「よみがえる日本語」 ことばのみなもと「ヲシテ」 青木純雄他<3>
「よみがえる日本語」 ことばのみなもと「ヲシテ」<3>
青木純雄・平岡憲人・著 池田満・監修 2009/05 明治書院 単行本 366p
★★☆☆☆
どうして今頃になって、この本をまた開いたのだろう、と疑問になった。ひとつ言えることは、付箋が張ってある頁をチェックした上でいえば、私は前回まで、この本を完読していなかったばかりか、目を通したのは前半3分の1だけだった、ということだ。
この本は私の興味の範囲を逸脱するばかりではなく、その内容が私の手にはあまる内容なのである。そしてまた、それらは、いまひとつ私の心を開いてくれない。知的好奇心を今一つ刺激してくれないのである。
だったら、読まなければいいじゃない。別に誰も頼んでいるわけでもないし。内なる声がする。そうなんだよなぁ。だから、前回までは3分の1しか読んでいなかったのだろう。他に読むべき本はたくさんあるよ。
いや、ちょっと待て。敢えていうなら、私はこの分野においては滅茶苦茶に関心があるのだ。ここを通らなければ、もう世界は開けない、と思いこむほど、真正面からぶつかってみたいのだ。
だが・・・・。どうも違う、と、感じる。それは、方向性、解釈の仕方、関わる人物たち。むしろ、反論し、反駁し、乗り越えて行きたい。そんな気さえするのだ。そして、その力量は当然というべきか、残念ながら、というべきか、私にはない(がっくり)。そこんとこの落差が、これらの世界に接触した時の、私の本当の心情だ。
今回も、あまり距離を詰めるのはやめておこう。返り血を浴びるだけだ。他に道を探そう。そう思い直す。残されたのは、飯沼勇義史観と、千葉富三ホツマを読みなおすことだ。ホツマ先駆意識者たち、あるいはホツマ原理主義者たちからみれば、おそらく、千葉富三ホツマなど、ホツマとすら認めないかもしれない(あるいは私も、やや疑問を持っている)。
そして飯沼勇義史観なんぞは、多くの歴史学者や科学者たちからは、歯牙にもかけられない存在なのかもしれない。おそらくそうなのだ。そうであるに違いない。でなければ、それに付随する評論なり傍証なり、追従者なりがいるはずなのである。そこんとこを、私は見つけられないでいる。
なにはともあれ、今回は、この本をもう一度最初から最後までめくったので、今後、そうそう後ろめたい気分になることも少ないだろう。これらの研究は、それなりに面白い。面白いが、どうもガラパゴスである。縦横とのつながりが悪い。
当ブログは、もうすこし多面的に、他の流れとアクセスを探りながら、自分なりの世界観を探っていこうと思う。もちろん、その中には、ホツマもオシテも入っている。入っていながら、局所に執着することなく、もう少しおおらかに、すなおに、読書散歩をしていこう。
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