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2015/11/22

「藤原京」よみがえる日本最初の都城 木下正史

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「藤原京」よみがえる日本最初の都城
木下 正史(著) 2003/01 中央公論新社 新書: 305ページ
No.3614★★★★☆

 およそ1300年前、都は飛鳥から藤原の地へと遷る。持統天皇が「春過ぎて夏きたるらし」と詠った都は、710年の平城京遷都まで16年という短命の故か、あまり語られることがなかった。

 元号が始まり、和同開珎が鋳造された古代史上最大の転換期に、最初の本格的都城はどのように計画され、廃都にいたったか。「日本書記」などの文字資料だけでは窺い知れない都の相貌が20余にわたる発掘によってよみがえる。表紙見返し

 当ブログが藤原京に関心を持ったのは、郡山遺跡のⅡ期官衙(かんが)が藤原京の2分の1のスケールで作られている、という事を聞いてからである。ええ? それって一体なに? と耳がダンボになった。

 藤原京やその時代を知る資料としては、「日本書記」「続日本書記」「万葉集」などの文献資料がある。だが、これらは奈良時代の編纂史料であり、その記事内容がそのまま歴史的事実を物語るものではなく、史料内容の批判的な研究を通して使用することが必要である。しかしもこれら文字史料が、藤原宮や京について語るところはきわめて限られている。p8「藤原京の誕生とその時代」

 郡山遺跡については、限りなく資料文献が少なく、遠く離れた北日本のことであるし、50年に満たない期間しか存在しなかった官衙であるので、「差別」的に史料が残されなかったのではないか、と勘繰っていた。しかし、こと藤原京においてさえ、このような状況なのである。今後の研究、発見に期待したい。

 藤原京・宮はどのように計画され、建設されていったのか? 「日本書記」に記された天武天皇時代の都づくり計画に遡って検討する必要がある。p33「天武天皇による都城建設の構想」

 この本は、具体的に発掘調査の結果を踏まえて細部にわたって検討されている、実に真面目な一冊である。

 「日本書記」は藤原京のことを「新益京」と呼んでいる。これを「あらましのみやこ」と読んで、飛鳥の「もとの京」に対して「新しく益した京」の意と解されている。p46

 計画から建造の期間もあっただろうが、京として機能したのは694年~710年の間ということになるのだろうか。とするなら、この構造ときわめて似た構造を持つ郡山官衙は、いつどのような繋がりで、そのような建築物となったのであろうか。

 発掘によて、日高山から北方の朱雀門・朝堂院・大極殿院にかけての地域では、埴輪や古墳副葬品などを含む盛土で整地した様子が明らかにされている。p66「遺跡が語る藤原京の造営」

 よりによって、藤原京は日高山の真北に造営されている。この日高山とは、当時からの呼び名なのだろうか。そして、この山の名前は一体どこからきたのだろう。東北の日高見(ヒタカミ)と、なんらかの繋がりはあるのだろうか?

 市街地には、貴族、官人、民衆が住み、官立寺院である大官大寺や薬師寺、貴族層の私寺、公設市場などが重要な構成要素として備えられた。p156「本格的京城の誕生」

 そして、この時代における薬師如来の崇拝はどのようなものだったのだろうか。

 藤原の京はその規模、構造、内容の上で飛鳥の京をはるかに超えて、古代都城制発達史上に飛躍を画したものであった。だが、それは飛鳥で生まれた伝統を引き継ぐなど平城宮・京に比べれば未成熟なものであったし、理想の宮都としてはさまざまな矛盾を抱えるものであった。p284「藤原京廃都」

 それにしても16年とは実に短い。21世紀もまもなく2016年となる。

 柱・瓦・礎石など再利用できる建築資材は、平城宮や京へと運び、さまざまな用向きに再利用されたらしい。藤原京が火災によって焼失したとは考えにくい。こうして貴族や官人等も平城新都へと移り住み、藤原の都は年の体裁を急速に失い、廃都と化していく。p285同上

 これら奈良を中心とした中央政権の変遷のおり、東北の地において、一体、郡山遺跡や多賀城にみる状況は、一体どのような関連を持っていたのだろうか。

 藤原宮跡を訪れてみよう。大宮殿(大宮堂)と呼ばれている大極殿跡の土壇を除けば、宮跡は条里制による耕地整理によってかき消されていて、地表からその跡をたどることは難しい。

 だが注意してみれば、そこここの小さな用水路やわずかな地形の起伏に、あるいは地名に、その跡をわずかながらどどめていることを知る。藤原の都の実像は、廃都後から今日に至るこの地の歴史の営みをだどることによって、よりいっそう豊かに復原できるのである。p295 同上

 藤原京においてこの通りである、郡山遺跡の発掘調査はまだまだであり、ましてや都市化の波のなかでの調査なので、さまざまな苦難が立ちはだかっている。郡山遺跡については、吸収の大宰府との関係からも推測できるはずである。

 著者には他に「飛鳥から藤原京へ」(共著、2010/12 吉川弘文館)などがある。

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