイアード) VOL.1 」特集OUR FUTURE テクノロジーはぼくらを幸せにしているか?
(GQ JAPAN2011年7月号増刊) 2011/06
「スペクテイター」<29・30号> ホール・アース・カタログ<前後篇>
エディトリアル・デパートメント (編集) 2013/12 幻冬舎 
「精神世界の本」メディテーション・カタログ
平河出版社カタログ刊行会・編集 1981/08

45)2020/01/04
「般若心経」 OSHO、色即是空を語る 

OSHO(著), スワミ・プレム・プラブッダ(翻訳) 1980/01 めるくま-る社
「ボーディダルマ」 BODHIDHARMA The Greatest Zen Master
OSHO(著), スワミ・アナンド ソパン (翻訳) 1994/07 めるくまーる社 
「道元」その探求と悟りの足跡
OSHO スワミ・アンタール・ガータサンサ(翻訳) 1992/11 和尚エンタープライズジャパン  (OEJ books)  

44)2019/06/19 
「能面の見かた」 日本伝統の名品がひと目でわかる

小林 真理 (著), 宇高 通成 (監修) 2017/01 誠文堂新光社 
「これで眠くならない! 能の名曲60選」

中村 雅之 (著) 2017/10 誠文堂新光社 
「一彫入魂 面打ち・仏像彫刻に挑戦! 」ノミを通じて自分と対話する姿 (定年前から始める男の自由時間)
塩飽 晴海(著) 2005/01 技術評論社 

43)2019/04/20
「<インターネット>の次に来るもの」 未来を決める12の法則
ケヴィン・ケリー (著),    服部 桂 (翻訳) 2016/07 NHK出版   
「知られざる中世の仙台地方」 
飯沼勇義 1986/11 宝文堂
「禅宣言」
OSHO /スワミ・アドヴァイト・パルヴァ 1998/03 市民出版社

42)2019/04/12
今日の気分はこの三アイテム
キーホルダー
アイフォン
マラ

41)2018/11/24
「WIRED」
VOL.31 「ニューエコノミー」ぼくらは地球をこうアップデートする Condé Nast Japan (コンデナスト・ジャパン) (著), 2018/11/13   プレジデント社 
「Pen」2018年11/15号超おさらい! 日本美術史 2018/11 CCCメディアハウス
「美術手帖」更新を続ける21世紀の禅
美術手帖編集部 (編集) 2016/10 美術出版社 

40)2018/09/25
「my made表装」
赤岩 保元 (著) 2002/09 文化出版局

「表装を楽しむ」 掛軸、屏風をつくる 
麻殖生 素子   (著)  2002/12 日本放送出版協会 

「かんたん表装入門」
垂水 李   (著) 2006/06 出版社: 可成屋 (アートブックス)

39)2018/08/30  
「<インターネット>の次に来るもの」 未来を決める12の法則 ケヴィン・ケリー (著),2016/07 NHK出版
「古代一木彫像の謎」仏像の樹種から考える―成城学園創立100周年記念シンポジウム報告書 2015/12 東京美術 
「Mindfulness in the Modern World」 How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? OSHO 2014/04 Griffin (Osho Life Essentials) 

38)2018/07/31
「未来のアトム」
田近 伸和  (著) 2001/06  アスキー 

「ガラス玉遊戯」ヘルマン・ヘッセ (著),    井手賁夫 (著) 初版1955/09 角川文庫
「禅宣言」OSHO /スワミ・アドヴァイト・パルヴァ 1998/03  市民出版社 

37)2018/06/10  
「禅宣言」
 OSHO 1998/03  市民出版社

「アイ,ロボット」 アイザック・アシモフ 2004年作品 DVD 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 
「美術手帖」更新を続ける21世紀の禅 美術手帖編集部

36)2018/05/09 
「究極の旅」
 禅の十牛図を語る 
OSHO  スワミ・プレム・プラブッダ・訳 1978/03    めるくまーる

「般若心経」 OSHO、色即是空を語る
OSHO スワミ・プレム・プラブッダ・訳 1980/01 めるくま-る

「道元」 その探求と悟りの足跡 OSHO
スワミ・アンタール・ガータサンサ・訳1992/10 和尚エンタープライズジャパン

35)2018/04/04

「うちのお寺は曹洞宗」わが家の宗教を知るシリーズ 藤井 正雄 1997/12 双葉社
「お経 禅宗」 桜井 秀雄 (著), 鎌田 茂雄 (著) 横尾忠則(装丁)1983/4 講談社
「正法眼蔵随聞記」

34)2018/04/04
「Discover Japan 」 ディスカバー・ジャパン編集部  2014/02 エイ出版社
「美術手帖」更新を続ける21世紀の禅 2016/10 美術出版社 
「スペクテイター」31号 ZEN(禅)とサブカルチャー エディトリアル・デパートメント (編集)  2014/09  幻冬舎

33)2018/04/04
「ウェブ進化論」梅田望夫 2006/02
「私が愛した本」OSHO 1992/12
「プロフェット」ジブラン 1972/12

32)2018/03/17  
「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!
飯沼 勇義 (著) 1995/09 宝文堂

「NHKスペシャル MEGAQUAKE巨大地震」 ―あなたの大切な人を守り抜くために!
NHKスペシャル取材班 (編集), 2010/02 主婦と生活社ライフプラス編集部

「原子炉時限爆弾」 大地震におびえる日本列島
広瀬隆 2010/08  ダイヤモンド社

31)2017/11/09 
「別冊Discover Japan」 現代に活きる禅の力 2015/01  エイ出版社
「美術手帖」更新を続ける21世紀の禅 2016/10 美術出版社
「Mindfulness in the Modern World」 OSHO 2014/04 Griffin

30)2017/08/28
「古代一木彫像の謎」 
仏像の樹種から考える―成城学園創立100周年記念シンポジウム報告書 金子啓明他

「続・彫刻刀で楽しむ仏像」  関侊雲他
「道元」その探求と悟りの足跡 OSHO

29)2017/06/01 
「SF大クロニクル」ガイ・ヘイリー (編集),    北島明弘 (その他)
「棺一基」 大道寺将司全句集
大道寺将司 (著),    辺見庸(序文・跋文) (著)
単行本: 234ページ
「20世紀エディトリアル・オデッセイ」時代を創った雑誌たち
赤田  祐一 (著), ばるぼら (著)

28)2017/05/25
「シンギュラリティは近い」エッセンス版―人類が生命を超越するとき レイ・カーツワイル2 016/04 NHK出版
「<インターネット>の次に来るもの」 未来を決める12の法則 ケヴィン・ケリー 2016/07 NHK出版
「これからインターネットに起こる『不可避な12の出来事』」 今後の社会・ビジネスを破壊的に変える「新たなるデジタル テクノロジー」をビジュアルで読み解く (NEXT VISION(NextPublishing)) ケヴィン・ケリー 2016/12 インプレスR&D

27)2017/04/29  
「2001年宇宙の旅」 スタンリー・キューブリック監督 1968年作品 
「その男ゾルバ」 マイケル・カコヤニス監督 1964年作品 
「禅 ZEN」 高橋伴明監督 2009年作品

26)2017/02/07 
「瞑想―祝祭の芸術」
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 1981/03 めるくまーる 
「オレンジ・ブック」OSHOの瞑想テクニック 
OSHO ホーリスティック・セラピー研究所 1984/04 
「新瞑想法入門」OSHOの瞑想法集大成 
OSHO /スワミ・デヴァ・マジュヌ 1993/01 瞑想社 /めるくまーる

25)2016/12/31 
ラジオドラマ「2001年宇宙の旅」
アーサー・C.クラーク:原作,しばがきけんじ:脚色. (FM東京)1978-06 
「Mindfulness in the Modern World」 How Do I Make Meditation Part of Everyday Life?
OSHO 2014/04
 

「続・彫刻刀で楽しむ仏像」  [釈迦如来・聖観音菩薩] 
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 

24)2016/12/05
「可笑しな小屋」 居心地のいい「ミニハウス」---羨望の35軒 ジェィン・フィールド=ルイス 2013/12 二見書房
「Mindfulness in the Modern World」 How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? OSHO 2014/04 Griffin
「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線 (pen BOOKS)真鍋真/監修 ペン編集部/編 2011/07 阪急コミュニケーションズ

23)2016/11/04 
「地球の論点」 現実的な環境主義者のマニフェスト (スチュアート・ブランド 2011/06 英治出版)
「講座スピリチュアル学」 第3巻 スピリチュアリティと平和 (地球人選書)鎌田 東二(編集)(2015/04 ビイングネットプレス)
「マインドフルネス認知療法入門」(レベッカ・クレーン 2010/10 創元社)

22)2016/10/15  
「<インターネット>の次に来るもの」 未来を決める12の法則 ケヴィン・ケリー(2016/07 NHK出版)
「Journal of Financial Planning」特集 フィンテックが変える 金融とFPの未来(日本版FPジャーナル 2016年9月号(第200号) 日本ファイナンシャル・プランナーズ協会)
「WIRED VOL.25」 特集 The Power of Blockchain ブロックチェーンは世界を変える 2016/10 コンデナスト・ジャパン

21)2016/07/14
「人工知能は私たちを滅ぼすのか」計算機が神になる100年の物語児玉哲彦 2016/03 ダイヤモンド社)
「パソコン購入ガイド」 2016 100%ムックシリーズ(2016/05 晋遊舎)
「もっと上手に市民農園」4.5坪・45品目 小さな畑をフル活用 (コツのコツシリーズ 斎藤進 2012/3 農山漁村文化協会)

20) 2016/05/03
「彫刻刀で楽しむ仏像」 弥勒菩薩・薬師如来 関侊雲他
「続・彫刻刀で楽しむ仏像」 釈迦如来・聖観音菩薩 関侊雲他
「続・やすらぎの仏像彫刻」 実物大で作る小仏 小仏阿弥陀・小仏薬師・小仏観音を彫る 岩松拾文

19) 2016/02/14
「気がつくと机がぐちゃぐちゃになっているあなたへ」
リズ・ダベンポ-ト/平石律子 2002/09 草思社
「五重塔はなぜ倒れないか」
企画制作 日映企画 2006/08 DVD
「死について41の答え」
 OSHO 伊藤アジータ 2015/01めるくまーる

18) 2016/01/04
「北の原始時代」東北の古代史1 阿子島 香(編集) 2015/07 吉川弘文館
「Comet in Moominland」 (The Moomins #2)
「トリウム原子炉の道」世界の現況と開発秘史 リチャード・マーティン, 野島佳子  2013/10 朝日選書

17)2015/09/21 
 
「Pen」2015年 10/1号 [インテリアのヒントが満載! 暮らしが楽しくなるアイデア集。] 
 「進化するプラットフォーム」 グーグル・アップル・アマゾンを超えて角川インターネット講座 (11) 出井 伸之(監修) 2015/07
 「覚醒の舞踏」グルジェフ・ムーヴメンツスワミ・アナンド・プラヴァン 2001/06

16)2015/09/19 
 「植物のある部屋」宝島社  2015/9/17
 「いますぐわかるiPhone6s iPhone 6s」6s Plus対応 インプレス デジタルプラス 2015/09
 
「プロレス・マスク・ワールド」 (DIA COLLECTION)ムック ダイアプレス 2015/9/16

15)2015/07/06 
 「もっと上手に市民農園」4.5坪・45品目 小さな畑をフル活用斎藤進 2012/3 
 「パーマカルチャー菜園入門」 自然のしくみをいかす家庭菜園 設楽清和 2010/08
 「コンピュータがネットと出会ったら」モノとモノがつながりあう世界へ 角川インターネット講座14坂村健 (監修) 2015/05

14)2015/06/27 
 「男のロフト主義。」 Pen (ペン) 2004/04/15
 「現代建築家による“地球(ガイア)”建築」乙須敏紀 2008/11
 「仙台まちなか農園プロジェクト」 都市の「農」空間創出を考える研究  仙台都市総合研究機構 平成18年度研究報告 2007/03

13)目次

12)2015/06/17 
 「おとなのiPhone 」高橋 浩子 2014/5 
 「子どもたちのために」 For the Children ゲーリー・スナイダー 2014/04  
 「もっと上手に市民農園」4.5坪・45品目 小さな畑をフル活用 斎藤進 2012/3

11)2015/04/24 
 「苗で始める失敗しない野菜づくり」 はじめてでも、市民農園でも、プランターでも 有機・無農薬!2011/04 学習研究社
 「オーガニックな野菜づくり」 農薬・化学肥料を使わない 千成  真奈美 2009/02 
 「パーマカルチャー菜園入門」自然のしくみをいかす家庭菜園 設楽清和 2010/08

10)2015/03/27 
 「一茶」 藤沢周平傑作選 森繁久彌のNHK日曜名作座 CD 
 「カミを詠んだ一茶の俳句」希望としてのアニミズム 山尾三省 2000/09 
 「野性の実践」 ゲーリー・スナイダー 1994/08 

9)2015/01/01 
 「自分で作るハブダイナモ風力発電」川村康文 2012/11 
 「おとなのiPhone 」高橋浩子2014/05
 「かもめのジョナサン完成版」リチャード・バック 2014/06

8)2014/12/09 
 「パーマカルチャー」 農的暮らしの永久デザイン ビル・モリソン 1993/09 
 「女のいない男たち」村上春樹 2014/04
 「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア ジョナサン・ドーソン 2010/09

7)2014/10/24 
 「世界のエコビレッジ」 持続可能性の新しいフロンティア ジョナサン・ドーソン 2010/09
 「パーマカルチャー菜園入門」自然のしくみをいかす家庭菜園 設楽清和 2010/08
  「サンショウ」 実・花・木ノ芽の安定多収栽培と加工利用 内藤一夫 2004/04 

6)2014/10/13 
 「For the Children 子どもたちのために」 ゲーリー・スナイダー 2013/04

5)2014/09/17
 「聖なる地球のつどいかな」 ゲーリー スナイダー (著), 山尾 三省 (著) 山里勝己(監修), 1998/07
 「山で暮らす愉しみと基本の技術」大内正伸 2009/06
 「現代建築家による“地球(ガイア)”建築」乙須敏紀 2008/11

4)2014/07/26 
 「可笑しな小屋」 ジェィン・フィールド=ルイス 2013/12
 「恐竜の世界へ。」ここまでわかった!恐竜研究の最前線 2011/07阪急コミュニケーションズ
 「自分で作るハブダイナモ風力発電 +」 大人の週末工作 川村康文2012/11/26

3)2014/03/18 
  「現代詩手帖」1996/03 富山英俊  ゲーリー・スナイダーと宮沢賢治についての覚書
 「現代詩手帖」 2010/10 ななおさかきの地球B
 「アメリカ現代詩の愛語」スナイダー/ギンズバーグ/スティーヴンズ 田中泰賢1999/08 

2)2014/03/16
 「現代思想」2013/07 特集ネグリ+ハート  
  「現代詩手帖」 2012/07 ゲーリー・スナイダー 
  現代思想」 2011/11 特集=ポスト3・11のエコロジー 中沢新一 管啓次郎 エコロジーの大転換

1)2014/03/15
 「可笑しな小屋」 ジェィン・フィールド=ルイス 
 「野性の実践」 ゲーリー・スナイダー
  「現代思想」2013/07 特集ネグリ+ハート

<14>につづく

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<14>

<13>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<14>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

Ⅱ「3・11後の日本」と向き合う (2013/04/06 日本学術会議 大講堂)

 この章は、前章の2013/04/12に先立つこと6日前に、日本学術会議で行なわれた講演である。

 3・11後の日本におけるマルチチュードと権力 アントニオ・ネグリ(訳 三浦信孝)

 このテーマの議論に立ちいるのは、わたしにとってはかなりむずかしい。p78ネグリ「3・11が付きつける問い」

 それは当然そうであろう。

 東日本大震災は、自然を克服する努力には限界があり、20世紀後半から出現した「原子力国家」は幻想だったことを明らかにしました。原子力の危険は発電所の事故というだけではないのです。ネグリ 「世界が日本のことを考えている」p145 3.11後の文明を問うー17賢人のメッセージ 共同通信社 2012/03

 来日前から、ネグリはそうメッセージを伝えていた。

 2001年の9・11の恐るべき事件、2008年の金融危機を経て、2011年の日本の破局を経験してしまった。これらの出来事は、わたしたちを文明の完成ではなく、文明の限界の前に立たせたのではないか。p78 ネグリ 「3・11が突きつける問い」

 数週間前(2013年3月)に、日本の建築家・伊東豊雄は彼の仕事にふさわしいプリツカー賞(建築のノーベル賞といわれる)を受けた。受賞を知ったとき、わたしはこの講演原稿を書き始めていた。伊東の作品にわたしはすでにつよい印象を受けていた。p79 ネグリ「コモン・グランドという想像力」

 伊東は、私がよくいく地元の中央図書館の設計者であり、その建築思想には、一種の畏敬の念を持っていた。3・11の10年前ほどにできた建築物であったが、あの強震にどれだけ耐えたのか、私も強い関心を持っていた。ここでネグリが、多少のリップサービスがあったにせよ、伊東の名前を出したことに、より親近感を感じるものである。

 21世紀の初めから待ったを許さないかたちで提起されている問題は、どうやって共同の生のかたちを構築するか、どうやって共同の生のコンシステンシー(堅牢性)を保障するか、どうやって共同の生を貧困と恐怖から守るか、どうやって<コモン>の建築構築にむけて万人の参加を組織しうるか、である。(中略) 

 2011年に原子力エネルギーに対する、いや「原子力国家」に対する自然の復讐が、過酷なかたちで日本を襲った。

 ここには、わたしたちの文明の運命に対する根源的な問いかけがある。いつの日かこのような事態が来ることを誰が想像しえただろう。グローバリゼーションが文化間の協力と、地球を支える安定した技術的構造による新しい世紀を生むという幻想にひたってきた後に、このような危機からどうやって身を守ることができるだろう。

 そして、疑問がわたしたちをとらえる。こうした状況から脱出するためのポジティブな方法などはたしてありうるのだろうか。この問いかけを聞くのはつらいことだ。p80ネグリ 同上

 <帝国>の前には勇ましく見えるマルチチュード概念ではあるが、大自然の猛威の前には、ただたちつくすのみ、という心境は多くの人々と同じものであろう。

 マルチチュードとは「下からの」ラジカル・デモクラシーを構築できる特異性の集合体である。ネットワークによる協同作業、したがって潜在的に共同的な作業をベースに、ゆたかな社会の化旺盛を生み出す特異性の集合体。 

 この提案にはいささかのユートピアもない。マルチチュードとは産業的近代の危機の後に生まれる生産様式そのものであり、産業的近代がこのモデルを、マルチチュードの出現を先取りしていたのである。 

 しかも、マルチチュードの観念は単に「構成的」であることはできず、まず初めに「脱構築的」でなければならないことを、ハートと私は忘れてはいなかった。(中略)p83ネグリ 「マルチチュード概念への批判」

 批判とまではいかないまでも、そのマルチチュードとやらの概念を、当ブログなりに咀嚼するには、それなりの時間がかかり、いまだに全うに理解しているとは言えない段階である。

 政治形態の両義性は今日ますます明らかに、ますます複雑になっているが、個々の特異な生が孤独(ソリチュード)から抜け出し、政治的な共同空間を形づくっているいま、決して克服できないものではない。(中略) p84 ネグリ 同上

 このあたりの定義づけは、ある意味指摘表現も多用されているので、複数の文脈から、デリケートに読みこんでいく必要を感じる。

<15>につづく

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「ネットコミュニティの設計と力」 つながる私たちの時代角 川インターネット講座 (5)近藤 淳也(監修)

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「ネットコミュニティの設計と力」 つながる私たちの時代 角川インターネット講座 (5)
近藤淳也(監修) 単行本– 2015/8/22 KADOKAWA/角川学芸出版 単行本 232ページNo.3585★★★★★

1)「角川インターネット講座」全15冊の13番目の刊行。いよいよ大団円が近づいてきている。監修の近藤淳也は1975生まれで「はてな」グループの総帥。若くして梅田望夫の「ウェブ進化論」で高く評価されている。梅田もたしか「はてな」の取締役に参画し、多いに期待したホープであった。

2)1975年生まれといえば、私よりちょうど21歳年下。そうかあの頃生まれた人たちがすでに人生の半ばを過ぎて、ネット状況を総括する時代にまで及んでいるのだ、と、感無量。   

3)最初と最後を近藤が担当し、他の5人が間に挟まっている。テーマについてはおそらく、よりこまかくは書いてあるだろうが、よりビビットな今日的課題は薄いだろうと、逆に最後の近藤の文章から読み始めた。

4)インターネットを眺める時間の飽和を感じる一方、私は最近、人と直接会って話たり、自転車に乗ったり、旅行をしたりといった、リアルな活動に面白さを感じている。これまでずっとインターネットばかりに関わってきた反動、といった側面もあるだろうが、自分だけではないと感じる部分もある。

 例えば私の友人に、首都圏で生活するのをやめ、地方の農村に移り住んで地域の活性化や有機農業に関わっている女性がいる。彼女のように、まだ20代や30代の若い世代が、地方に移り住んで生活するケースが出始めているようである。

 都市部でも、他の住人とリビングなどをを共有して生活するシェアハウスが流行している。シェアは薄入居者は、必ずしも家賃を節約するために金銭的な理由でそこを選んでいるとは限らず、一部には通常のマンションと家賃が同程度か高額のシェアハウスもあるそうだ。

 こうした事例を見ると、「成長を目指してがむしゃらに仕事をする」のではなく、人とのつながりや自然とのつながりを大切にした生き方を求めている人が、若者の間にも出てきているように感じる。p220「コミュニティの人の力」

5)このような自然志向は、つねにずっとあるわけだが、このような本の中のまとめに入っていることは興味深い。一巡したかな、との思いもある。

6)次に面白かったのはサル学の山極寿一の文章。いきなりこのような文章が挟まれているのも興味深い。

7)そもそも、動物としての人間にとって適正な集団の規模はいったいどれぐらいなのだろうか。
 これに対しては「ダンバー数」という指標がある。(中略)
 現代人並みの脳の大きさに人類が達した役60万年前には、ダンバー数160人ぐらいのコミュニティ形成が達成されていたに違いないと考えられるのだ。
p137~8山極寿一「サル学から考える人間のコミュニティの未来」

8)当ブログは以前より、ネット数200程度のつながりが適当だろうと、なんども考察してきたが、わが意を得たりと思う。少なくともネット繋がりを、フォロワー数で競ったり誇示したりすることは、あまり意味がないだろうと、思ってきた。

9)次に挙げることができるのは、脳がもう少し大きくなった時に出現したであろう30人程度の集団だ。
 30人規模の集団は、社会のあらゆるコミュニティに存在する。
 30人程度だと、人間は完全に所属メンバーを把握し、集団内に自分を位置づけられる。また、このぐらいの人数だとリーダーが生まれやすい。よって、まとまりができるし、誰かがいなくなったらすぐわかる。
p142山極 同上

10)これもまた、20:80の論理で、おおよそ、160人の20%内外の30人前後のメンバーがコアとなるであろう、という予測も、当ブログの思いと一緒である。あるいは、その根拠のベースとして採用しているものは、この著者と当ブログは、ひょっとすると同じものである可能性もある。

11)といいつつ、一方では、このサル学者の意見にはやや賛同しがたい部分もある。

12)インターネットは使い方によれば、人間の未来にとって明るい材料になりうるものだ。
 その最大の可能性はビッグデータだろう。
p153

 繰り返すが、ネットで心と心を通じ合わせることは、むしろやめた方がいい。視覚情報や身体性を伴わないコミュニケーションは確実にコミュニティに齟齬(そご)を生む。いわゆる「炎上」という現象もそのひとつだろう。p157

13)このサル学者は、サルをデータとして見続けてきたから、人間をもデータとして見てしまうのだろう。ビッグデータについては、この次の角川インターネット講座の最後からの二冊めの本の主テーマである。そのことはその時に、もうすこし考えよう。

14)このサル学者は、心についても述べているが、サルはたしかに「心」の働きは薄いかもしれない。ただし、同じ道具をサルと人間が同じに使うとは限らない。

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<13>

<12>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<13>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 ドイツやイタリアでは、国民投票によって原子力エネルギーに対する拒否が実現しました。ドイツでは政府が原発の閉鎖を決定しました。ヨーロッパの多くは、いまその方向へ向かっています。原子力国家と民主主義は両立しえない。それが私の深い確信です。

 ところが、フランスだけは原子力に固執しています。軍事用の核と原子力エネルギーの両方の面でフランスは強力な原子大国です。右であろうと左であろうと、フランスのエリートは、原子力エネルギーを開発、発展させてきたわけです。抑止力としての核を保有したあとに、それと並行するかたちで原子力エネルギーを開発してきました。(中略)

 近代的な概念としては合法的な暴力の独占が国家のひとつの定義なわけですが、国家には正統性、正当な根拠が必要です。合法的な暴力の独占から、法治国家の考えがうあ生まれたました。法に基づいた経済活動が行なわれていること、そして民主主義であること、これが、国家主義に正当性を与える唯一の根源です。(中略)

 わたしがホップズ的な国家主権の概念に賛成するのは、まさに「恐怖」が国家主権というものを生み出しているという点です。しかしわたしはスピノザ主義者です。連帯としての国家は、恐怖によってではなく、愛によって生まれる。これがスピノザの基本的な考え方です。p70 ネグリ「『原子力国家』と国家主権のゆくえ」

 このあたりは全文を抜き書きしておきたいが、それもかなわない。いずれにせよ、ネグリの分析は営利で的確であり、かつまた、その夢や主張は、実にスィートではある。

  いま国家というものがグローバリゼーションのなかで、かつてのような主権として関係性を持ちえなくなった。では、そこから何が生まれてくるかというと、ひとつは民主主義に対する無力感だと思います。(中略)

 まさしく国家がグローバリゼーションのなかで無力であるがゆえに、表面的であれ逆に国家の万能感を求める。そういった状況が、日本だけではなく、韓国でも、おそらく中国でも生まれてきているのではないか。そのひとつが、ある種のゼノフォビア(外国人に対す嫌悪)として現れてきているのだと思います。p72 姜 同上

 外「国」人という概念は、おそらく最終的には、プラスでもマイナスでもなく語られる時代が必ずくるのだが、現在は必要のないくらい強調されたりするのは、やはり、「国」自体の存続が怪しくなってきているからだ。

  最後に、マルチチュードに即してお聞きしたい。(中略)現実に起きていることは、中間層がますます薄くなり、格差が広がっている。こういう社会のなかで、民主主義的であるためには、いったいどうしたらいいのか。(中略)

 中間的なさまざまな集団といいうものを市民社会のなかに形成していくこと、そしてそのさまざまな中間的な集団が国境を越えてマルチチュードとして結びつくことが非常に重要なのだとわたしは思います。そういった中間層とマルチチュードとの関係についてもう少しお話をお聞きしたい。(中略)

 マルチチュードはかなりラジカルなものに変貌していく可能性があるのでしょうか。それともないのでしょうか。p74 姜 「新たな『左』が生まれなければならない」

 ここまで来ると、いくら姜とはいえ、なんだか夢想的で、雲をつかむような話になってきているのではないだおろうか。

 ネグリ 現在は移行の段階にあります。わたしの<帝国>論は、国家の政治的形態だけではなく、労働形態の変化、つまり付加価値をどうやって生み出すのかという労働形態と生産様式の変化を踏まえて組み立てられています。

 そこでは、中間層の破壊があり、中間層だけではなく労働者階級の変容や崩壊というものがあります。つまり、社会性というものを破壊していくような新たな要素が次々と生まれている。そこで、どうやったら社会的なものを再組織できるのか、ということが問題になります。(中略)

 ますます協同的なかたちでの社会的生産になっています。<コモン>のなかで生産が行なわれるようになっている。したがって、それに対応するかたちの組織をつくっていかなければいけない。(中略)

 新しい左が生まれなければいけない。社会的なつながりというものに依拠した、新しい左翼が生まれなければいけない。ソーシャルメディアが発達したいま、社会的関係を政治的な関係に翻訳し、政治的な表現に変換して、運動を進めていくような組織が必要です。そういった意味での連帯が存在するでしょう。(中略)

 新しいコンスティチューション(constitution)[(「社会を構成する」と「憲法」の二つの意味がある]をつくらなければならない。<コモン>の憲法をつくらなければなりません。(通訳 三浦信孝 p76 ネグリ 同上

 空想的といえば、あまりに空想的だ。Oshoのビジョンに負けず劣らず空想的ではないだろうか。しかしまた、2015年現在の今、この2年前の対談がより現実化して見えるように、これから10年後、20年後、あるいは100年後、200年後には、このネグリの「予言」が、妥当性を持った全うな「宣言」であった、と歴史家たちが見ることも、あり得るだろう。

<14>につづく 

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2015/10/11

石川裕人追悼イベントTheatreGroup“OCT/PASS”「ラストショー」リーディング公演<2>

<1>からつづく 

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「ラストショー」リーディング公演<2> 
作:石川裕人 監修:絵永けい 2015/10/11 TheatreGroup“OCT/PASS” 石川裕人追悼イベント
★★★★★

 ニュートンのシナリオなら、おそらく借りて読むことができる。そして実際に何作品かは実際に読んだことがある。遺作となってしまった「戯曲集」もある。それらを読む時、私はおそらく、実際の芝居の数分の一の時間で読んでしまう。

 ニュートンのシナリオの言葉は軽い。たまに親父ギャグも入っていたりして、文字で読んでしまうと私なんぞは、白けてしまう部分も多くある。こんな短く単純な言葉群で、いったい、ナニを言おうとしているのだ。シナリオを速読してしまう時は、私はいつも思う。

 しかし、実際に芝居小屋に入り、他の観客と膝を突き合わせながら、大道具、小道具、音響、照明、そして役者たちの肉体の乱舞を見る時、その言葉群が、20倍にも30倍にもなって、舞台を、小屋を、駆けまわるのを目撃する。

 芝居にとって、言葉とは、何なんだ。あのある意味、ちっぽけな言葉群から、これほどの世界が生まれてくるなんて、私にはにわかには信じられない。ある時、一回だけ、あらかじめシナリオを読んで、それから芝居を観たことがる。

 そこに展開されたのは、まったくの別世界だった。たしかに聞いたようなストーリーではあるが、まるで想像もできない世界が展開されていた。

 あれ、おかしいな。帰宅してから、もう一度シナリオを見てみた。そしてさらに驚いたのだが、役者たちは、本当に忠実にニュートンが残した言葉たちを語り、演じていたのである。ひとつふたつのアドリブや読み間違えはあったのかもしれないが、ほとんど、まったくそのままのセリフを語っていたのである。

 この時から、私は、私は言葉から受けるイメージがなんと貧弱な男なのだろう、と、自らの想像力の弱さに、さらに驚いたものである。言葉を言葉のままに受け取ることで、私の中には、家の骨組のようなものはかすかにできるのだが、屋根の形や、壁の色、まわりの景色、登場人物たちの衣装や振る舞いなどは、まったくイメージできていないのだ。

 そのことに気づいたのはごくごく最近のことだが、このことを発見して以来、私は、ニュートンの言葉に一目置くようになったし、また、今まで彼は、作家であり、演出家であったことに、ようやく気付いたのである。

 もし作家であるならば、もうすこし丁寧に、私のような想像力の弱い男にも分かりやすい説明があってしかるべきであっただろう。私は小説もあまり読まないが、それでも、小説ならば、もう少し分かったのかも知れない。

 しかし、彼は演出家でもあったのである。シナリオに書かれているものは、ほんの一握りの組み立てであり、芝居そのものではない。芝居が出来上がっていくまでに、たくさんのプロセスがあり、そのイメージは限りなく膨らんでいくのだった。

 芝居は「読む」ものではなく、観て、同空間にいてこそのアートだったのだ。そのことを気付いた時から、私は、いつかこのプロセスを目撃したいものだ、と思っていた。今回はその良い機会に巡り合ったというべきだ。

 ニュートンが書いた言葉があり、それを役者たちが声にする。その時点で、すでに多くの飛躍があるのだ。文字として書かれ、ワープロで印刷された文字は、言葉として音声になった段階で、すでに別ものだ。

 そこに強さ、弱さがあり、男、女の区別あり、子供、大人の区別がある。驚き、悲しみ、苦しみ、喜び、さまざまな感情は、役者たちが付けるのである。演出家が演出する時もあるだろうし、役者が持っているキャラクターが加味される時もあるだろう。しかし、その段階で、シナリオは、一人でに踊り出すのだ。

 そんな当たり前のことに、この頃、ようやく気が付いた。今回の公演は本来、芝居として、演劇として演じられるべきものであっただろう。少なくともすでに26年前に公演されて、好評を得たものである。

 当時のシナリオが残されており、それを、当時の役者や新しいスタッフで、あらたに再演しようというののが今回の試みであった。芝居として完成させるまでの時間をとることが出来なかった、ということもあるだろう。しかし、それはリーディングという形で、舞台の上の役者が全員シナリオを持っての、読み合わせとなった。

 ステージの上では、横に並べられた横長椅子に登場人物たち10数人が座り、自分のセリフの番になれば、前にでてセリフを語るというものだった。シナリオをもちながらの読み合わせだから、それは芝居とはいえない。しかし、時にはシナリオを投げ出し、転げ回り、走り回る。

 その時、もうすでに、言葉としてのシナリオの世界ではない。すでに、芝居そのものへの一歩手前まできているのだ。ひとつの芝居が出来上がっていくプロセスを分解してみせて貰っているような不思議な気分になる。

 そして思ったことは、ここにもしニュートンが演出家として存在していたら、彼なりの「演出」をしたことだろう、だが、今はいない。役者たちは、それぞれに、自らのキャラクターの中に、ニュートンの計らいを込めて、ニュートンの息吹を感じながら、その役を演じているようだった。

 私は、今回の「ラストショー」の昔の公演も観てもいなかったし、シナリオを読んでもいなかった。そしてそれは正解だったな、と思った。やはり芝居は小屋で体験的に感じるものなのだ。そこには、そこにしかない、一回性の存在の共有がある。

 そして、大変失礼な言い方になるが、ステージの上で演じる人々の「成長」をまざまざと感じることになった。そこにいるのは、だれかどこかの演出家に役付けされている人びとではなかった。ひとつのシナリオにある言葉どおりの中にあるセリフを語りながら、そこに沢山の色をつけ、景色を付けているのは、役者たちそのものであった。

 このようなスタッフに愛されたニュートン。この人々とともに生き、成長したニュートン。そして、ひとりひとりが、内なるニュートンを育て、大きな存在を作り上げた。素晴らしいことだったのだな、とあらためて痛感した。

 10月11日、今日は、ニュートンこと石川裕人の三回目の命日(四回忌)である。 合掌

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<12>

<11>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<12>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

応答 東アジアの「冷戦」と「熱戦」  姜尚中

 当時と比べて現在は比較にならないほど、複雑です。何よりも英国主義の時代は完全に終わり、一極でも、多極でも、無極でもない、<帝国>ちおう、ナショナル、トランス・ナショナル、ノン・ナショナルな、さまざまなアクターの交渉・構成に基づく異種混交的な世界統治のシステムができあがり、日本や韓国だけでなく、中国もまた、その秩序のなかできわめて大きな役割を果たしているからです。p53姜尚中「東アジア情勢と<帝国>の地政学」

 この方については、その名前が示すように、「日本」を代表する応答、というにはやや異論はあるが、そのところは今回は問わない。むしろ、純日本にこだわるのではなく、世界に開かれたコモンについて、という応答ならば、適任と言えるだろう。

 <帝国>の地政学のなかで、この東アジア地域での米国の覇権(ヘゲモニー)が揺らいでいるように見えないのは、まさしく「熱戦」のマグマが堆積し続けてきたからではないかと思うのです。p56姜 同上

 地政学に精通するネグリに対しては、妥当な質問だとは思うが、もっと、マルチチュードひとりひとりに準じて言えば、当ブログなどにおいては、まったく別な(時には正反対な)質問が湧いてくるような気がする。

対話 東アジアのナショナリズムとリージョナリズム アントニオ・ネグリ×姜尚中

 姜 わたしがまずお聞きしたいのは、リージョナリズム(地域統合)についてです。ネグリさんはヨーロッパ統合に対して非常に積極的に関与されましたが、地域統合というのは<帝国>の地勢学のなかでは、どのように位置づけられるのでしょうか。

 二番目にお聞きしたいのは、東アジアについてです。(中略

 ネグリさんはどうお考えになるのか。やはり東アジアは、他の地域とは異なる歴史的な特殊性というものが存在しているのでしょうか。p58 姜「ヨーロッパ統合とネオリベラリズム」

 それに対するネグリの答えは一問一答式の分かりやすいものではないが、地域統合は、結果として、労働形態の変化を生み、<帝国>への道を推進している、と読める。

 ネグリ ベルリンの壁崩壊を皆が歓迎しました。これによって冷戦が終わり、東欧の社会主義の観念の腐敗が終わったわけですから。しかし、同時に、このことがヨーロッパ統合においてたいへん重要な帰結をもたらすことになりました。

 それは、ネオリベラリズム(新自由主義)がヨーロッパ統合において采配を振るような事態が生まれたことです。(中略)p62 ネグリ 同上

 これまで左翼は、組合運動、労働者階級に依拠してきました。しかし、労働者階級の主力が認知的労働に移るという変換が起こったため、それに対応するような政治的変革は起こりにくくなってしまった。

 そして、すべての先進資本主義諸国において、プロレタリアートは消滅し、プレカリアート(非正規雇用、失業者を含む不安定[プレカリオ]な雇用状態に置かれた貧困層)という新しい階層が登場したのです。労働法を無視した極端な搾取形態が生まれ、ケインズ主義が想定していた労使関係の均衡は崩れます。(中略)p62 ネグリ 同上

 国家と労働者が対峙していた形態は、地域統合によって<帝国>化していくことによって、労働者階級は、組合などを離れた個人化され、極端な搾取形態が推進している、ということになろうか。両極により離れていった、ということになろう。

 二番目の質問についてのネグリの答えは次のとおり。

 ネグリ 二つ目の質問ですが、東アジア共同体のプロジェクトはたいへん大きな理想であり、今日では非現実的なユートピアと思われるかもしれません。しかし、これはきわめて重要だとわたしは思います。(中略)p63ネグリ「東アジアをおおう冷戦の『亡霊』」

 私の印象では、国民国家というのは古い左翼の考え方と結びついているものです。古い右翼でも、保守でもなく、古い左翼に結びついた考え方が国民国家です。(中略)p64  ネグリ 同上

 さしずめ、労組に支えられた日本の民主党あたりの国家観というべきか。

 では、右---狂信的なナショナリストのことではなく資本家という意味ですが---にとって国民国家とは何か。今日の市場というのは国家単位ではありませんから、資本家にとって国民国家は重要な枠組みではありません。、すべての大企業はグローバルに市場を考えていますから。 

 さらに現在では、国際機関によって資本家の利益は保護されるようになっています。ですから彼らにとっての国民国家とは、労働者階級が存在していて、その抵抗も闘争も起こりうるちおう点において、ひとつの桎梏(しっこく)になっている。しかし同時に、労働者の階級闘争を抑え込む枠組みにもなっているのです。(中略)p64 ネグリ 同上 

 極端にいえば、組織化された労働組合などは、逆に<帝国>化しつつある資本にとっては、プラスに作用している、と言う風に読める。

 日中韓という三カ国の協力関係をどうつくっていくのか。表面的で脆弱(ぜいじゃく)な政治的協力ではない、長期間での協力関係をどうやってつくっていくのか。国際的な分業体制をどのように組織し、協力関係をつくっていくのか。それが大事なことです。そのとき、日本の反核運動を支えるマルチチュードとしてのネイションは重要な意味をもっていると思います。p65 ネグリ 同上

 ネイションとはネグリ流の言葉使いであり、つまり、日本地域というくらいの意味で、反核マルチチュードが存在する日本というエリアは、という位にとらえておけけばいいだろうか。日中韓の、長期間の協力関係とは、マルチチュード的に考えれば、フリーハグとか、合同コンサートのようなもので促進されるように思うのだが。

 姜 「原子力国家」についてのネグリさんの考えもお聞きしたい。わたしは、日本はまさに「原子力国家」であり、福島においてそれが大きく破綻(はたん)したのだと考えています。(中略)

 つまり原子力の問題というものは、単にエコロジー、エコノミー、あるいはエネルギーの経済性だけで解決されるというものではなく、国家が持っている自己完結型の幻想のようなものが存在するかぎりにおいて、国家主権という近代的なカテゴリーと依然として強く不可分に関わっている、とわたしは思うのです。p67 姜 同上

 グローバル化と言われる世界の政治や経済だが、自己完結型の国家観はまだまだ根強い。

 ナショナリズムをいかに乗り越えるかというのは、たいへん重要な問題です。ヨーロッパですら新しいナショナリズムが興っているという社会現象があります。そのため、ヨーロッパ統合までどのくらいの時間がかかるかということについては、わたしはどちらかといえば悲観的です。しかし統合は前進していくでしょう。p68 ネグリ 同上

 ギリシャの経済的危機や、シリア難民に対するEU各国の対応もまちまちである。簡単に統合することはないだろう。しかし、前進はしていくのだ。

 ネグリ 次に「原子力国家」の問題ですが、これは近代的な国家形態のひとつであり、国民国家という古い概念のひとつのヴァリエーションです。p69ネグリ「『原子力国家」と国家主権のゆくえ」

 アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の五大国のほか、インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルという国家が、核保有国と見られている。ドイツやイタリアは保持していないし、日本も非核国と見られていたが、現在の安倍政権は核保有国への道をひたすら邁進しているように見える。

<13>につづく

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2015/10/09

プロジェクト567 <追々補>あるいは再スタートに向けて

<追補>からつづく

「プロジェクト567」 
<追々補>あるいは再スタートに向けて

1)ひとつひらめいたことがあったので、メモしておく。よくワケがわからず、一人合点で一人ヨガリなメモであるので、どこに書いたらいいか悩んだが、この連載が一番匹敵しているようなので、ここにアトランダムにダイレクトに書いておく。

2)「Pen (ペン) 」 「ムーミン完全読本。」(2015/02CCCメディアハウス )を読んでいて、2代目プリウスがでていたことで、何かに気が付いた。2代目プリウスは、元祖プロジェクトの「レ」に当たる。重要なポイントなのだが、ここをサポートあるいは補強するような連載記事がまだ始まっていない。

3)車と見るなら、断片的に「間違いだらけの車選び」や「45歳からの車選び」などでお茶らかしているのだが、ここを単純に車と見限ってしまっていいのか。ここを「移動」とか、「技術」とか、「科学」などと拡大解釈していく必要もあるのではないか。

4)太陽光発電や、反語的に原発問題も、実はここに入るべき問題なのではないか。

5)第一音「ド」に対応する連載記事は、
 ・「エコビレッジ日記」
 ・「市民農園体験記」
 ・「クラインガルテン計画」
 ・「わがボタニカル・ライフ」 あるいは
 ・「仙台柳生かやの木保存会」
などがあり、むしろ、ここはこれから整理して一本化していく必要がある部分である。

6)「レ」の車に関連して、それを「移動」と見るならば、「クラインガルテン計画」を「レ」として強化していくことも可能は可能である。

7)「ミ」に関してはおそらく「今日の気分はこの3冊」が対応しているだろう。

8)「ファ」に関しては「孫たちとの対話」を対応させる。

9)さて「ソ」だが、ここも大きなテーマであるが、なかなかまとまらない。最近では「角川インターネット講座」あたりが対応するはずなのだが、連載記事としてはまとまっていないし、焦点がぼけている。なんとかしなきゃ。

10)「ラ」に関しては、この「プロジェクト567」をグレードアップして対応させることも可能である。

11)「シ」に関しても未整理だが、「解き明かされる日本最古の歴史津波」に連ねてきた部分をより自分のものとすることで解決できるかもしれない。

12)さぁ、それでは、これを暫定的に並べてみる。
ド 「わがボタニカル・ライフ」
レ  「クラインガルテン計画」
ミ 「今日の気分はこの三冊」
ファ「孫たちとの対話」
ソ 「第三の波プロジェクト関連リスト」
ラ 「プロジェクト567」
シ 「歴史津波」
 タイトルはバラバラだが、言わんとするところはこれで足りている。だが、バランス的にはかなりいい加減だし、それらがどう対応しているのか、ということは、これだけでは分からない。

13)「わがボタニカル・ライフ」は、いずれもっとふさわしいタイトルに改題し、概念的なディープ・エコロジカルなテーマへと昇華させていくことにしよう。

14)「クラインガルテン計画」は、もっと技術的な実験性を加味し、より具体性を持たせたプロジェクトを提案していこう。

15)「今日の気分はこの三冊」は、よりテーマを分かりやすく、文献的に補強していこう。

16)「孫たちとの対話」は、より人間性を問う、日常的でありながら現実味のあるテーマへと繋げていこう。

17)「第三の波プロジェクト」は、連載記事としてはスタートしていないので、むしろ、当ブログの次なるステップとして表現、電子本の出版などに向けてのきっかけとして、あらたな連載記事をスタートさせよう。

18)「プロジェクト567」はこのまま再スタートさせて、わけのわからないバックヤード的側面を持たせておこう。

19)「歴史津波」は、当然3・11が下敷きになってはいるのだが、私自身が生きているバイオリージョンを積極的に意識していこう。ここはさらなる「ド」、次なる「ボタニカル・ライフ」へと繋がっていくはずである。

20)今日のところは、以上。

<16>につづく

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<11>

<10>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<11>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

Ⅰ「東アジアのなかの日本」と向き合う 2013年4月12日 国際文化会館 岩崎小彌太郎記念ホール)p29

 いままで読み落としていたが、岩崎小彌太郎記念ホール、なんて表記もなんだか気になる。会場としてはもっとふさわしいところもありそうなものだが、早合点の私などは、なんだか、ネグリは、いくら反権力を標榜するとしても、権力の「囲われ者」になってしまったようなイメージさえ持ちかねない。(爆笑)

 2013年4月12日と言えば、当ブログではカテゴリ「Meditation in the Marketplace5」が進行しているところであり、村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んでメモしているころであった。ようやくiPadを手にいれて、いかに仕事に活用するか、そんなことをいろいろ考えていた時期である。

 「<帝国>」によって始められたわたしたちの三部作の三巻目「コモンウェルネス」(2009)において、マイケル・ハートとわたしは、いかなる留保もなしに、世界的均衡について、この新しい定義をさだめた。

 しかしながら、同時に、以前にも増してわかりやすくするように配慮しながら、これらの新しい政治的立場が総体としていかに依存しあっているかに光を当てたいと思った。これらすべての航跡のうえに、今日、世界的規模で生じているいくつかの変動を見直してみたいと思う。p33ネグリ「<帝国>とマルチチュード」

 <帝国>、マルチチュードと並ぶ、三つめの概念としてのコモンウェルネスについては、そのタイトルを持つ単行本雑誌を書籍としては読んでいたが、時期を逸したために、それほど重要な概念とは受け取っていなかった。再読を要す。

 地勢学的ネグリ解釈のグローバルな政治力が語られたあと、日本の分析が続く。

 最後に---ただし最後だからといって決して小さな問題ではないが---、容易には統治できな差し迫ったリスクを無視するわけにはいかない。それは日本国内のナショナリズム的傾向の増大、そして、残念ながらかなり確実に起こりうる中国のナショナリズムの復活によって生じる差し迫ったリスクである。p43ネグリ 「日本のマルチチュードと<コモン>の建設」

 今回、当ブログはこの本のタイトル「ネグリ、日本と向き合う」に惹かれて読み始めた読書であれば、なにはともあれ、日本という国に焦点を当てたところに目を配ることにする。

 この別のパースペクティブは、東アジアという大陸の労働者と市民たちが「共通の運命」の下にあることを認識することで開かれる。原子力政策の再開に反対する日本のマルチチュードの抵抗は、おそらく、来るべき未来のための創造的政策の正しい方向お切り開く可能性がある。p45ネグリ 同上

 ネグリは簡単に日本のマルチチュードと言ってしまうが、反原発デモにせよ、それの連続体と思われる反戦争法案デモであったとしても、はて、その参加者たちは、「日本のマルチチュード」という意識をもっているだろうか。どれだけあのデモ隊の中でマルチチュードという言葉さえ理解している人がいるだろう。

 折に触れ、この美しい国(引用者注・日本のこと)には、真のリーダーシップの機能が欠けているという話を耳にした。したがって、今度はわたしのほうから次のような問いを立ててみたい。これがわたしの話の終わり方である。

 すなわちコモンウェルネスの構築、つまり<コモン>を建設する空間の構築という国際的なプロジェクトは、現実的な取り組みのきっかけとなるような、試みの場になりえないだろうか、と。p47ネグリ 同上

 不思議な文脈である。マルチチュードとは、リーダーがいないからマルチチュードなのであろうと思ってきたが、どうも論理矛盾を感じることになる。そもそも、日本の現在の中で、我こそはマルチチュードである、と宣言する人はどれだけいるのだろうか。そして、そもそも、この言葉を知っている人はどれだけいるだろう。

 注9 ネグリが「構成」というとき、その背後には「構成的権力」の概念がある。「構成的権力」とは「憲法制定権力」のことで、それを担う主体は人民や国民ではなくマルチチュードである。

 ネグリは国民的国家を超えた支配力をもつ<帝国>への対抗原理としてマルチチュードを想定するので、マルチチュードも国境を越えた広がりをもたなければならない。マルチチュードが構成するのは世界民主主義である。p48 訳注

 絵にかいた餅のような文脈ではあるが、その絵はなんともおいしそうに、私には見える。

 注11 マルチチュードはスピノザに由来し、字義通りの意味は多数からなる「群衆」で、ソリチュード(孤独)の反対概念。市民革命後の近代国家の主権は人民ないし国民にあるとされるが、ネグリは人民や国民、あるいは社会主義革命の担い手としてのプロレタリアート(労働者階級)代えてマルチチュード概念を用いる。組合や政党によって組織されていない、ポスト産業化時代の自発的な抵抗のネットワークのイメージがあり、ドゥルーズ=ガタリの「リゾーム(根茎)とも響き合う。p49 訳注

 ドゥルーズには昔から食指が動いた。「ドゥルーズの哲学」(小泉義之 2000/05  講談社)もだいぶ前にメモしておいた。「哲学とは何か」ジル・ドゥルーズ /フェリックス・ガタリ 1997/10 河出書房新社)とか、「西田幾多郎の生命哲学」ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考 桧垣立哉 2005/01 講談社)、「現代思想の使い方」(高田明典 2006/10 秀和システム)、「哲学者たちの死に方」(サイモン・クリッチリー 2009/8 河出書房新社)、「ポストモダンの共産主義」(スラヴォイ・ジジェク 2010/07 筑摩書房)、あるいは「死の哲学」(江川隆男 2005/12 河出書房新社)、などなど・・・・ずいぶん、あちこちメモしていたもんだ。当ブログ2013/02/14分再掲

 注12 commoneealthの原義は「共通の富」ないし「共通善」(common good)で、公益を目的として組織された政治共同体すなわち「国家」をさす。「共和国」の語源であるラテン語のres publika(公共のもの)ははじめcommonwealthと訳されたが、後にフランス語republicの語が使われるようになった。(中略)

 なおcommonを名詞として使うのもネグリの独創で、ラテン語communisの原義「全員で均等に分けた、共有の」が活かされており、「コモン」は近代国家の「公」と「私」の二分法に対立する「共」であり、真のコミュニズムの再生をめざすキーワードとも言える。p49 訳注

 なかなか魅力的なネグリの世界ではあるが、当ブログとしては、同じく理想的でやや感傷的ではあるが、Oshoの文脈にもかなり共鳴するものである。

 真の社会主義は深い瞑想の中にあるコミューンのかぐわしい香りにほかならない。それは社会構造や経済とは何のかかわりもない。真の社会主義な社会における革命ではないし、それは社会的なものではない。それは個人の意識における革命だ。Osho「英知の辞典」「コミューン」   

<12>につづく

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「ムーミン完全読本。」「Pen (ペン) 」2015年 2/15号<1>

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「Pen (ペン) 」2015年 2/15号 [ムーミン完全読本。<1>
CCCメディアハウス 2015/02  月2回刊版  雑誌 
No.3584★★★★★

 先日、気になる雑誌として、Penの何冊かを借りだしてペラペラ見ていた。センスがよくて、なるほど素敵な雑誌ではあるのだが、毎号精読するほどでもないし、いちいちメモする必要もなかろうと、期日前に図書館に返却することになった。

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 返却する際、なにかの拍子に指がはさまって、つい開いてしまったページにプリウスの記事が載っていた。お、これは、ということで、このムーミン特集号だけは返却しなかった。

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 たしかにムーミンについては、いつかはしっかり読んでみようと思って、先日「ムーミンキャラクター図鑑」(シルケ・ハッポネン 高橋 絵里香)なるものメモをしておいた。だが、まだその期いたらず、という判断をしている。

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 しかし、この号にわがプリウスのことが載っているとなると、ちょっと状況は一変する。まもなく4代目プリウスが登場するそうだが、この号では、初代、2代目、3代目プリウスが、並列で特集されている。ここが私が気に入った点でもある。

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 初代プリウスが大きく特集されていて、2代目のオーナーも二人紹介されている。「環境への負担が少なくスムーズにドライブできる」というアメリカの女性キャンディショップオーナーの意見や、「シンプルでつるんとしたフロントのデザインが好き」という日本の若きスタイリスト、お二人とも現在も2代目プリウスを愛用している。わが意を得たり。

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 グーグルマップのストリートビューの撮影には、2代目プリウスが使われていたようだし、おなじグーグルの未来の自動運転の実験にも2代目プリウスが使われているようだ。どこか、このプリウスという車が持っている先進性が、グーグルの戦略とシンクロするところがあるのだろう。

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 そう思ってこの2代目プリウスを見ていると、どこかムーミンの面影があるのではないだろうか、と思えてくる。ツルンとしていて、シンプルで、環境への負担を少なくして生きているムーミン。このムーミン特集号で、プリウスが大きく取り上げられているのも、何かの縁があるのであろう。

<2>につづく

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<10>

<9>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<10>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

本書の構成

 本書は三つの章から構成されている。「『東アジアの中の日本』と向き合う」と題した第一章は、4月12日に国際文化会館主催で行なわれた「グローバリゼーションの地政学」、そして姜尚中の応答「東アジアの『冷戦『』と『熱戦『』」、ネグリと姜との対話を再録している。p21伊藤守「本書の構成」

 暗黙にこの本は「現代思想」 2013年7月号 (特集=ネグリ+ハート 〈帝国〉・マルチチュード・コモンウェルス)とほぼ同内容だと思いこんでいたが、発行された時期から考えて、あちらが前篇、こちらが後篇ともいうべきほど、構成がずれている。もちろん補完関係にあるからいずれあちらも再読み込みしようと思う。

 第二章「『3・11後の日本』と向き合う」は、4月6日に開かれたシンポジウム「マルチチュードと権力: 3・11以降の世界」の内容を伝えている。(中略)ネグリと日本側三人のパネリストによる議論が展開された。p22伊藤 同上

 どのような人々が対峙するかで、内容は大きく変わるだろうが、ここに登場するのは、ネグリを日本に紹介した「知識人」たちということになろう。自らを「マルチチュード」と置き換えてみているのかどうか、その辺が興味深い。

 第三章「原発危機からアベノミクスまで、『日本の現在と向き合う」は、日本滞在後に執筆されたネグリの書き下ろし原稿「アベノミクスと『風立ちぬ『』」、ならびに白井聡氏と大澤真幸氏による書き下ろし論考を収録した。p24

 宮崎駿の「引退作品」(?)「風立ちぬ」は、この項を読み進めるためにごく最近視聴した。この作品は、ネグリの論文のここにどうしても登場しなければならなかったようなものとは思わないが、ネグリなりの時代潮流の読みと、日本の読者に対するリップサービスの部類であろう。

 第一章における姜尚中についての当ブログの読み込みは極めて弱い。散発的に「デモクラシーの冒険」(2004) 「姜尚中(カンサンジュン)の政治学入門」(2006/02)に触れている程度で、おそらく彼の全体像を把握しないままではある。

 しかしながら、対談そのものとしては、どちらかと言えば硬派中の硬派ネグリに対する、女性にも人気が高い姜尚中の柔らかさが、日本の読者層の広がりを促進する可能性があると判断されたのかもしれない。

 第二章における3・11問題は、当然のごとく当時の論壇としては避けて通れない問題でもあるし、ここを聞かなければ何も聞く必要はない、というほどのキモのところではあるが、ネグリや知識人たちは、3・11問題を、ダイレクトに「原子力国家」とのつながりで、原発問題につなげてしまうところは、ちょっと不満である。

 3・11そのものは、原発よりも、それをはるかに凌駕するものとして、地震、津波、があるわけで、そのような地球そのもののうごめきの中で、人間はどう生きるべきなのかを問うことのほうが、私は大事だと思っている。もちろん、それでは、現代思想や政治学の中では、あまりに問題のテーマが大きくなりすぎるのかもしれない。

 第三章は、ややまとめにかかり、次につなげる部分であるが、このあたりのテーマの選定や人選が適正なのかどうか、当ブログとしてはちょっと気にかかるところ。

 とにかく、このような本の構成になっているのだ、ということを、あらためて知ることによって、入りくんだ支線をほぐしていくこがより容易になるだろう。

<11>につづく

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2015/10/08

プレムバヴェシュの孫たちとの対話 <52>秘密基地

<51>からつづく

「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」 

<52>秘密基地

 「ねぇ、おじいちゃん」
と、事務所に入るなり、3歳児が、1歳児の弟を連れて、小声になって話しかけてくる。ちびっ子ギャングの来襲である。
「なぁに・・?」
 こちらは、ガレージ・オフィスで仕事中だ。それほど神経を使うほどの仕事でもないが、気が散れば、かなり遠回りのミスを犯しかねない仕事でもある。できれば神経を集中したい。
 「あのサ、ここ、ヒミツキチにしない・・?」

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 なになに? もともとの事務所だった部屋を子供たちのために明け渡して、ぶつかっても転んでも安全なキッズ・ルームを作ってあげたではないか。そのために、私は事務所を追われ、もともとガレージだったところを自分で改造して事務所にしたのである。ここからまた追い出されてしまうのだろうか?
 「おかあさんにはナイショね」うん? どういうこと?
 「おかあさんを、びっくりさせてやろうよ!」

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 まぁ、その申し出を受け付けないまでも、私のオフィスはもうすでに私の秘密基地なのだ。いまさら、という気がしないでもない。だが、いや実に、3歳児の口から、秘密基地、という言葉がでたのには、いや、驚いた。
 そして、どこかで、そのニュアンスを孫は孫なりに感じ取っているのだろう。ここは、じいさんと孫たちの秘密基地か、それも悪くないな。
 とにかく、毎日のように、孫たちの来襲はつづく。大体は15分くらいで終わるのだが、引き出しを開けるやら、印鑑類をあちこちペタペタするやら、置物の類は、あちこちに投げ出すやらで、もう大変である。

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 最近は、もう耐性ができていて、いちいち注意はしないことにしている。まぁ、壊れてもいいようなものだけを置いてあり、大事なものは手の届かないところにしまってある。シュレッダーのような危険なものは安全装置がついたものを用意しているし、大体電源を抜いているから動かない。
 でも、それでも安心できない。とがったものやら、なくしてはいけないものなど、事務所には、結構あるものである。それに子供たちの手の動きは早い。あっという間に、ヘンテコなところに指をかけている。特に、電源やコード類のあたりは、危険きわまりない。

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 もともと、子供だけで遊ばせるわけでもないので、大人がついていれば、まぁ、基本的には安心だろう。
 日々成長していく彼らの体と心と精神の変化は著しい。その分、こちらの目は悪くなる、歯は抜けてくる、腰は痛くなる、という逆比例が続く。
 じいさんと、孫たちの営みが毎日展開していくのである。

<53>につづく

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<9>

<8>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<9>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 「<帝国>」の主題をネグリはその冒頭ではっきりと述べている。すなわち、

「市場と生産回路のグローバル化に伴い、グローバルな秩序、支配の新たな論理と構造、ひと言でいえば新たな主権の形態が出現しているのだ。<帝国>とは、これらグローバルな交換を有効に調整する政治的主体のことであり、この世界を統治している主権的権力のことである」「<帝国>」邦訳3ページ」

と。つまり、<帝国>とは、支配的な国民国家や、世界銀行など超国家的政治的・経済的諸機関、グローバルに展開する多国籍企業、そして各種のNGOやメディア・コングロマリットなどを水平的に接合した脱中心的で脱領土的なネットワーク上の権力と考えられている。p17 伊藤守 「グローバル権力とマルチチュード」

 今回の日本の戦争法案や太平洋に面した国家間の経済的交渉TPPなども、「<帝国>」へつながる大きな動きではあろうが、水平的に接合した脱中心的で脱領土的なネットワーク上の権力、とまでは言いきれていないだろう。まだまだ弱肉強食で生き残ろうとする「中心」指向を持った国家なり企業なりが暗躍する。つまり、「<帝国>」へ向けて、権力構造は完成しているわけではないが、まだまだその途上である、とみたほうがいいようだ。

 グローバル化した市場と生産回路のもとに出現した<帝国>に抗して、知的労働やjコミュニケーション、そしてその果実を分かち合い「共有財」「共」(commom)とするための社会的関係や民主的なネットワークはいかに構想できるのであろうか。ここで、ネグリとハートが、スピノザの思想の大胆な試みを介して提起したのが「マルチチュード」(miltitude)という概念である。p18 伊藤 同上

 ここに書かれているあり様の原型となるものは、おそらく、リチャード・ストールマン「フリーソフトウェアと自由な社会」( 2003/05 アスキー)たちが影響を与えたリナックス「運動」の果実のことが念頭にあっただろう。リーナス・トーバルスが立ち上げに成功したリナックスは、90年代半ばにおいては一世を風靡していた。

 そのリナックスは、現在グーグルのアンドロイドなどに受けつがれているわけだし、オープンソース運動はそれなりの成果を上げていることはまちがないないのだが、マルチチュード側というより、グローバルに展開する多国籍企業的ニュアンスを持ってさえいる現在である。

 当ブログとしては、逆にこの初期のリナックス的側面を多大に評価して受容したからこそ、ネグリ&ハートのマルチチュードの概念に惹かれたわけだが、はてさて、2015年の現在、もうすこし細かく検証される必要があるだろう。

 また、このリナックス的成功例に匹敵するような他のケースがあるのかどうか私は知らない。つまり、一面的成功例を取り上げて、全てがそうなるような幻想を持ってしまっている危険性もあるし、マルチチュードとは、一体何か、という問いはますます深まる。

 マルチチュードは「統一化されることなく、あくまで複数の多様な存在であり続け」、その差異が決して同じものに還元できない社会的主体」(マルチチュード(上)邦訳171p)を意味する。

 しかし、その「差異」の強調は、マルチチュードが孤立した(solitude)「個」であることを意味しない。彼らは「特異性同志が共有するもの(common)に基づいて行動する、機能的な社会的主体」(同掲、172p)だからである。p18伊藤 同上

 ここが、ネグリ&ハートと、当ブログが大きく分かれる分かれ道である。当ブログは当然のごとくOshoに影響されており、「個」を強調する。一人の人間として生きる道を、時にOshoはソリタリー・バードとさえ表現する。

 ここに大きなパラドックスが存在しているのだが、「特異性同志が共有するもの(common)に基づいて行動する、機能的な社会的主体」という文脈は、Oshoは無視する。ないしは、この時の共有するもの(common)を、「社会的」なものとしては存在し得ないとする。それぞれが内面に向かった時に、均質なものとして存在する絶対的な「無」あるいは「空」を、Oshoは絶対的な「共」とするのである。

 だから、もしこの時、ネグリ&ハートのいうところのマルチチュードが内面に向かい、無や空を「社会的主体」とまで昇華しうるのであれば、ここにマルチチュードとサニヤシンの差異は限りなくゼロに近づいていく。

 ネグリ(とハート)によるこうしたマルチチュードの概念規定のベースには、政治的活動家としての過酷な闘争の経験とスピノザ思想の読解が交叉する地点に成立した、彼独自の人間観がある。そう私は考えている、それは、ネグリの言葉を引用するなら、「ギリシャ人がビオス(bios)と呼んだもの、つまり<生>をまるごと享受すること」「ネグリ 生政治的自伝」邦訳37p)への絶対的な信頼である。p19伊藤 同上

 Oshoがいうところの、<生>をまるごと教授する、「ゾルバ・ザ・ブッダ」という概念は、その半分を「ギリシャ人ゾルバ」 (邦題「その男ゾルバ」に借りている。

 だから、ここまで視る限り、ネグリ&ハートの思索の「差異」はほとんどなく、互いに「共(コモン)」を確認できるギリギリのところまで歩み寄っている、ということになる。

 さてここでいうところのOshoがその半分概念としている「ブッダ」の意味を、ネグリ&ハートは、西洋キリスト教社会における「異端者」スピノザに求めていく。

 スピノザは「エチカ」のなかで「私たちはあらゆるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し、意志し、衝動を感じ、欲望するものではなく、反対に、あらゆるものへの努力し、意志し、衝動を感じ、欲望するがゆえにそのものを善と判断する」(「エチカ(上)」邦訳179)と述べた。

 すなわちスピノザは、善悪の根拠を外部に求めることを拒否し、あくまで<生>を維持し展開する力能である「衝動」や「意志」に内在するかたちで善悪を判断することを主張する。ネグリはこのスピノザ的な<生>を肯定し継承する。

 しかも重要なのは、「この生命力が、身体において、より全面的に展開する過程で生ずる感情にほかならない「喜び」が、一個体に閉じられたものではなく、他の身体や魂との関係のなかで、互いの「力量」を減ずることなく、それを互いに増大させるような関係性に根差している、という点にある。p19 伊藤 同上

 つまり、Oshoは限りなくブッタの境地を言葉を使って指し示そうとし、スピノザは言葉を使って限りなくない面に向かい、キリスト教社会的善悪を越えた境地に辿り着こうとする。

 ここでふたつの「思想」を比較しても、本当は意味がない。これら二つの潮流の思想を、現代に生きる私たち、あるいは私が、どのように受け取り、自らをどのように理解するかに、ウェイトをかけるべきだ。

 つまり、街頭にでていく人々をネグリ&ハートが「マルチチュード」と呼んだとしても、その人々がそう自分たちを自覚しなければ、マルチチュードは存在しないことになる。あるいはOshoの影響を受けた人々がサニヤシンとして、街頭にでていき、「社会的主体」となることもあり得るのだ。

 互いの「力能」を減ずることなく、それを互いに増大させる、関係制に開かれた「衝動」や「欲望」を解放すること、それをネグリは「<生>をまるごと享受すること」と指摘し、「絶対的に革命的なことは、人間的経験の総体を生きようとすることにほかならない」(「ネグリ 生政治的自伝」邦訳p37)と述べるのである。

 スピノザ的な<生>の肯定、それがマルチチュードの核心にある。だからこそ、マルチチュードは、スピノザの言う意味での生きる「喜び」を減退させ、<生>を外的な規範や制度に馴致(じゅんち)する「権力」には敵対し、「共」(common)を「私的なもの」に囲い込み市場化する「権力」に抗して、特異性を保持しつつ共同の活動を推し進める能動的な力能---制度的権力を掘り崩す構成的権力---の主体として生成する。p20伊藤 同上

 ここまでくれば、物事の裏と表から、互いに表現しあっているだけであって、それこそ表裏一体のものである、と結論づけてしまうことも不可能ではない。ここにこそネグリ&ハートのリベリアス・スピリット、反逆の精神があるのであり、また、Oshoが語る所の人間のあり様でもある。

 それを、現在、私が、あなたが、彼が、そして人々が、どこまで意識し、自覚しているかにかかっている。

<10>につづく

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「わがボタニカルライフ」<19>カプトメデューサ

<18>からつづく

「わがボタニカルライフ」

<19> カプトメデューサ

201
 ふと気付いて回りを見渡してみれば、ほとんど誰でも自然や観葉植物には関心があり、なおかつひとつやふたつは必ず愛する植物があり、なにも今さらボタニカル、なんて名前を付けなくても、みんな好きなのである。

202
 よく行く友人であるO鍼灸院院長の治療院も観葉植物で埋まっている。駐車場をめぐる周囲もであるが、室内もいわずもがである。いままで患者の私は何故にそのことを気付かなかったのだろう、というくらい、たくさんある。

203
 ひとつひとつ聴き出すと、例によってO院長は、ひとつひとつについて詳しくウンチクを披露してくれるのである。額に入った一枚の絵に話が及んだ時、彼は、これはさるところの奥さんで患者さんなんだが、彼女が描いた「ボタニカル・アート」ってやつなんだよ」とのたまわった。 キター!ボタニカル。

205
 先日読んだ「植物図譜の歴史」ボタニカル・アート 芸術と科学の出会いウィルフリッド ブラント 2014/05 八坂書房)によれば、たしか、植物全体をありのまま描く、植物学にも通じる芸術をボタニカル・アート、と呼ぶのだった筈。

208

 つづいて彼が見せてくれたのは、エアープランツ、というやつ。ああ、あれね。先日園芸店でみたよ。壁に貼りつけたりする造花みたいなやつでしょ、というと、ああ、それはおおいなる勘違いであった。この手のひらに乗っているものもその一つである。

210
 じつはこれ、なんとかメデューサとかいうやつでね。たまに水道水で洗うだけで、ずっと生きているんだよ。もともと熱帯とかに生息していて、空気中の水蒸気で生きていくんだね、とおっしゃる。帰宅してからこっそり調べてみたが、これはカプトメデューサというものではないか。凄い名前だね、メデューサなんて。たしかにギリシャ神話に生きる魔界の女王の雰囲気を持っている。

209

 おや、めずらしく芽がでている、と言って、くれたのが、この芽。なんとワンコインサイズの植物である。これをその辺においておくと、このくらいおおきくなるよ、と来た。ホントかな。なにはともあれ、我が家では、水やりを忘れたりするとこまるので、先日つくったインスタントの盆栽風寄せ植えの中に、ポンと置いておくことにした。

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<後日談>
 残念なことにこのカプトメデューサは、消滅した。水分もあげていたつもりなのだが、いつの間か退化して、他の植物の中に溶け去った(涙)

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 そのうち新しい苗を探してこよう。エアプランツとやら、なんだか興味が湧いてきたよ。

<20>へつづく

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2015/10/07

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<8>

<7>からつづく 
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「ネグリ、日本と向き合う」
<8>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 多くの人々が、これまでの生活を支えてきたルールや制度の根本的な問い直しを求め、より民主的な社会を構想する、新たな行動を開始している。言い換えれば、新しい思考の回路を構成しながら、国家と個人の関係のあり方、資本主義と民主主義のあり方、国家という境界を無効化するような人々の「連帯」や「ネットワーク」のあり方、そうした根本的なことがらを捉え直す営みに、私たち一人ひとりが着手しはじめ、新しい行動を生み出しつつある。そう言えるのではないだろうか。p12伊藤 守「来日プログラムの狙い」

 本当に、そう言えるだろうか・・・? ちょっときれいごと過ぎるなぁ。もし、そう言えるとするなら、古来より、多くの道を求める人々についてはそう言えたのであるし、必ずしも、ごく最近そうなったのだ、とは、私にはちょっと思えない。

 あるいは、そうでない人もかなりの数で存在しているはずだし、むしろ場合によっては、そちらのほうがかなりの多数を占めているのではないか。そうあるべきだとは思うけれど、そうはなっていないんじゃないの? というのが、割とニヒルな私の感想である。

 こうした問いと希望を抱きながら、私たちは、ネグリとの対話を望み、一連のプログラムを企画したのである。日本社会が直面する課題から出発しつつ、それを現代のグローバル化した世界の変動とリンクさせることで、ネグリと共に、現代社会を考えるための視座を切り拓くこと、そして私たち自身の課題をあらためて問いなおすことが目的だった。p13 伊藤 同上

 この辺りは全文を転記している。大事なところだから。まず、「私たち」と称する人々がネグリを取り巻いている。なぜ取り巻いているのか、は、すこしづつ分かってきた。だけど、そこに本当に、問いと答えが、対をなして存在しているものであろうか。

 ある、過大な期待と的外れな問いに対して、この人物は、本当にためになる解を持っているだろうか。あるいは、この人は、本当に、取り巻いている人びとの期待にそえるような人物なのであろうか。(反語的ながら、失礼な言い方になってしまって、ごめんなさい)

アントニオ・ネグリとは

 ここからはネグリの詳しいプロフィールが始まる。こまかいことは当ブログでは省こう。1933年に生まれたイタリア人。その程度のおさえ方でいいだろう。

 1978年、「赤い旅団」による元イタリア首相モロの誘拐暗殺事件が起こる。ネグリは「赤い旅団」の最高幹部としてこの暗殺に関与したとして不当逮捕され、モロ殺害容疑、国家に対する武装蜂起容疑、国家転覆罪容疑で起訴される。p15伊藤守 「アントニオ・ネグリとは」

 これらの経歴の中で、何回も繰り返される部分だが、この逮捕は「不当逮捕」だったのかどうか、私には定かではない。いずれにせよ、だれかが殺害され、犯人と目され逮捕され、最終的に収監されて、罪を「償った」とするなら、それはそれ、罪と罰が、対となって存在していたのではないだろうか。

 ネグリという人物が、「<帝国>」という本に携わったから有名になったのではなく、かつてそのような「活動」をしていたから希有な存在なのだ、ということなら、当ブログとしては、ちょっとその輪から外れたい。その活動云々よりも、「マルチチュード」という概念のほうが面白いので、誰か固有の「発明」によるものであるのなら、ちょっと遠慮したいのだ。

 「マルチチュード」という概念が正しいのであれば、誰が言い出したとしても正しい筈であり、誰かれにあまりこだわりたくない、という気分。いずれにせよ、そういう経歴の人だったからその概念を生み出せたとするなら、それはそれで納得しないでもないが、その時、「マルチチュード」と名指しされる、その人々は、一体だれなのか。

 おそらく、マルチチュードは、同時多発的であり、特定のアジテーターやオルガナイザーに依拠しているわけではないはずなのである。つまり、おそらく、ネグリと並び立つ人々が、同時期的に、直観的に、同じことを感じていたはずなのだ。だから、ひとりネグリを際立たせるような文脈は、私にはちょっと窮屈な圧迫感を与える。

 不当逮捕による長期の獄中生活、それに屈することなく続けられた研究とその成果、ネグリのこうした強靭な精神はどこから来ているのだろうか。p16伊藤 同上

 どうも個人崇拝、偉大な思想家に傾倒する、というニュアンスが出てきている。あまりネグリだけを高く持ち上げないほうがいいのではないか、と思う。

 亡命先のパリでは、ドゥルーズやガタリとの親交を深め、パリ第八大学などで教鞭をとる生活がはじまるが、「私は正真正銘の『鬱』に陥っていた」(「ネグリ 生政治的自伝」邦訳63p)と記している。p16 伊藤

 ドゥルーズやガタリなども、当ブログではとても手に負えないような存在だが、ただ、そのあたりの親交とは、どういうものであったか興味深い。また、ネグリに限らず、ドゥルーズやガタリについても、いずれ当ブログなりの整理をしたいものだ。

<9>へつづく

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「風立ちぬ」 宮崎駿(監督)

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「風立ちぬ」
宮崎駿(監督) 2014/06 ウォルト・ディズニー・ジャパン DVD 2枚 126 分
No.3583★★★★★

 宮崎駿がわたしたちに教えているように、飛行機は戦争のためではなく平和のためにつくられなければならない。私は数日前にヴェネチアのモストラ映画祭で「風立ちぬ」を観た。映像をつらぬくきわめて深い政治的希望に、私は深く印象づけられた。

 映画全体が、共にテクノロジーから生まれる全と悪の問題に集中していた。制作者の自由な想像力から生みだされるのは爆撃機か、空飛ぶ物体か。宮崎はこの問いに答えない。しかし、それぞれのシーンが、風景の一つひとつのが、一つひとつの愛の出会いが、ただひとつの希望を表現している。

 「風立ちぬ、いざ生きめやも」 (原文イタリア語、ジュディット・ルヴェル仏訳) アントニオ・ネグリ「ネグリ、日本と向き合う」p182 「原子力国家の支配に対する抵抗」

 「ネグリ、日本と向き合う」を読み進めるにあたって、このアニメ作品にポイントがあったので、さっそく図書館のDVDを予約した。しかし、気がついたら数十人待ちの大人気作品である。あらら、どうしようかな、と思ったら、すでに我が家のビデオ・ハードディスクに録画されているのであった。家族でまだ見ていないのは、私だけか・・・(汗)

 本書には、上記の二つのプログラムの内容とともに、ほぼ2週間にわたる日本滞在期間中におこなわれた対話と議論をふまえるかたちで来日後に書かれた論考「アベノミクスと『風たちぬ』---日本から帰って考えたいくつかのこと」も収録された。

 それらの論考から、私たちは、ネグリがいかに日本に向き合ったか、いま日本とどう向き合っているのか、ネグリの思索を深く知ることができるだろう。本書のタイトルを「ネグリ、日本と向き合う」とした理由である。伊藤守「ネグリ、日本と向き合う」p11

 かの書物のタイトルにさえ影響を与えたとするこのアニメ作品には、とりあえず敬意を表し、白紙の状態で見てみることにした。その後、ネットでいくつかの映画評を見たが、そこにはあまり触れずに、とにかく、基本路線であるネグリにもどっていくことにする。

 私はこの映画を見て、やっぱりいろいろ考えたが、男中心で、女性の登場が少ないことと、相手役とされる主人公の恋人=妻の生き方に、清楚なものを感じつつ、それでいいのか、という疑問点も深く感じた。

 それと、映画のあちらこちらにでてくる大自然の豊かで美しいシーンについても感動した。それはアニメでもあるし、リアリティには乏しいのだが、例えば当ブログが藤沢周平の小説や映画に惚れてしまうのも、実はストーリーを浮き上がらせるバックとしての背景である海坂藩(山形の旧鶴岡藩がモデルと言われる)の自然の美しさに見とれてしまうからである。

 ゼロ戦や、戦争シーン、三菱の工場といったものに、大きく心を動かす必要は、いまのところはないだろう。とにかく、そう思って、最後まで見通した。

 しかし、だんだんと、ネグリが、この宮崎駿のアニメを出すことによって、生命とテクノロジーの対比を企てていたのだ、ということがだんだんわかってきた。つまり、ネグリはテクノロジーはやすやすと戦争国家に利用されてしまう、という事実について、指摘しようとしていたわけである。

 私は今回この「ネグリ、日本と向き合う」を読み始めるに当たって、なにかひとつ不足しているものを探しているかのように「WIRED×STEVE JOBS」 『WIRED』 保存版特別号を読み始めた。ネグリ、と言いきられていることに、一抹の不安を感じたのである。

 私にとっては、ネグリ&ハートでいてほしい、そんな希望がある。推測では、1930年生まれのネグリに対して、ハートは1960年生まれのネット世代である。ハートの「テクノロジー」感覚がどうしても欲しかったのである。

 ネグリのこの近辺の文脈では、テクノロジーは、飛行機であり、原発である。これらは深い希望であるはずなのだが、容易に国家の戦争の道具に堕ちていく。特に、原発は、「深い希望」などとは無縁の存在になりつつあるのだ。

 私たちをとりまく21世紀のテクノロジーと言えば、ネットワークやIT技術であろう。これらがあったからこそ「マルチチュード」という可能性も見えてきたのであるし、「<帝国>」が支配の道具として「悪用」してしまう危険性も大なのである。

 この辺の問題については、宮崎駿の言葉を借りて、ネグリは、自分自身の現在の感想を述べているのであろう。

 映画全体が、共にテクノロジーから生まれる全と悪の問題に集中していた。制作者の自由な想像力から生みだされるのは爆撃機か、空飛ぶ物体か。宮崎はこの問いに答えない。しかし、それぞれのシーンが、風景の一つひとつのが、一つひとつの愛の出会いが、ただひとつの希望を表現している。アントニオ・ネグリ「ネグリ、日本と向き合う」p182 「原子力国家の支配に対する抵抗」

 性急にネグリに答えを求めようとする姿勢は間違っているだろう。ネグリもまた問いには答えない。しかし、各地で広がる「マルチチュード」たちの風景一つひとつに、ただひとつの希望を表現しよう、としているのだろう。

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<7>

<6>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<7>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

序 アントニオ・ネグリの現在 伊藤守

 世界的なベストセラーとなったネグリとマイケル・ハートの共著「<帝国>--グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性」が出版されてから、世界の情勢が大きな変貌をとげるなか、いま私たちがおかれたグローバルな世界をいかに捉えるか、その点をネグリと議論することが来日プログラムのねらいであった。p11伊藤「来日プログラムのねらい」

 「<帝国>」の原著は2000年に英語版がでている。日本語版は2003年。

 「<帝国>」の刊行から一年後の2001年に起きた「9・11同時多発テロ」は、アメリカ主導によるアフガニスタンへの軍事侵攻、さらにイラク戦争を引き起こし、これらの地域はいまだに混乱のなかにある。p11伊藤 同上

 この2000年、2001年という年代は、ITネットワークの発展とともない、9・11テロを契機にブログを書き始めたという人たちも多く存在する。当ブログは、2005年スタートだから、この9・11テロについてはあまり突き詰めてこなかったが、のちに起こる3・11に比べれば、はるかに「対岸の火事」とみてしまっていたことは確かである。

 グローバルな金融資本の暴走と不正義を露呈させたリーマンショック 緊縮財政政策によって一層の経済落差と貧富の拡大が続いている。p11伊藤 同上

 わが日常仕事も分類としては金融業に属しているので、この時の影響は大きく蒙った。しかしながら、一個人としてはどうにもならない無力感の中で、ひたすら右肩下がりの経済状況を生き延びることを考えるしかなかった。

 そして、日本では「東日本大震災」が発生し、地震による巨大津波によって東北地方沿岸部は壊滅的な打撃を受け、福島第一原発では複数の原子炉が同時に炉心溶融を起こすという人類史上これまで経験したことのない事故が発生した。p11伊藤 同上

 我が家の数キロ先まで押し寄せた津波によって街並みは壊滅し、隣県に存在する原発の放射線汚染に怯えつつも、3・11という大惨事に直面しつつ、根幹には致命的な影響を受けることはなかったわが家である。しかし、リスクマネジメント関連の仕事上、実に多くのことを感じ、考えざるを得なかった。もちろん、この事故は終わっていない。

 それは、多くの被災者・避難者に過酷な生活を強いる一方で、原発という巨大科学技術の脅威と危険性を、そしてさらに国家という単位を超えてグローバルに結びついた、原子力発電に固執し続ける政・財・官の支配ブロック---ネグリが「原子力国家」と呼ぶ---の戦略を世界中の人々に知らしめた。p11伊藤 同上

 この「原子力国家」たる「怪物(リバイアサン)」こそ、ネグリが直視する「<帝国>」の、ある意味本性であり、ある意味本体である。

 他方、新自由主義的な政策と一体化したグローバリゼーションが引き起こす経済危機や経済格差が急速に拡大するなかで、アメリカやヨーロッパの先進国では「オキュパイ運動」や公的サービスの削減に抗議する「UKアンカット運動」に代表さえるような反グローバ理ぜーションの運動やエコロジー運動が高揚した。 

 中東では「アラブの春」と呼ばれる民主化運動が起き、日本でも反原発運動や脱原発運動が全国に広がる状況が生まれた。これらの個々の運動は、社会的、文化的、政治的文脈がまったく異なる地域で、異なる目標を掲げて展開されており、そこに共通する要素など存在しないと思われるかもしれない。

 しかし、これらの運動の根底には、社会的意志決定のあり方や制度、経済と市場の「自由」を至上のものとする考え方への根本的な懐疑が渦巻いているという点で、多くの共通点が存在すると見ることもできる。p12伊藤 同上

 マルチチュードが育つ土壌であり、またその必然性を支える要素でもある。

<8>につづく

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2015/10/06

「わがボタニカルライフ」<18>マリモ

<17>からつづく

「わがボタニカルライフ」

<18>マリモ63

 我が家にいつのころからか存在するマリモ。確たる生育法も知らぬまま、ほぼ放置されているのだが、いまだに命脈を保っている。

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 これは震災前後に北海道に勤務していた家族がお土産用のものを購入してきたのだが、いまだに大きくなる気配はない。

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 もう一方のものは、もうすでに二十数年我が家に存在している。近所の人から洞爺湖のお土産として貰ったものだが、こちらの成長もなくはないのだが、これだけの大きさでいいのかどうか、悩むところである。

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 たまに水槽から取りだして、洗ったりしてあげているのだが、とくに大きな病気とはついたりはしていないようだ。

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 たしか先日テレビでみたところによれば、マリモは湖底の水の流れで転がされ続けるから、丸く成長するのだ、と聞いたことがある。

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 とするならば、環境もそれなりに考えてあげなくてはならないのではないか、と金魚鉢の中で、金魚に食べられないようして、流水の中においてあげたこともある。

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 されど、確たる方法も分からず、いまだに放浪の身の我が家のマリモであるが、シロート目には至って元気で、そのうち大きくなるだろう、とノンビリ眺めていることにした。

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 置き場所も、日当たりのよいところや、北側の日陰、石の上や、木目など、いろいろ工夫はしてみるが、それほどの変化はない。

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 それを眺めるというより、我が家にはマリモがいてくれるんだ、という、なんとなくいい感じの安堵感だけがある。

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 この水槽くらいに大きくなったら、もう出られなくなるね、なんて笑ってみるものの、そんなに大きくなるには、どれだけの時間がかかるのだろう。

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 透明感のある環境が、一番似合うようではあるが・・・。

52

<19>につづく

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2015/10/05

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<6>

<5>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<6>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

序 アントニオ・ネグリの現在 伊藤守

 さて、伊藤守という人はどんな人だろう。

 1954年生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専攻は社会学、メディア・文化研究。著書「記憶・暴力・システム---メディア文化の政治学」(法政大学出版局)、「情動の権力---メディアと共振する身体」(せりか書房)、「ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか」(平凡社新書)他。p236「訳者略歴」

 1954年生まれと言えば、私と同年輩。おそらく70年安保的状況にはやや遅れてきた青年ではあるが、リアルタイムで記憶が残っているはず。残念ながら当ブログでは彼の著書には以前に触れたことはない。この際だから、紹介されている3冊程度は目を通して置くのが礼儀だろう。

 と思い、図書館を検索してみたら、上の3冊のうち在庫は一冊のみ。ただし、他にも多数著書は収蔵されているので、関連で近著を数冊程度見ることはプラスになるだろう。

ネグリとの対話へ

 2013年4月、アントニオ・ネグリがようやく日本の地に立つことができた。来日の目的は、シンポジウムそして講演会といううふたつのプログラムに出席することであった。

 日本学術会議社会学委員会メディア・文化研究分科会と国際文化会館が共催した4月6日のシンポジウム「マルチチュードと権力:3・11以降の世界」、さらに4月12日の国際文化会館主催による講演「日本におけるアントニオ・ネグリとの対話」この二つのプログラムである。 p9「ネグリとの対話へ」

 たしかこの来日の際のドキュメントが雑誌に掲載されていた。「現代思想」( 2013年7月号 特集=ネグリ+ハート 〈帝国〉・マルチチュード・コモンウェルス)。こちらも、再読してみる価値がありそうだ。合わせて読んでみよう。

 そも、日本学術会議 とはなにか。HPには「日本学術会議は、わが国の人文・社会科学、自然科学全分野の科学者の意見をまとめ、国内外に対して発信する日本の代表機関です。」とあるから、かなり公的な機関だと思われる。

 日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信の下、行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的として、昭和24年(1949年)1月、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立されました。HPより

 ということだから、格式も歴史もありそうだ。

 では、国際文化会館とは何か?

 公益財団法人国際文化会館は、日本と世界の人々の間の文化交流と知的協力を通じて国際相互理解の増進をはかることを目的に、1952年にロックフェラー財団をはじめとする内外の諸団体や個人からの支援により設立された非営利の民間団体です。HPより

 ロックフェラー財団という名前は気にならないわけではないが、ここは軽くスル―しよう。少なくとも、ネグリは、この段においては、政財界から厚く丁重な招きがあって来日した、ということになろう。4月6日から12日の間までには、かなりの余裕があったわけだから、おそらく要人なり個人なりとのそれなりの対面があったと想像される。施設や機関などにも訪問したかもしれない。

 2008年の3月、(中略) 事実上の、日本政府による入国拒否と判断できる不当な対応であった。p10「序 アントニオ・ネグリの現在」

 あの時の政権は、2009年の9月に始まる民主党政権の前の段階であった。

 それらの論考から、私たちは、ネグリがいかに日本と向き合ったか、いま日本とどう向き合っているのか、ネグリの思索を深く知ることができるであろう。p10 同上

 さていよいよ、ネグリに向き合おうとしているのは、当ブログである。こちらの思索もまた問われることになる。

<7>につづく

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「市民農園体験記」<42>収獲(成功体験)の記憶

<41>からつづく

市民農園体験記 
<42>収獲(成功体験)の記憶


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<43>につづく

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<5>

<4>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<5>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

<表紙>

 タイトルは、「ネグリ、日本と向き合う」だが、当ブログとしては、逆に「日本、ネグリと向き合う」のほうが似合っているように思う。少なくとも当ブログとしては「ネグリと向き合う」の再スタートである。

 出版者がNHK出版というのも、いつも不思議な気分になる。ネグリは版権でも押さえられているのだろうか。そのリストを見る限り、決してNHK専属ではないようだが(笑) 他の小出版社からでているのならなんとなくわかるのだが、ネグリのような「革命的」な本が、NHK出版からでてくるのが、なんとなく、いつも不思議に思う。

 原発から領土問題 アベノミクスに「風立ちぬ・・・」 風立ちぬは、例のジブリ作品だが、当ブログとしてはまだ未視聴なので、この際、見ておこう。

 アントニオ・ネグリの名前が一番最初にくるのは当然としても、マイケル・ハートの名前がないのが、ちょっと寂しい。アメリカのハートがどのような役割を果たしているのか。少なくともネグリにITやネット関連の情報を入れているのはハートの役割だと思うので、その辺がどのように影響しているのか関心がある。

 日本の知性はどう応えたか? 表紙に掲載されている日本人の名前は8人。姜尚中、上野千鶴子あたりはまずまずとして、大澤真幸あたりになると、うろ覚え。あとの5人については、他のネグリ関連の書籍でみたかどうか定かではない。

アントニオ・ネグリ
1933年生まれ。イタリアの政治哲学者・活動家。アウトノミア運動の理論的指導者。テロ事件に関わった容疑で不当に逮捕・投獄される。2003年、自由の身に。マイケル・ハートとの共著「<帝国>」(以文社)、「マルチチュード」「コモンウェルす」(2点とも、NHKブックス)の三部作によって世界的注目を集める。
裏表紙

 「<帝国>」(2003年)ですでに注目を浴びたネグリ&ハート、そこから切り出した形で「マルチチュード」(2005年)がだされ、「コモンウェルス」は2012年にでている。本文を読んでみると、このこの「コモンウェルス」は三部作の一角として重要視されているようなので、当ブログとしては要再読である。

 新書本、全部で237ページというのは実にコンパクトに思える。

 2013年、ついに来日を果たしたアントニオ・ネグリ。彼は3・11後の日本をどう見たのか? 原発問題・領土問題・アベノミクスなどの日本の課題、米国・EU・中国・南米など現代の世界情勢、日本におけるマルチチュードの可能性について、率直に語る。

 日本を代表する知識人によるネグリへの<応答>も多数収載。世界有数の知性と日本の知性がぶつかりあう刺激的な一冊! 表紙見返し

 ネグリの来日が最初企画されたのが2008年春。しかし実現はしなかった。あれから5年が経過してネグリはやってきた。ネグリの何が注目されているのか。そしてここで語られている「日本を代表する知識人」とは、どういう意味か。

<6>につづく 

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「市民農園体験記」<41>半年を振り返って

<40>からつづく

市民農園体験記 
<41>半年を振り返って

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 思い立って市民農園に参加してから丁度半年。あっという間の半年であった。春から季節は初夏、夏、そして初秋と、どんどん変わっていく。農園の見知らず柿もどんどん色づいてきている。

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 あまりの暑さに8月はほとんど畑作業はできなかったが、9月になり、すこしづつ夏野菜を後片付けしながら、秋冬の作物を考え始めた。

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 別段に計画などないのだが、園芸店に行って、気付いたものを断片的に買ってきて植えているだけなので、何をどうしたらいい、なんてことはあんまり考えていない。行き当たりばったりである。

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 それでも、タマネギの球根を植え、アサヅキの球根も植えた。奥さんが自宅のコンテナで蒔いたミズナの種が余ったので、こちらもわが畑にまいてみた。他に植えてみたいものもあるのだが、どうもキャベツやブロッコリーの失敗にこりて、葉物野菜は躊躇している。

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 畑では、もう実用にはならないけれど、いまだに何事かの収獲はある。そのうち、半年間の収獲の写真を列挙してみよう。いろいろあった春夏だった。忘れられない体験となるだろう。甘酸っぱい成功談と失敗談を記憶しながら、次は、秋冬へと移っていく。

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<42>につづく

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<4>

<3>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<4>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

<読書中>

まず一読して 

表紙・裏表紙

目次

序 アントニオ・ネグリの現在 伊藤守

Ⅰ「東アジアのなかの日本」と向き合う

  応答 東アジアの「冷戦」と「熱戦」  姜尚中

  対話 東アジアのナショナリズムとリージョナリズム アントニオ・ネグリ×姜尚中

Ⅱ「3・11後の日本」と向き合う

  3・11後の日本におけるマルチチュードと権力 アントニオ・ネグリ(訳 三浦信孝)

  応答1 「社会的なもの」の行方 市川良彦 

  応答2 日本のマルチチュード 上野千鶴子

  応答3 3・11以降の反原発運動に見る政治と文化 毛利嘉孝

Ⅲ 原発危機からアベノミクスまで、「日本の現在」と向き合う 

 

  アベノミクスと「風立ちぬ」 アントニオ・ネグリ(訳 三浦信孝)---日本から帰って考えたいくつかのこと

  「原子力--主権国家体制」の行方 白井 聡

  絶対的民主主義への道はどこに? 大澤真幸

執筆者・訳者略歴

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 3・11後の時間的経緯

<5>につづく

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2015/10/04

「覚醒の舞踏」グルジェフ・ムーヴメンツ 郷尚文<6>

<5>よりつづく

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「覚醒の舞踏」 グルジェフ・ムーヴメンツ <6> 
郷 尚文(スワミ・アナンド・プラヴァン) 2001/06 市民出版社 単行本 343p
★★★★★

1)当ブログが「意識と瞑想をめぐるブログ」を標榜するなら、この手の本には、もっともっとコミットメントすべきであろう。

2)著者は、友人Vと同じ年齢である。ということは著者30歳代末に書かれた本であり、かなり意欲的な部分と、それなりの青年後期の危うさがまじりあう文章がつづく。

3)グルジェフに関する簡単な略歴や、その教えの主要な部分となるエニヤグラムなどにたいする論述は、それなり受容するとしても、実際の図絵を使ってのエクササイズやムーブメントの説明となると、これはかなり困難を極める。

4)畳の上で水泳を習うより難しいかもしれない。掲載された図絵を使って独習することも可能であろうが、やはりひとつのスクールの流れに入らないことには、具体的には深奥を究めるのは無理であろう。

5)長らく門外不出されてきた舞踏の謎に迫る、という腰巻のコピーが目に浮かびあがる。

6)この書を読み進めるには、当然のことながらグルジェフの気配を感じながら読むことになるが、著者であるプラヴァンや、あるいは最近の私なら、友人Vの最近の、現在の気配を感じながら読み進める必要があるだろう。

7)少なくとも、今回、このような形でまた一通り読みとおすチャンスが巡ってきた。得たこともあったが、いまだに不明、あるいは新たに湧き上がる疑問の数も少なくはない。

つづく

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「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<3>

<2>からつづく 
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「ネグリ、日本と向き合う」
<3>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

1)この本を読んでいて、他の本との類似性を見つけることになった。ダライ・ラマ14世「傷ついた日本人へ」(2012/04 新潮社)、ゲーリー・スナイダー『For the Children 子どもたちのために』(2013/04 野草社/新泉社)、そして宮沢賢治を語った「宮沢賢治祈りのことば」(石寒太 2011/12 実業之日本社)などなど、である。

4p
2)どこが似ているのだろう、と考えてみた。
 ・そもそもが当ブログお気に入りの人々であったこと。
 ・それぞれが3・11後に出された本であること。
 ・いずれもが新書本か、それに準ずるようなシンプルな本であること。
 ・何度でも読んでみたくなる本であること。
 ・そして出来るなら、他の人々も読んでいてほしい本であること。

3)それからそれから、と考えて行けばキリはないが、逆にいえば、これらの本はそれぞれに別な角度から書かれている本であり、ある意味、それぞれの違いが際立ってはいる。どこがどう違うのか、その差異も気になるところだし、また、これらの仲間の本は、実は他にも沢山ある。

4)しかし、今回は、ネグリのこの本を巡って、さまざまな想いをめぐらしてみたいので、この程度にとどめておく。これまでは、一読して、気になったところに付箋を貼っておいたのだが、それを順番に追っかけてメモしておいただけなのだ、出きれば、かつて、当ブログが一番最初にスタートするきっかけになった「ウェブ進化論」(梅田望夫 2006/02ちくま新書)の時のように、もうすこし細かく細かく抜き書きしてはどうか、という思いが湧いてきた。

5)いままでネグリ&ハートの著書は、それなりに追っかけてはみたものの、方向性や趣味性において、結局は決別が予想されるので、首肯するにしても、反駁するにしても、どうもいつも腑に落ちない読み終わりであることが多かった。用語や論理性があまりにも入り組んでいて、かつテーマが広く、つかみきれないことも多かった。

6)しかし、この本は、テーマが空間軸としての日本に絞られている。しかも、時間軸としては3・11以降だ。そして、よくもわるくも、天災としての地震津波よりも、人災としての原発事故にほとんどのウェイトを置いているのである。

7)当ブログとしては、人災としての3・11をはるかに凌駕するものとして、天災としての3・11を捉えているので、物事を原発事故に限定することは、ちょっと遺憾である。もっと長大な歴史観の中で、人類を考えてみたい、と思っていた。

8)しかしながら、小出裕章氏のような専門家が指摘しているように、原発は、国家の成り立ちと、かなり複雑に入り組んでいる。そこを小出氏は「原発国家」とまでは言わなかったけれど、ネグリは、この本において、しっかりと、そう断定している。

9)物事を掘り下げていくには、このような暫定的なレッテル貼りは必要である。そういう意味では、<帝国>も、マルチチュードも、いまはレッテルにすぎない。そのレッテルを貼っていい実体をキチンと見据えているのかどうか。そここそ、マルチチュードひとりひとりの見識の力量にかかっている。 

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10)思えば、この本は、2013年4月のネグリ来日を契機として出版されているのだが、その来日講演などは、「現代思想」 2013年7月号 特集=ネグリ+ハート 〈帝国〉・マルチチュード・コモンウェルス)が伝えており、その内容を後日増補して、一年後の2014年3月に発行されたものである、と捉えておくことにする。

<4>につづく

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「WIRED×STEVE JOBS」 『WIRED』 保存版特別号<3>

<2>からつづく

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WIRED×STEVE JOBS」 <3>
『WIRED』 保存版特別号 2013/10 コンデナスト・ジャパン 雑誌 p178 kindle版 WIRED関連リスト
1)「ネグリ、日本と向き合う」(アントニオ・ネグリ 2014/03 NHK出版)を読み進めるに当たって、読者としての私から見た場合の類似本をいくつか挙げてみた。
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 他にも何冊かあったのだが、その筆頭に思い付いたのがこのジョブズついての本であった。私はこの本の群れに、この一冊をも偲ばせたかったのである。
2)類似本と言っても、それぞれに傾向性は違う。でも、どうしてもバランスが悪い。今回、ネグリと向き合うに当たって、同時に、このジョブズ本を挟んで進行していきたいと思う。
つづく

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「Pen」2015年 10/1 号 [インテリアのヒントが満載! 暮らしが楽しくなるアイデア集。]<10>

<9>からつづく

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「Pen」2015年 10/1 号 [インテリアのヒントが満載!  暮らしが楽しくなるアイデア集。]<9>
CCCメディアハウス 2015/9/15 雑誌

 先日「IKEAカタログ2016」を見ていて、特段に必要なものはないなぁ、と思っていた。あえていうなら、この小さな温室くらいはあってもいいかな、というくらいだった。

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 数日前、時間がぽっかり空いて、IKEAで時間つぶし。やっぱり何にもないなぁ、などと呟きながら、結局は、3点のお持ち帰りとなった。

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 100円ショップでも買えそうなものだが、IKEAのDNAがどこかにただよう。火と水の神様の取り合わせは、これは何かの配剤か。

つづく

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2015/10/03

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<2>

<1>からつづく 

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「ネグリ、日本と向き合う」
<2>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  4その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

1)互いの「力能」を減ずることなく、それを互いに増大させる、関係制に開かれた「衝動」や「欲望」を解放すること、それをネグリは「<生>をまるごと享受すること」と指摘し、「絶対的に革命的なことは、人間的経験の総体を生きようとすることにほかならない」(「ネグリ 生政治的自伝」邦訳p37)と述べるのである。

 スピノザ的な<生>の肯定、それがマルチチュードの核心にある。だからこそ、マルチチュードは、スピノザの言う意味での生きる「喜び」を減退させ、<生>を外的な規範や制度に馴致(じゅんち)する「権力」には敵対し、「共」(common)を「私的なもの」に囲い込み市場化する「権力」に抗して、特異性を保持しつつ共同の活動を推し進める能動的な力能---制度的権力を掘り崩す構成的権力---の主体として生成する。p20伊藤守「アントニオ・ネグリの現在」

2)はてさて、このたった数行の一文ですら、キチンとした日本語になっているのかどうか定かではないが、「絶対的に革命的なことは、人間的経験の総体を生きようとすることにほかならない」なんてあたりは、ある意味、わがマスターOsho言うところのゾルバ・ザ・ブッダ的人生観とでもいうことが可能だろう。

3)スピノザについては、当ブログでもおっとり刀で読み込みはしてみたものの、なまくら刀ではななかなか歯がたたないことはわかった。しかしながら、ひとりひとりの人生にもどるなら、なにも、スピノザを読みこなせなくても、人間的経験の総体を生きようとすることは、決して難しいことではない筈だ。

4)ネグリの論考から、私は、日本をめぐる彼の思索がより一層深く、より明晰になった、という印象を受けた。ネグリは問いかける。日本の超近代性と伝統の深い力、その両者を同時に可能にしているものは何か、と。

 その両者の結び付きが、高度な生産性と「共に生きる力」との有機的な連結をもたらす可能性を否定すべきではない。

 だが、いま、多くの市民が原発の吐きを望むなか、安倍政権が誕生し、その下で原発再稼働への動きや保守的な外交政策が推進されている事態は、「『原子力国家』の技術的機能による、絶対的主権の伝統の更新」ではないか。

 それが正しい認識であるとすれば、日本社会を覆う社会的断絶や格差、東アジアにおける緊張と不安、これらを解決に導くことなどできない。ネグリは私たちにそう訴えている。p25伊藤 同上

5)ちょっくらまどろっこしいが、早い話は、日本は原発を廃して、近隣となかよくやっていく道を探したら、どうですか、とネグリが言ってますよ、ということだ。

6)ところで、ここで生じる最初の問題は、今日展開されている太平洋の理バランス・ゲームに日本が参加するかどうか、参加するとsるえば日本の機能は何か、ということである。

 もちろん、軍事的観点も含めて、日本が新しい主役として登場するという仮説にはあ、アジア諸国から葛藤に満ちた反発があることを忘れるわけにはいかない。

 しかし、日本の内部にも看過できない困難が山積している。少子高齢化、経済産業上の危機、そして言うまでもなくフクシマの原発事故の後遺症である。p43伊藤 同上

7)日本は戦争を語る時、被害者としての立場を強調する嫌いがあり、アジア全体から見た場合、あまりにも極端に加害者意識を持っていない。9条の縛りで抑制のきいた近隣外交を続けてきた70年の歴史から、一歩まちがえば、またまた一億火宅の人になりかねない危険性と隣り合わせであるのだ。そして、悪政の当事者たちは、内政の矛盾をごまかすために、外交へと目を向けさせるのが、世の常である。

8)認知資本主義のもとで行なわれる非物質的労働について、当初、ネグリの念頭にあったものは、彼の用語によれば認知的労働、いわゆる知識労働に従事するIT技術者や金融トレーダーのような「知的労働者エリート」であったようだ[平田2013]。だが、もう一方で彼は非物質的労働に「情動労働」をつけくわえるのを忘れない。 

 ソフト化エコノミーは、情報とサービス、その両方を主要な産業として生みだした。ネグリによれば情動労働とは「精神と身体の両方に等しく」作用する、「安心感や幸福感、満足、興奮、情熱といった情動を生み出したり操作したりする労働」[ネグリ&ハート(上):185]を指す。p129「『3・11後の日本』と向き合う」

9)このあたりを読んでいて、私は自分が昔書いた文章を思い出していた。脈略は違うのだが、この本と当ブログを繋ぐには適当な部分だな、と思ったので、当時の文章をそのまま転記しておくことにする。

10)ひょんなことで始まった当ブログの読書ノートだったが、進行のプロセスにおいて、科学、芸術、意識の三分野の統合的人間、という意味で、プログラマ、ジャーナリスト、カウンセラー、という現代的職業要素の三面から点検をしていた時期があった。

 養老孟司バカの壁」、 レイ・カーツワイルの「スピリチュアル・マシーン」や神田敏晶「ウェブ3.0型社会」、デボラ・ブラム「幽霊を捕まえようとした科学者たち」、桧垣立哉「生と権力の哲学」、ジェームズ・レッドフィール 「新しき流れの中へ」、などなどを読みながら、何回も繰り返し考えてきた。

 その三つの職業はより詳しくは次のように形容しておいた。

1)グローバル社会に対応する創造的なプログラマー
2)マルチな表現を理解する瞑想的なジャーナリスト
3)転生輪廻を自らの体験として理解する精神的なカウンセラー

 この現代を象徴するような職業像は、また、自分自身のなりたい自画像の反映であっただろうと思う。ある意味での自己実現の姿だ。なれるものならなってみたい。もちろん、多くの現代人たちがすでにこのような姿で働いているはずだ。でも、自分がなれるとしたら、かなり限定されてくるなぁ、と思われてきた。

 まず、1)グローバル社会に対応する創造的なプログラマー、という時、頭の中には、リナックスな人々の中で生きていく、難解なアナロジーを自由に使いこなしていくようなクールな現代人のイメージがあった。そうだったらいいのにな、の世界ではあるが、時代はどんどん進んでしまって、リナックスどころか、ネット環境に対応するだけでも精一杯という感じになってしまった。ケータイの世界やiPodやらiTuneやらと、やたらと時代は進化する。リナックスのプログラミングどころか、パソコン一台で日常の仕事をこなすのがせいいっぱい、という感じになってきた。われながら、老いを感じるw。

 つぎなる、2)マルチな表現を理解する瞑想的なジャーナリスト、だが、これもまた、なんだか形容矛盾でいまいちはっきりしないイメージではあった。つまりは、小学生のころにガリ版で学級新聞をつくってクラスメイトの情報係をやっていた感覚で、ブログを始めてみて、これはいけるぞ、と思って、ブログジャーナリズムとやらに、すこしは夢を馳せてみたのだった。しかし、「ブログ論壇の誕生」などを読むまでもなく、ブログはブログとしての機能は素晴らしいのだが、実際に個人ブログが、社会的に大きな力を単独で持つなんてことは、ほとんどありえないということが次第に痛感されるようになってきた。

 さて、残る、3)転生輪廻を自らの体験として理解する精神的なカウンセラー、だが、これは割と最後まで生き伸び続けてきている。特にこの春からのチベット問題=FREE-TIBETムーブメントの盛りあがりのなか、チベット密教にふかく入り込もうとした時、いまのままの三分の一的探究の仕方では追いつかないぞ、と思った。その時に、1)や2)の人間像をすてて、3)に集中してみようじゃないか、という気分になってきた。これはまだなかなか可能性がありそうである。

 トランスパーソナルな流れなかでスタニスラフ・グロフのマトリックス理論をながめたり、「高僧謁見記」を再読したり、津田真一の「反密教学」や、杉木恒彦「サンヴァラ系密教の諸相」などを見るにつけ、なにかの骨格ができあがり、次第次第に部分部分の肉付けが始まっているような感覚が湧いてきた。

 さてさて、3)転生輪廻を自らの体験として理解する精神的なカウンセラー、というテーマだが、さらにここから、こまかく分解して、ていねいに見ていく必要がある。

a,転生輪廻、とはなにか
b,自ら体験する、とはなにか
c,理解、とはなにか
d,精神的、とはなにか
e,カウンセラーとはなにか

 まず、b、自ら体験する、についてだが、プログラマであろうとジャーナリストであろうと、自らが体験すること自体は当たり前のことであり、体験的でなければ、意味がない。当然のこととしてある。

 c、理解、については体験を十分に自分なりに消化して血肉にするということだから、時間をかけて熟練していけば、そのような帰結は、これまた当然のことであろうと思われる。

 d、精神的とは、つまりスピリチュアルということであろうから、規定はあいまいであろうと、つまりそういうことだ、と、暗黙の了解を得やすい。自分自身でもなんとなく分かったような気になれる。

 さてここまで来て、残る二つはなかなか難しい。難しいのは、この二つが、両極にあるからだ。つまり、e,カウンセラーとは、もろに職業的役割を意味し、自分のイメージや考えだけでは成立しない世界に立たされているということだ。クライエントがいてこそ成立し、また、現実にその行為があってこそ自らの存在が、そのように形容し得るのである。しかしながら、カウンセラーという名刺を作り、看板をかかげ、HPを作成して、クライエントとの出会いを待ち、それ相応の関係をつくることは、現実的に、難しいことではない。むしろおおいにあり得ることだし、経験もある。だから、ここまでは解決可能としておこう。

 さて、a,転生輪廻だが、これは扱いが相当に難しい。キューブラ・ロスやスタニスラフ・グロフたちの先見的な研究は大いに力にはなるが、しかし、「科学的に証明」したことにはならず、また、密教的秘儀をもってして「自ら体験し理解」することが可能であっても、クライエントとどのように理解しあい、受容しあうかというテーマになると、ほとんど不可能ということになる。あくまでも主観的な感覚となる。

 しかし、ここからは覚えたての言葉でいえば、マナ識やアラヤ識の理解を深める、つまり瞑想する、ということなのだが、これらについての理解が互いに深まっていった場合、カウンセラーとクライエントという立場に限らず、二つの魂、あるいは、複数の魂、あるいはもっと大きな魂のプールのなかで、同時的な理解、つまりシンクロニシティーが起きる可能性は十分あるのである。あるいは、そうあってほしい、ないしは、そうあるべきである、という思いが強まる。

 当ブログは、世界の各地で起きている経済的情報や政治的事件をジャーナリスティックに報道するような参加のしかたはできないだろうが、しかし、魂のプロセスにおける同時性、そしてその進行具合については、多少はスピリチュアルな瞑想的ジャーナリストとして振る舞うことができるのではないだろうか、と思えてくる。

 さらに言えば、アラヤ識が宇宙の意識の巨大なライブラリーやアーカイブスだとするなら、現在インターネット上で行われている情報の集積と利用可能領域の拡大は、実はほんの序の口であり、さらなる展開がありうるのだとした場合、ビジョンとして、プログラマ的センスで、次なる展開を提案し得るのではないか、という可能性も見えてくる。

 そうなってくると、結局は、プログラマ、ジャーナリスト、カウンセラーという三面的要素は、ふたたび結合しうるのであって、ここまでくればめでたしめでたし、という結果になるのではないか・・・・・・。

 などなど、この「魂のプロセス」を読みながら考えていた。Bhavesh 2008/12/14

11)今日のところは、プログラマーの権化はスティーブ・ジョブズと見、カウンセラーの権化はダライ・ラマと見立てた。さて、ジャーナリストとは誰だろうと、いろいろ逡巡してみたが、それこそアントニオ・ネグリでいいじゃないか、と府に落ちるところがある。

<3>につづく

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2015/10/02

「覚醒の舞踏」グルジェフ・ムーヴメンツ 郷尚文<5>

<4>よりつづく

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「覚醒の舞踏」 グルジェフ・ムーヴメンツ <5> 
郷 尚文(スワミ・アナンド・プラヴァン) 2001/06 市民出版社 単行本 343p
★★★★★

1) 最近は日本でも流行の「エニアグラムによる性格分析」は、グルジェフの教えとは無縁の人々が提唱するものとして、伝統的なグルジェフ・グループから、多大な非難を浴びているが、彼らがエニアグラムの9つの点であらわした人間の9つの類型を、「センターの誤用」の9つのパターンとして理解するならば、そこにはいくつかの注目すべき発見がある。p214「複雑な機会--脳と身体のサイバネティクス」

2)当ブログで読んできたグルジェフ&ウスペンスキー関連本の中にもセリム・エセル「グルジェフ・ワークの実際」(2008/12 コスモスライブラリー)のような本もあったが、深入りしないことにしている。

3)そもそもが、血液型診断であろうが、占星術であろうが、色彩心理であろうが、参考にすべき点がゼロではないが、そこに全てを依拠することなどできない。高島易断の高島嘉右衛門の言葉、「ことごとく易にしたがえば易なきがごとし」を思い出すべきであろう。

4)エニアグラムだが、究極の理解は程遠いとしても、当ブログなりに理解し、すでに活用済みである。

5)シとドのあいだの第二のインターバルに必要なショックは、実は、ミとファのあいだの第一のインターバルに必要なショックよりも大きいように思える。それにもかかわらず、台のショックはが目立ちにくいのは、その作用点はシだが、その準備はソから始まっているためである。

 第二のショックに向けての準備は、シの段階で初めても遅いため、人はその必要性にさえ、気付かない。最後になってなにかが欠けていることに気づくのだが、自分がどこで何を忘れたのか分からない。p263「創造と深化の図絵---動きと姿勢の宇宙的文脈」

6)このあたりについては、当ブログとしては大いに納得する部分である。

7)私にとっては、この本の構成を、ひとつのオクターブとして考えるのがわかりやすい。p262 同上

8)一冊の本の構成をひとつのオクターブとみることが許されるなら、一人の人生の中にひとつのオクターブを見つけることも可能だろう。詳述はしないが、29歳をファからのスタートと見、56歳と7ヵ月までのプロセスをシからドへのインターバルと見た場合、まさにこのシステムにあてはまる。詳しくは当ブログ「プロジェクト567」参照。

9)ふたつのインターバルについてのショックのありかたは、著者の説く所といささか異にするが、ファにおいては、静かにおだやかに人知れず内的にかすかに起こり、シにおいては、天地雷鳴し上下がひっくり返るような驚天動地のなかで起こった、ということを明記しておく。

10)この本においては、エクササイズのあれこれについて、基本的な動作がこまかく指導されており、初学者にとっては、大変便利なことであろうし、私のような門外漢においても、そのムーブメンツの内部についてのいささかなる洞察を与えられるものである。

<6>につづく

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