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2015/11/14

「ネグリ、日本と向き合う」アントニオ・ネグリ他<23>

<22>からつづく
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「ネグリ、日本と向き合う」
<23>
アントニオ・ネグリ(著), 市田 良彦(著), 伊藤 守(著), 上野 千鶴子(著), 大澤 真幸(著),  その他 2014/03新書 NHK出版 新書 240ページ 目次

 現在の当ブログは、この「ネグリ、日本と向き合う」を主軸として回転している。多くのテーマをはらむネグリ&ハートの世界観なれど、当ブログは、ここを批判的に読みこなして、通り過ぎることを目指している。

 なぜに批判的に読むかといえば、直感的には自分の道ではないにも関わらず、この10年に渡り、そこから漂ってくる香りに魅せら続けているからである。これは、ネグリやハートの欠陥ではなく、私自身にある矛盾であり、迷いである。

 ここを批判的に読むということは、自己批判であり、「Bhavesh、自己と向き合う」というテーマに読み変えてもいいのである。「大好きな」ネグリ&ハート。だけど、私は私の道を行く。

 さて、日本と向き合ったネグリを、より身近に手繰り寄せようと、 写真集「Mighty Silence」半田也寸志の、「ここに、建築は、可能か?みんなの家」の伊東豊雄、そしてアニメ「風たちぬ」の宮崎駿をキーパーソンと見立てて、読書追っかけをしてみたところである。

 半田の写真集も見つめ、被災地を訪れ、伊東のつくった建築を実際に尋ね、宮崎の映画も数本見た。そして、当然、官邸前や国会前、そして沖縄や、各地で行なわれているデモについても、情報を集めている。

 その中で、今日も宮崎駿についての解説本をいくつか見ていた。岡田斗司夫「『風立ちぬ』を語る」(2013/11光文社)、村瀬学「宮崎駿再考」(2015/07平凡社)まで来て、どうも、まどろっこしくなって、当ブログにメモすることを放棄したくなった。

 各論としての宮崎駿論に行くのは、ここでの進行上、避けて通れないほどのものであるか。そもそも宮崎駿については、特段に関心を持たない当ブログとしては、ここは早目に通りすぎたほうがいいのではないか。

 半田の写真集の関心は「津波」にある。地震も原発も、その視野には入っているが、映像としての3・11に関心があるのだ。原発そのものを問う姿勢などは感じられない。仮にあったとしても、その立場上、かなり薄められたかたちの表現とならざるを得ない。

 伊東の「みんなの家」も、地震で家を失った人たちよりも、海岸線の津波で家を失った人々との共同作業に集約されていった。今のところ、伊東が直接に原発に触れて、その姿勢を明確にした部分はまだ発見していない。

 それに比すれば、宮崎は、明らかに「反原発」の旗印を明確にしている。一アニメ作家の、作家としての発言にすぎないことに留意しつつも、半田、伊東を乗り越えて、原発に触れているところが特筆できる。

 さて、ネグリ&ハートは、おそらく地震よりは津波に関心を持っているだろうし、当然のことながら、津波より原発に関心を持っている。そして、その原発が核兵器と繋がっており、日本というネイションが「原子力国家」としての規範を持っているということを鋭く指摘する。

 当ブログが、ここしばらくネグリと付き合うなら、やはり、ここは原発から原子力国家というものの実態を見定める作業にはいるべきであろう。もちろん、それはすでに当ブログで通り過ぎてきたプロセスではあるが、あらたなるネグリ&ハートの視点を借りて、よりターゲットを絞っていくべきであろう。

 3・11に鋭い関心を示すネグリだが、2011年という年の特性は、「アラブの春」や「オキュパイ運動」に見られた、脱中心的な世界各地のマルチチュードたちの活動であった。日本に向けては3・11や原発を取り上げているが、決してネグリの中心話題ではない。

 日本というネーションにおける原発問題は、日本というネーションのマルチチュードたちに任せられているのであり、そこに何かの指令のようなものを出すものではない。そこに一人一人が感じる何かを、直接表現していくことを、彼は望んでいるだろう。

 この「ネグリ、日本に向き合う」においても触れられているが、「叛逆」の4つの搾取は、なかなか分かりやすい喩えなので、今後、それを含んだ形で、もうすこし追っかけてみようと思う。ということで、宮崎駿の作品論からは早々に足を引き上げる予定である。

 そしてまた、当ブログは現在「ねぇ、ムーミン」というカテゴリ名で走っているのであった。そもそも、いつかキチンとムーミン追っかけをしたい、という宿題を始めたところであるが、ここになんとかネグリを引っかけたい、という目論見がある。

 ムーミン谷というコモングランドにおける、ムーミンや、スナフキンたちを、マルチチュードと見立てて巨視的に俯瞰した場合、はてさて、そこには、どんな世界が展開されているのか。そして、自分は、どこにいるのか。

 そんな目論見で始まった現在のカテゴリももうすでに3分の1経過した。最後まで、まとまりのある形で収束できるかどうかは、今のところ分からない。ボタニカルの残照もある。結局は、日々、自分はどう生きるのか、そのことを探っているのである。

<24>につづく

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