「スピノザとわたしたち」 アントニオ・ネグリ <4>
「スピノザとわたしたち」 <3>
アントニオ・ネグリ/信友建志 2011/11 水声社 単行本 217p
★★★★☆
あっと言う間に二週間が過ぎた。ネグリのなかでは読みやすい本ではあるが、そうそう簡単に速読という訳にはいかない。本当は延長したいところだが、司書さんが隣の県から借りだしてくれた一冊である。きょう、返却しなければいけない。
今後私がネグリ&ハートを読む進めるとしたら、三冊を並べて読み進めるといいかもしれない。
1)「スピノザとわたしたち」
2)「叛逆」
3)「ネグリ、日本と向き合う」
私の範疇によれば、「スピノザ」は、ネグリのマルチチュード革命のドグマティストであり、原理原則である。そして、アジテーターとしてネグリが登場し、「叛逆」を称揚する。それに呼応して各地で「ネグリ、日本と向き合う」のようなオルグナイザー達が登場する。
ネグリ&ハートのマルチチュード革命は面白い。ある種の理想である。これが現実となり、未来永劫に渡って、平和な理想郷ができればいいと思う。しかしながら、それは理想なのであって、現実性がない、という意味では、トリウム原発炉と、どっこいどっこいなのではないか。
夢を語り合うことは良いことだ。理想を求めるのも良いことだ。真理を求め、善きことを行ない、美しく生きようとするのは、すべからく人間の生きる道である。そうありたい、そう願いたい、そう祈る。それはそれで素晴らしいことだし、その事に瑕疵はない。
しかるに、存在は、生きる人間にある限定を突きつけてくる。少なくとも、空間的なこと、そして、時間的なこと。与えられた空間と時間のなかで、ひとりひとりの人間はどう生きるのか。ネグリが、ハートが、自ら与えられたそれらの条件のなかで、ひとつのスピノザ論を提出し、マルチチュードの戦術を編み出し、世界各地の勃興に夢見ることに、ひとつの必然性はある。
さて、そこからどれほどの波及力があるかは、存在のみ知ることである。一時、鬱になっていたというネグリを、呼び覚まし、支えたドゥルーズの死が、ネグリをして、鬱勃たる魂として燃えさせているのは、それはそれで、良いことだ。美しいし、一つの真理を突きつける。
はてさて、それを一読書子として受け止める、こちらんはこちらの空間と時間がある。その「限界」のなかで、どのように呼応するのかは、こちらのリアリティが決めることであろう。与えられた空間条件、残された時間的条件のなかで、物事はどのように進行するであろうか。
自らの意志で呼び寄せることができるものと、決して一生命体として踏み入れることができない神秘な世界は確かにある。人間界のことは人間たちが、自ら考え、自ら行ない、自ら作り続ける必要がある。だが、それが全てではない。
ネグリ、面白い。この三冊に加えて、「芸術とマルチチュード」(2007/05 月曜社)あたりを参考にしながら、またネグリ&ハートの、マルチチュード・ワールドを散歩するチャンスを与えられることを、願う。
いずれ、再開
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