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2015/10/07

「風立ちぬ」 宮崎駿(監督)

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「風立ちぬ」
宮崎駿(監督) 2014/06 ウォルト・ディズニー・ジャパン DVD 2枚 126 分
No.3583★★★★★

 宮崎駿がわたしたちに教えているように、飛行機は戦争のためではなく平和のためにつくられなければならない。私は数日前にヴェネチアのモストラ映画祭で「風立ちぬ」を観た。映像をつらぬくきわめて深い政治的希望に、私は深く印象づけられた。

 映画全体が、共にテクノロジーから生まれる全と悪の問題に集中していた。制作者の自由な想像力から生みだされるのは爆撃機か、空飛ぶ物体か。宮崎はこの問いに答えない。しかし、それぞれのシーンが、風景の一つひとつのが、一つひとつの愛の出会いが、ただひとつの希望を表現している。

 「風立ちぬ、いざ生きめやも」 (原文イタリア語、ジュディット・ルヴェル仏訳) アントニオ・ネグリ「ネグリ、日本と向き合う」p182 「原子力国家の支配に対する抵抗」

 「ネグリ、日本と向き合う」を読み進めるにあたって、このアニメ作品にポイントがあったので、さっそく図書館のDVDを予約した。しかし、気がついたら数十人待ちの大人気作品である。あらら、どうしようかな、と思ったら、すでに我が家のビデオ・ハードディスクに録画されているのであった。家族でまだ見ていないのは、私だけか・・・(汗)

 本書には、上記の二つのプログラムの内容とともに、ほぼ2週間にわたる日本滞在期間中におこなわれた対話と議論をふまえるかたちで来日後に書かれた論考「アベノミクスと『風たちぬ』---日本から帰って考えたいくつかのこと」も収録された。

 それらの論考から、私たちは、ネグリがいかに日本に向き合ったか、いま日本とどう向き合っているのか、ネグリの思索を深く知ることができるだろう。本書のタイトルを「ネグリ、日本と向き合う」とした理由である。伊藤守「ネグリ、日本と向き合う」p11

 かの書物のタイトルにさえ影響を与えたとするこのアニメ作品には、とりあえず敬意を表し、白紙の状態で見てみることにした。その後、ネットでいくつかの映画評を見たが、そこにはあまり触れずに、とにかく、基本路線であるネグリにもどっていくことにする。

 私はこの映画を見て、やっぱりいろいろ考えたが、男中心で、女性の登場が少ないことと、相手役とされる主人公の恋人=妻の生き方に、清楚なものを感じつつ、それでいいのか、という疑問点も深く感じた。

 それと、映画のあちらこちらにでてくる大自然の豊かで美しいシーンについても感動した。それはアニメでもあるし、リアリティには乏しいのだが、例えば当ブログが藤沢周平の小説や映画に惚れてしまうのも、実はストーリーを浮き上がらせるバックとしての背景である海坂藩(山形の旧鶴岡藩がモデルと言われる)の自然の美しさに見とれてしまうからである。

 ゼロ戦や、戦争シーン、三菱の工場といったものに、大きく心を動かす必要は、いまのところはないだろう。とにかく、そう思って、最後まで見通した。

 しかし、だんだんと、ネグリが、この宮崎駿のアニメを出すことによって、生命とテクノロジーの対比を企てていたのだ、ということがだんだんわかってきた。つまり、ネグリはテクノロジーはやすやすと戦争国家に利用されてしまう、という事実について、指摘しようとしていたわけである。

 私は今回この「ネグリ、日本と向き合う」を読み始めるに当たって、なにかひとつ不足しているものを探しているかのように「WIRED×STEVE JOBS」 『WIRED』 保存版特別号を読み始めた。ネグリ、と言いきられていることに、一抹の不安を感じたのである。

 私にとっては、ネグリ&ハートでいてほしい、そんな希望がある。推測では、1930年生まれのネグリに対して、ハートは1960年生まれのネット世代である。ハートの「テクノロジー」感覚がどうしても欲しかったのである。

 ネグリのこの近辺の文脈では、テクノロジーは、飛行機であり、原発である。これらは深い希望であるはずなのだが、容易に国家の戦争の道具に堕ちていく。特に、原発は、「深い希望」などとは無縁の存在になりつつあるのだ。

 私たちをとりまく21世紀のテクノロジーと言えば、ネットワークやIT技術であろう。これらがあったからこそ「マルチチュード」という可能性も見えてきたのであるし、「<帝国>」が支配の道具として「悪用」してしまう危険性も大なのである。

 この辺の問題については、宮崎駿の言葉を借りて、ネグリは、自分自身の現在の感想を述べているのであろう。

 映画全体が、共にテクノロジーから生まれる全と悪の問題に集中していた。制作者の自由な想像力から生みだされるのは爆撃機か、空飛ぶ物体か。宮崎はこの問いに答えない。しかし、それぞれのシーンが、風景の一つひとつのが、一つひとつの愛の出会いが、ただひとつの希望を表現している。アントニオ・ネグリ「ネグリ、日本と向き合う」p182 「原子力国家の支配に対する抵抗」

 性急にネグリに答えを求めようとする姿勢は間違っているだろう。ネグリもまた問いには答えない。しかし、各地で広がる「マルチチュード」たちの風景一つひとつに、ただひとつの希望を表現しよう、としているのだろう。

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