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2015/11/23

「飛鳥から藤原京へ」古代の都〈1〉木下正史他

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「飛鳥から藤原京へ」古代の都〈1〉
木下 正史, 佐藤 信(編集) 2010/12 吉川弘文館 単行本: 328ページ
No.3615★★★★★

 6世紀松から8世紀初頭にいたる飛鳥・藤原京の時代は、わが国が本格的な古代国家を形成させた時代であった。

 「国家を成立させるためには旧い愚俗は廃棄しなければならない。死者を厚く葬る古墳は捨て去るべき文明以前の旧俗である」。「日本書記」編者は、大化2年(646)3月の「大化薄葬令」の中で、中国の「魏志」武帝紀などの知識を使いながら、「大化の改新」によって社会が新段階に入ったことをこのように語っている。p1木下「はじめに」

 まさにこのような時代に飛鳥から藤原京建設の事業が始まったのだし、時を同じくして、東北における、仙台郡山国府の建設が始まったのだった。

 藤原京時代は中央集権的な律令国家を誕生させた大きな画期であった。701年、行政法と刑罰法を備えた最初の体系的法典大宝律令令が完成する。p20 木下「『日本』の誕生」

 仙台郡山遺跡の国府の第Ⅱ期は、このような時代に建設されたものであろう。

 仏教は538年ないし552年に百済聖明王から公式に伝えられたとされる。蘇我対物部・中臣の「宗教戦争」を経て、6世紀末の蘇我馬子による最初の本格的寺院飛鳥寺の建立、そして推古2年(594)の推古天皇による仏教隆盛詔によって、隆盛へと向かう。初期仏教は、蘇我氏や聖徳太子が主導するものであった。p26木下「仏教の受容と寺院の造営」

 仙台郡山遺跡の第Ⅱ期官衙に付帯した廃寺建設は、まさにこれらの事実からおよそ半世紀~1世紀の後のことであった。

 前方後円墳の築造は6世紀末前後の推古期に各地でいっせいに終焉し、天皇稜は方墳化する。古墳時代の終末を告げる大変革であり、以後の古墳を終末期古墳と呼称している。p33木下「大化薄葬詔と古墳の終焉」

 私たちの土地に見られる雷神山古墳遠見塚古墳などの前方後円墳は、このようにして旧態化していった。まさに縄文、古墳、ホツマ文化は、大陸文化、都城、仏教文化へと変遷していったのである。

 藤原京は、天武10年(681)に編纂を開始し、持統3年(689)に頒布された飛鳥浄御原令に対応する都城であり、まさしく律令制都城の成立を告げるものではあったが、それが真に完成を迎えるのは、大宝令に対応した新しい都城---平城京の造営を待たなければならなかったのである。p159 小澤毅「藤原京の成立」

 となれば、ざっくりと、仙台郡山官衙が機能した時代は、飛鳥から藤原京時代に機能したのであり、多賀城国府は、平城京時代から機能したと考えてもいいのだろう。

 高御座の表現は、文武元年(697)8月17日の文武天皇即位の宣命に「この天津日嗣高御座の業(あまつひつぎのたかみくらのわざ)」とあるのが最初で、「天津日嗣」という語句に続いて「高御座」とある。これ以降の用例においても同様であり、タカミクラは天皇位の象徴とされる。232p今尾文昭「八角墳出現の意義」

 大和朝廷の国家統制へと向かう過程における用語の在り方に留意しておこう。

 「日本書記」に、推古20年(612)に百済から渡来した路子工に「須弥山の形及び呉橋」を南庭に構えさせており、斉明3年(657)には「須弥山の像を飛鳥寺の西に作る」とみえる。

 さらに斉明5年(660)五月条では、「甘樫丘の東の川上に、須弥山を造りて、陸奥(みちのく)と越(こし)との蝦夷(えみし)に饗(あえ)たまふ」とみえ、斉明6年(660)五月条でも「石上池(いそのかみのいけ)の辺(ほとり)に須弥山を作る。高さ廟塔の如し。以て粛慎(あしはせ)四十七人に饗たまふ」とあるように、蝦夷たちに給う饗宴の場がこの石神遺跡であったと考えられる。

 日本律令国家が「小中華帝国」として中央集権的に形成されう段階では、蝦夷・隼人たちの「服属」を可視的に表現することが重要な意味をもったが、彼らへの饗宴の場として、石神遺跡が機能したのであった。p267 佐藤信「石神遺跡」

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 この饗宴の場こそ、「郡山遺跡」 飛鳥時代の陸奥国府跡(長島榮一2009/02 同成社)の表紙にもなっている、仙台郡山遺跡の饗応の儀式が行われたされる石組との相似形なのであろう。

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 日本の古代国家が、唐の大帝国にならって中央集権的な国家体制を形成し、律令制を確立する時代が、7世紀の飛鳥・藤原の時代であったといえる。p272佐藤

 6世紀末から8世紀初頭に至る飛鳥・藤原京の時代は、隋・唐という東アジアのグローバル・セナーを拠点とした盛んな国際交流のなかで、新しい政治・社会制度、思想・信仰、技術、芸術、生活様式などさまざまな制度・文化を受容、咀嚼して、ダイナミックに「質的変換」を測り、伝統的なものと融合させながら日本化させ、日本独自の特色をもった本格的な古代国家や政治都市を形成させ、新文化を醸成させていった時代であった。それは明治時代の文明開化にも匹敵する「古代の文明開化」の時代ということができるだろう。p320木下、佐藤「あとがき」

 明治の文明開化、終戦後、そして現在は、まさに新しいグローバル・スタンダードの荒波に洗われている時代である。そしてまた、この藤原京時代も、あたかも、飛鳥時代から平安京へと移り変わる大きな時代の節目であった、と捉えることは可能であろう。

 木下には他に「藤原京」よみがえる日本最初の都城(2003/01 中央公論新社)がある。

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