アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 『コモンウェルス』 <帝国>を超える革命論<4>
「コモンウェルス(上)」 「(下)」<帝国>を超える革命論<4>
アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート 2012/12 NHK出版 全集・双書 348p 338p
★★★☆☆
「<帝国>」、「マルチチュード」につづく、三部作の完結編という位置付けである、ということに、ようやく気付いて、今回まためくりなおしてみたのではあるが、分かりにくさ、とっかかりのむずかしさという点においては、前回と同じであり、また前著2書に連なるほどの、めんどくささである。
それはなぜなのかをいろいろ考えたが、結局はネグリ&ハートがそもそもが、マルクス&レーニンを超える新しい「共産主義」を作ろうとしているが、そのビジョンがまだまだ完成していないのと、そもそも、そのような「実体」が自覚的に登場していない、ということに尽きるだろう。
さらには、読者として、登場してくる過去の歴史的運動の経緯のひとつひとつにほぼ認識がないのと、登場人物たちも、ある種の歴史観に支えられている人々だけであり、例えば、日本や東洋における事件や人物がほとんど登場しないことも、大きく作用している。
だからこそ、当ブログにおいて、ネグリ&ハートの読書としては、「ネグリ、日本と向き合う」が必要だったし、「叛逆」において2011に世界各地で起きたマルチチュードたちの「蜂起」がでてきて、ようやく、空間、時間に共感を持てるようになったのだ。
だから経緯を見ると、この「コモンウェルス」は邦訳出版はは2012年12月だが、原著出版は2009年であり、テーマとなる事実が3・11以前となり、どうしても共感を持つ部分が少なかったと言える。
当ブログは現在「ネグリ、日本と向き合う」を精読中だが、これともう一冊「叛逆」を今後精読することによって、よりネグリ&ハートの世界を身近に引き寄せることができることになるはずである。つまり、ネグリ&ハートの主要三部作の再読、精読は、もうすこし未来の作業ということになろう。(あるいは棚上げかも)
ちょっと考えたのだが、そう言えば、私の手元にある「<帝国>」、「マルチチュード」は、2012年10月になくなった竹馬の友・石川裕人の「蔵書市」で買い求めたものである。おおよそ100冊買い求めたのだが、そのリストの中には柄谷行人「世界共和国へ」資本=ネーション=国家を超えて2006/04 岩波書店、も入っている。
私は柄谷の本でネグリ&ハートを知ったわけだが、石川裕人もまた、同じような経緯でこの世界を知ろうとしていたのかもなぁ、と想像してみる。その石川が急逝したのが、年表でみると 2012年10月11日。2012/12/25 に「コモンウェルス」上下邦訳が刊行されたとして、おそらく英文を読まなかった石川は、ネグリ&ハートの三部作全体を知らないで、旅だったということになろう。
彼の演劇にどのように影響していたかは知らないが、残された私としては、旧友の視点を、これからも維持しながら、これらの「革命論」と付き合っていくつもりだ。ということで、当ブログとしては「ネグリ、日本と向き合う」と「叛逆」をさらに読みこむことにする。
ネグリチュード(黒人性。二グロであることに誇りをもち、黒人意識を新たなる普遍性へおとつなげていこうとする概念と運動の総体を指す)上p173 「別の近代性」
私はかつて当ブログにおいて、ネグリのいうところのマルチチュードという意味で「ネグリ」チュードなる言葉を一人合点で作り出していたが、ネグリ本人の本のなかに、このように書いてある限り、おそらくスペルは違うだろうが、日本語においても混乱するので、勝手な造語は今後使わないこととする。
また、断片的ではあるが、このような表現もあったので、メモしておく。
コンピューター時代を迎えた今日、資本は起業家的機能を取り戻しているし、マイクロソフト会長のビル・ゲイツやアップル・コンピューターのスティーヴ・ジョブズといった人物によって、ふたたび活気を帯びていると主張する声もあちこちから聞こえてくる。
たしかにこれらの人物は、メディア向けの役割を果たしてはいるが、彼らはシュンベーダーのいう意味での起業家ではない。ただのセールスマンであり、投機家だ。企業の顔として最高バージョンのiPodやウィンドウズを売り、資本の一部を自社の成功のために投資はするが、革新の中枢を担っているわけではない。
アップルやマイクロソフトのような企業は、自社やその従業員の境界をはるかに超えた、コンピューターとインターネットを基礎とする生産者の巨大なネットワークから生じる革新のエネルギーを糧にして存続している。
シュンベーターは、経済的革新の源泉としての資本主義的な起業家の衰退を予見した点では正しかったが、その代わりにヒドラのように多数の頭をもつマルチチュードが、生政治的な起業家として現れ出てくることは予測できなかったのである。下p153「断層線沿いの余震」
もともとは2009年の原著にでてきた表現であり、それをまとめるには数年の前駆期間があっただろうから、インターネットやジョブズに対する表現はこの程度であっても止むをえないのか。それにしても、この世界の変貌は早い。
今後ネグリ&ハートを読む時は、これらの時間的ギャップを十分に考慮にいれながら読み込みを続けなければならないと思う。すくなくとも、このような形で、自分がすでにしっかりとした見地を持っている場合は、難解な一冊にぶつかる時に当たっても、むしろ好条件のアクセスポイントになってくれることが多い。
私は今回この本を読んでいて、前回も書いたが、他のトリニティとの比較のなかで、どうしても三角形と逆三角形を重ねた六芒星を連想せずにいられなかった。そしてそれは三角錐と逆三角錐を重ねた立体図形にもなっていった。
この図形はかつてドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでいた時に連想したものであり、このような形でネグリ&ハートを読みなおしてみるのも楽しい。それだけの力が、私にあればのことだが・・・・。
つづく・・・かも
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