石川裕人追悼イベントTheatreGroup“OCT/PASS”「ラストショー」リーディング公演<2>
「ラストショー」リーディング公演<2>
作:石川裕人 監修:絵永けい 2015/10/11 TheatreGroup“OCT/PASS” 石川裕人追悼イベント
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ニュートンのシナリオなら、おそらく借りて読むことができる。そして実際に何作品かは実際に読んだことがある。遺作となってしまった「戯曲集」もある。それらを読む時、私はおそらく、実際の芝居の数分の一の時間で読んでしまう。
ニュートンのシナリオの言葉は軽い。たまに親父ギャグも入っていたりして、文字で読んでしまうと私なんぞは、白けてしまう部分も多くある。こんな短く単純な言葉群で、いったい、ナニを言おうとしているのだ。シナリオを速読してしまう時は、私はいつも思う。
しかし、実際に芝居小屋に入り、他の観客と膝を突き合わせながら、大道具、小道具、音響、照明、そして役者たちの肉体の乱舞を見る時、その言葉群が、20倍にも30倍にもなって、舞台を、小屋を、駆けまわるのを目撃する。
芝居にとって、言葉とは、何なんだ。あのある意味、ちっぽけな言葉群から、これほどの世界が生まれてくるなんて、私にはにわかには信じられない。ある時、一回だけ、あらかじめシナリオを読んで、それから芝居を観たことがる。
そこに展開されたのは、まったくの別世界だった。たしかに聞いたようなストーリーではあるが、まるで想像もできない世界が展開されていた。
あれ、おかしいな。帰宅してから、もう一度シナリオを見てみた。そしてさらに驚いたのだが、役者たちは、本当に忠実にニュートンが残した言葉たちを語り、演じていたのである。ひとつふたつのアドリブや読み間違えはあったのかもしれないが、ほとんど、まったくそのままのセリフを語っていたのである。
この時から、私は、私は言葉から受けるイメージがなんと貧弱な男なのだろう、と、自らの想像力の弱さに、さらに驚いたものである。言葉を言葉のままに受け取ることで、私の中には、家の骨組のようなものはかすかにできるのだが、屋根の形や、壁の色、まわりの景色、登場人物たちの衣装や振る舞いなどは、まったくイメージできていないのだ。
そのことに気づいたのはごくごく最近のことだが、このことを発見して以来、私は、ニュートンの言葉に一目置くようになったし、また、今まで彼は、作家であり、演出家であったことに、ようやく気付いたのである。
もし作家であるならば、もうすこし丁寧に、私のような想像力の弱い男にも分かりやすい説明があってしかるべきであっただろう。私は小説もあまり読まないが、それでも、小説ならば、もう少し分かったのかも知れない。
しかし、彼は演出家でもあったのである。シナリオに書かれているものは、ほんの一握りの組み立てであり、芝居そのものではない。芝居が出来上がっていくまでに、たくさんのプロセスがあり、そのイメージは限りなく膨らんでいくのだった。
芝居は「読む」ものではなく、観て、同空間にいてこそのアートだったのだ。そのことを気付いた時から、私は、いつかこのプロセスを目撃したいものだ、と思っていた。今回はその良い機会に巡り合ったというべきだ。
ニュートンが書いた言葉があり、それを役者たちが声にする。その時点で、すでに多くの飛躍があるのだ。文字として書かれ、ワープロで印刷された文字は、言葉として音声になった段階で、すでに別ものだ。
そこに強さ、弱さがあり、男、女の区別あり、子供、大人の区別がある。驚き、悲しみ、苦しみ、喜び、さまざまな感情は、役者たちが付けるのである。演出家が演出する時もあるだろうし、役者が持っているキャラクターが加味される時もあるだろう。しかし、その段階で、シナリオは、一人でに踊り出すのだ。
そんな当たり前のことに、この頃、ようやく気が付いた。今回の公演は本来、芝居として、演劇として演じられるべきものであっただろう。少なくともすでに26年前に公演されて、好評を得たものである。
当時のシナリオが残されており、それを、当時の役者や新しいスタッフで、あらたに再演しようというののが今回の試みであった。芝居として完成させるまでの時間をとることが出来なかった、ということもあるだろう。しかし、それはリーディングという形で、舞台の上の役者が全員シナリオを持っての、読み合わせとなった。
ステージの上では、横に並べられた横長椅子に登場人物たち10数人が座り、自分のセリフの番になれば、前にでてセリフを語るというものだった。シナリオをもちながらの読み合わせだから、それは芝居とはいえない。しかし、時にはシナリオを投げ出し、転げ回り、走り回る。
その時、もうすでに、言葉としてのシナリオの世界ではない。すでに、芝居そのものへの一歩手前まできているのだ。ひとつの芝居が出来上がっていくプロセスを分解してみせて貰っているような不思議な気分になる。
そして思ったことは、ここにもしニュートンが演出家として存在していたら、彼なりの「演出」をしたことだろう、だが、今はいない。役者たちは、それぞれに、自らのキャラクターの中に、ニュートンの計らいを込めて、ニュートンの息吹を感じながら、その役を演じているようだった。
私は、今回の「ラストショー」の昔の公演も観てもいなかったし、シナリオを読んでもいなかった。そしてそれは正解だったな、と思った。やはり芝居は小屋で体験的に感じるものなのだ。そこには、そこにしかない、一回性の存在の共有がある。
そして、大変失礼な言い方になるが、ステージの上で演じる人々の「成長」をまざまざと感じることになった。そこにいるのは、だれかどこかの演出家に役付けされている人びとではなかった。ひとつのシナリオにある言葉どおりの中にあるセリフを語りながら、そこに沢山の色をつけ、景色を付けているのは、役者たちそのものであった。
このようなスタッフに愛されたニュートン。この人々とともに生き、成長したニュートン。そして、ひとりひとりが、内なるニュートンを育て、大きな存在を作り上げた。素晴らしいことだったのだな、とあらためて痛感した。
10月11日、今日は、ニュートンこと石川裕人の三回目の命日(四回忌)である。 合掌
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