「スピノザとわたしたち」 アントニオ・ネグリ <3>
「スピノザとわたしたち」 <3>
アントニオ・ネグリ/信友建志 2011/11 水声社 単行本 217p
★★★★☆
この本は分かりやすかった。最初この本に出会った時、私は、本屋の椅子に座って、立ち読みで終りにしようとさえした。それは、難解だから読むのが面倒、というより、この本ならなんとか読めそうだな、という直観だった。
この本なら、すぐ図書館に入るだろうと、最近まで待っていたのだが、いつになっても入ってこない。最寄りの図書館ばかりか、手の届く県内の図書館すべてが蔵書していない。しかたなくリクエストしたら、司書さんが、隣の県の県立図書館から借りてくれたのである。
この本が読みやすいのは、いくつかの理由がある。そもそもが講演の話し言葉が基本になっていて、ですます調で書かれていること(笑) ネグリがイタリア語で話したものがフランス語で出版され、その年代が2010年と、割と新しいこと。
そして、一番はネグリがスピノザに触れたところを中心的にまとめられているところであろう。ネグリにとって、スピノザがキモであるかぎり、こうしてまとめてネグリ的「スピノザ」理解を把握しておくことは極めて重要だ。
そして、この本は薄い(爆笑) 余計な歴史的事件や年代などが描かれていない。固有名詞も少ない。敢えていえば、哲学者や思想家の名前はでてくるが、初出のものは少なく、これまで、少なくとも名前にだけは触れている人物がほとんどで、いずれ読もうと思っていた哲学者や思想家がほとんどである。
用語も、理解していないものが半分以上もあるが、であったとしても、拒絶反応を示すような食しがたいものではなく、食わず嫌いをなおそうかな、と思える程度の用語だけが使われている。これなら、なんとなく、読み進めそうだ、と思ってしまう。
この本、転記したいところが、いろいろある。面白いよ。あれとこれと、こちらとアチラを比較すれば、こういうことになるよね、なんてことが、いろいろでてくる。だが、いずれ、この本を精読するタイミングがくるだろう。その時のためにとっておこう。
私は哲学の徒でもなければ、ネグリの弟子でも配下でもない。むしろ、ネグリを批判的に読みこもうとしている、非力な一読書子でしかない。そんな私がネグリにひっかかり続けていることに、私自身、不思議に思っているのだが、事実がそうなのだから仕方ない。
私はOshoの弟子であり、配下である(爆) 明らかにネグリやスピノザとは矛盾する世界観を受け容れている人物である。しかるに、Oshoの本を読み続けることも、ある意味飽きが来る。同じことを読まされるし、ある地点から量子的飛躍をとげてしまう人物に、毎回振り回されるのも、おいおい、いい加減にしてよ、と、なる時もあるわけである。
そんな時、ネグリを突破口にして、「哲学」の世界に遊ぶのは面白い。まったく白黒決着のついた世界観同士なれど、その対比が面白い。図地反転して、別々の世界観なれど、なぜか、ピタッと、一枚の絵に収まるような、不思議な世界観である。ソリッドな境界線を、見事に共有している。これって、別世界とか、矛盾とは言わないのではないか。
あるいは、無限の空間を測るにおいて、絶対に精確に計測できないこと承知で、近似値を生み出そうとする「努力」。神秘を理性で分かろうとする「努力」。翻ってみれば、「無限」などとひとくちに片づけてしまわないで、「無限」とは、いかに無限なのかを、証明しようとする無謀さ。
端的に言えば、私の世界においてはOshoVSネグリは、そのような構造になりつつある。Oshoと言いきってしまってはならない。ブッタやマハビーラ、老子やツラトウストラ、その他、Oshoがわが身に引き寄せて語る存在の一連の流れに対する、ネグリがスピノザに言寄せて証明しようとする世界観。この拮抗感が、ビビッドで、何事かの、感動を覚える。
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