「スピノザとわたしたち」 アントニオ・ネグリ <2>
「スピノザとわたしたち」 <2>
アントニオ・ネグリ/信友建志 2011/11 水声社 単行本 217p
★★★★☆
なかなか面白い。ネグリ&ハートを「<帝国>」から始めてしまうと、とてつもない重圧としてのしかかって来て、ヘトヘトになってしまう。
あるいはスピノザを「エチカ」あたりから始めてしまうと、こちらもまたコテンコテンとなって、どうも伸びがない。
ネグリ&ハートの世界を、この「スピノザとわたしたち」から始めてみるのは面白い。「<帝国>」は抜きだ。「スピノザ」、「マルチチュード」、「コモン(ウェルス)」を三位一体、あるいは三宝と対比してみる。
「スピノザ」をブッタム、とする。「マルチチュード」をサンガム、とする。そして「コモン」をダンマム、とする。あるいはそう対比してみると、難解究めるこの近代哲学+現代哲学における革命思想に対する、理解の糸口が見えてくるようにも思える。
「エチカ」を初めとするスピノザを「教祖」、あるいはドグマとし、ネグリ&ハートのようなアジテーターに呼び寄せられた「信徒」たちをマルチチュードと見、そこからオルグナイズされる「コモンウェルネス」を生政治的な共有物と見る。
以上のような理解のしかたに妥当性があるかどうかは定かではないが、当ブログの解釈上、いいアイディアだとは思う。
さて、どれでは、スピノザを「ブッタ」と見るかどうかだが、独自性があり、画期的世界を開いているとすれば、注目すべきひとつのピークと見ていいだろう。その全容はまだ理解できないものの、それは老子とかツラトゥストラとかブッタとか、マハビーラ、モハメッドの全容がよく分かっていないのと同じなので、別段にスピノザだけを、全部理解してから位置付ける、なんて遠まわしなことをする必要もなかろう。
そういう意味では、ネグリもハートもスピノザの弟子筋とみて構わないだろうし、いうところのマルチチュードと見ていいだろう。またこの人々に共鳴を示す流れを具体的なマルチチュードたち、と見ることは可能だろう。
コモンとコミューンの言葉的な類似性からコモンをダンマムに持ってくるのは、ちょっと苦しいが、それでもやはり、自前の憲法などのアナロジーで言えば、コモンウェルネスをダンマムと持ってくることも、決して的外れではない。
以上は、この本を読み進める上での個人的な工夫であり、またネグリ&ハートへの理解の示し方のひとつである。そういう仕掛けをこしらえて、この本を読むとなかなか興味深い。
「スピノザとわたしたち」。文面では「われわれ」ということになっているが、いずれにせよ、ここで語られている「わたしたち」はマルチチュードたちである。「マスター」スピノザを取り囲む「弟子筋」マルチチュードたち。彼らが今、生政治的に「コモンウェルス」を創造している、とそう読み変えてみよう。
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