「叛逆」―マルチチュードの民主主義宣言 アントニオ・ネグリ他<3>
「叛逆」―マルチチュードの民主主義宣言<3>
アントニオ・ネグリ , マイケル・ハート (著), 水嶋 一憲 , 清水 知子 (翻訳) 2013/03 NHK出版 単行本 216ページ
★★★★★
「ネグリ、日本と向き合う」を読み、半田也寸志の写真を見、伊東豊雄の「みんなの家」を訪れ、宮崎駿の映画「風立ちぬ」 を見、そして反原発運動や、国会前「反戦争法」デモに想いを馳せながら、Oshoの「大いなる挑戦-黄金の未来」をまたまた通読することになった。
そして、ネグリ&ハートのこの「叛逆」にもどってみれば、以前よりもはるかに読みやすい一冊であったということが自然と分かってきた。彼らの言葉使い、彼らが見ている世界、彼らが生きてきた世界、それらのことも少しづつ分かってきた。
しかしながら、それを誰が読むかと言えば、私が読むのであり、どう読むのかと言えば、自らの立場でよむのである。では私は誰かと言えば、まず、この文脈では、Oshoのサニヤシンとしての私が読むのであり、3・11の東北日本に住まう私が、今後どう生きていくのかを問いながら、読むのである。
急いでメモしてしまうと、拙速をまぬがれないので、いずれひとつひとつ突き合わせて見たいと思うが、ネグリ&ハートとOshoの間には、少なくとも、これらふたつの書物の間には、いくつかの共通土台を見つけることができる。そして、それをどちら側からどう作り、どう提案しているかを考えると、なかなか興味深いことが山ほどある。
例えば、Oshoは国連を進化させた「世界政府」を作るべきだと主張する。そこに各国の軍隊を明け渡すことによって、戦争をなくせ、という。各国の政治家や大臣は、そのジャンルの教育をキチンと受けた人物がなるべきであり、選挙権ですら、一定の教育を受けた人々が投票すべきである、とする。
それに比すれば、ネグリ&ハートは、戦争をなくすべく生まれた国連はいまやその力を失い、その夢を託すことは無理だとする。そして、マルチチュードは政治家たちに代弁などしてもらわずに、自ら街頭にでて意思表示すべきだとする。そして、立法、司法、行政、の三権を、自らの「コモン」として奪還すべきだとする。
これら二つの大雑把な括りは、いずれも余りにも夢想的過ぎる思想であろう。今日明日に達成できるような代物ではない。いくらアイディアに富んでいても、そこまで到達するには、いくつものプロセスを経ねばならない。
しかし、両者に共通するのは、現状に対する強力な拒否だ。現状に甘んじるわけにはいかないというレジスタンスである。いみじくもこの本のタイトルは「叛逆」であり、Oshoの著書にも「叛逆のスピリット」がある。
そして面白いことに、Oshoは叛逆こそがスピリットであり、叛逆しないスピリットなどはありえない、とさえ断言する。
前作「コモンウェルス」でネグリとハートは「闘士(ミリタント)」としての「知識人の任務」について端的にこう述べていたのだった。
「知識人は闘士であり、闘士でしかありえない--つまり知識人は、マルチチュードの創出を目指す共同調査のプロジェクトに着手し(中略)そのプロジェクトに積極的に参加する闘士でしかありえないのだ。(中略)他者たちと共に共同調査のプロセスを推し進め、新たな真理を生み出すことも、知識人の任務なのである」(「コモンウェルス(上)」、194~195頁」と。p205「解説 これはマニフェストではない--宣言から構成へ」水嶋一憲
この本においては、「借金を負わされた者」、「メディアに繋ぎとめられた者」、「セキュリティに縛りつけられた者」、代表された者」という四つの病弊した主体形象が描かれている。興味深い考察なので、いずれ、その尺度をわが身に当てはめて考えてみることにしよう。
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