「大いなる挑戦-黄金の未来」 OSHO <5>
<4>よりつづく
「大いなる挑戦-黄金の未来」 <5>
Osho 1988/01 OEJ 単行本 128p
★★★★★
「ネグリ、日本と向き合う」と出会い、「叛逆」を読み進めるに当たって、Oshoのこの小さな本を読みたくなった。すでに27年を経過しており、そもそもが1987年当時のOshoの立場から緊急に発信された提言であってみれば、この本を手元に置いている人は、もう限りなくすくなっているかもしれない。
しかしながら、たしか最近まで彼のHPには、この文章の全文が掲載されていた(今も?)はずだから、多くの人の目にも止まっただろうし、今も読まれているに違いない。今読み直しても、なかなかの問題作であり、また今日でもまだまだ有効な提案が盛り込まれている。
いやこれからこそが、この本の真価が発揮されるべきステージが用意されているのではないか、とさえ思える。
前半部分などは、まさにネグリの「叛逆」と併読してもなんら違和感がないほどのラジカル振りだ。グローバルな人間社会における数々の問題点を取り上げ、その病原を探り、その解決策を提示する。
もしネグリとの違いを探るとすれば、Oshoは、いわゆる意識や瞑想、精神性、愛、というテーマに常に留意しているに比して、ネグリは、より政治的で、戦闘的である。ただ、Oshoに見られるような、精神性へのバランスを欠いている。
ネグリは、つねにその精神的バックボーンとして、「エチカ」のスピノザにバックするのであり、そこのところを理解し、またうまくバランスを取って読まないと、片手落ちのネグリに振り回されることになる。
すこし落ち着いたら、いずれスピノザに再挑戦しよう。そして、瞑想や意識にかたより過ぎる傾向があるOsho理解に関しては、これらのかなりラジカルなOshoの提言があることを、常に喚起しよう。
コミューンは、非野心的な生と、万人のための機会均等の宣言だ。しかし、私とカール・マルクスとの違いを憶えておきなさい。私は、人々に平等を押しつけることに賛成ではない。なぜなら、それは心理学的に不可能な課題だからだ。そして、いつであれ自然に反して何かをすれば、それは破壊的で有毒なものになる。
等しい人間はふたりといない。
しかし、私はたやすく誤解されうる。だから、私の観点をきわめて明確に理解しようとしてごらん。私は平等に賛成ではない。しかしまた、私は不平等にも賛成ではない! 私はあらゆる人が自分自身であるための平等な機会を持つことに賛成だ。
ほかの言葉で言うなら---
私のヴィジョンでは、ひとりひとりの個人が等しく独自(ユニーク)だ。
平等、不平等の問題は起きてこない。なぜなら同じ個人はふたりといないからだ。個人を比べることはできない。
本当のコミューン、本当の共産主義は、成長のための平等な機会を作り出すが、それぞれの個人の独自性を受け容れる。p81Osho「コミューンの世界」
この小さな本は、そもそも国連の提出したレポート「私たちの共通の未来」(OUR COMMON FUTURE」への応答として書かれている一冊である。ネグリ&ハートが「<帝国>」、「マルチチュード」に続いて書いた「コモンウェルス」のコモン。この辺りが、現在の当ブログのテーマとなっている。
科学は<生>をより快適な、より贅沢な、より美しいものにするためのものとなるだろう。そして瞑想は、世界中で教育の必須な部分となるだろう。そしてその両者の間のバランスが全体的な人間を生み出すことになる。
瞑想なくしては、人は明晰性を、そして自分の内なる根拠を、また素朴で無垢な目を持つことはできない。
私は、私たちの場所が創造的科学の世界アカデミーへとゆっくりと発展して行くことを望んでいる。おそらくこれは、これまでで、最大の統合となるだろう。
宗教的真理の探求は、いかなる意味でも、客観的真実の探求を邪魔しない。なぜなら、このふたつの領域はまったく分離しているからだ。両者は重なっていない。人は科学者であり、かつ瞑想者でありうる。
実際は、瞑想により深く進めば進むほど、人は自分のなかにより多くの明晰性、より多くの知性、より多くの才能が開花するのに気づくことになる。このことはまったく新しい科学を創造するはずだ。
私に言わせるなら、その新しい科学は、ふたつの領域を持つ、ただひとつの科学になるだろう。ひとつの領域は、外なる世界に働きかけ、もうひとつの領域は、内なる世界に働きかける---しかも名前はひとつだけで十分だ。科学(サイエンス)は、美しい言葉だ。それは知ることを意味している。
科学はその方法として観察を用いる。宗教性もまたその方法として観察を用いるが、それを瞑想と呼んでいる。それは自分自身の主体の観察だ。p104 Osho「大いなる統合」
あらためて読み直してみると、あちらにもこちらにも、知恵が隠れており、今回初めて読むような新鮮さを覚える。また、いまだからこそ読み直されなければならない部分も多い。
ネグリを読み進めるに当たって、彼の力量の大きさのなかで、どうかすると、その波におぼれてしまいそうになる時があるが、この小さな本に隠された命綱が、私を溺死から救う。私にとっては、今だに貴重な一冊である。
つづく
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