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2015/12/03

「三内丸山遺跡」 復元された縄文大集落 (日本の遺跡) 岡田康博

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「三内丸山遺跡」 復元された縄文大集落 (日本の遺跡)
岡田 康博(著)単行本– 2014/03 同成社 単行本: 170ページ
No.3619

 2014年発行の本だけに、少なくとも三内丸山遺跡に関しての、最新の信頼できるデータと言っていいだろう。今回、SNS繋がりで、「NHKスペシャル【アジア巨大遺跡第4集 縄文 奇跡の大集落】」 (2015/11/08)という番組が放送されたことを知った。見逃したその番組をこうしてネットで見ることができる時代に私は感謝する。再生(いつまで視聴できるか不明だが。約50分、長時間注意)

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 3・11直後、被災地に向かう際、実はこの三内丸山遺跡の近くを通った。すぐ近くまできたのだから立ち寄ることもできたのだが、次の機会にしようとしたのが、間違いだったのかも知れない。あれからアッと言う間に4年半が経過し、再訪のチャンスが来ないままである。

 最近また三内丸山に心惹かれていたのは、あの飯沼勇義史観のなかに占める三内丸山遺跡の位置である。度肝を抜かれることの多い飯沼史観だが、彼はそのヒタカミ文明の初代をこの三内丸山遺跡に求めているのである。

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 すぐには鵜呑みにできない言説の連続ではあるが、その独自の手法から、3・11の津波を10数年前からほぼ精確に予告し警告していた飯沼氏の指摘については、当ブログとしては、一目もニ目もおいて、まずは教えを乞わなければならない。

 さて、興味津津の三内丸山の遺跡であるが、ズバリ興味の中心と言えば、縄文を象徴する土偶と、この遺跡を全国的に、世界的に有名にした巨大建造物であろう。この本は、全体的に抑え気味に、静かに語られている本で、実に誠実な印象がある。

 土偶が何のために作られ、使われたのか、その用途や機能については多くの説がある。玩具(おもちゃ)説、護符(お守り)説、装飾品説、呪物説、神像説などさまざまである。一時は壊れた状態で見つかる土偶があまりにも多いことから、病気やけがの部分と同じ箇所を壊すことによって、苦痛を取り除く身代わり説も有力であった。

 遺跡での出土状況を見ると、まつりや祭祀に関係したものである可能性は高く、漆や赤色顔料を塗ったものがあることから、日常の生活用品、実用品ではなく、特別な場合に使われるものであることは明らかであろう。

 三内丸山遺跡では盛土から、装身具、小型土器などとともに見つかる場合が大半であり、ムラ全体で行なわれる、共同のまつりや儀式に使われるもので、個人的なものとは考えにくい。

 写実的なもの以外に抽象的な表現のものも多数あるが、すべてが女性を表したものである。なにかは妊娠した状態を示す、お腹の膨れたものもある。それらを見ると子孫の繁栄、豊穣などを祈念する際に使われたとする説は魅力的である。

 広く母性を象徴するもので、地母神信仰と関係する、もしくはグランドマザーを具象化したものなのかもしれない。

 役目を終えた土偶は細かく壊され、盛土に埋められた。数千年後、ふたたび掘り出された土偶は、当時の姿や形を復元することはできても、その使い方や機能、目的まで再現するこおとは非常に困難である。p63「土偶」

 実は二年ほど前に、この縄文土偶の質感とはどれほどのものか、粘土ではないが、木で作ってみようとしたことがある。制作途中でまだまだ手付かずだが、作り始めて直感したのは、大きさ的には丁度、新生児と同じくらいだな、ということだった。(モデルは宮城県大崎市出土、国立博物館所蔵の土偶)

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 丁度その頃、三人目の孫が生まれ、病院で、生まれた直後の顔を見た時に、縄文土偶の目を連想した。

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 こちらは25年ほど前に「奥松島縄文村歴史資料館」の売店で求めた土産物。25センチほどで、正確なものではないが、遮光器土偶と言われるその目はどこか似ていないだろうか。

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 土偶にもいろいろあり、このような立像ばかりではなく、板状のものも多数あるということだが、その性質は女性を形取ったものとされる。その根拠はまだ定かではないが、ほぼ断定的に語られている。

 さて、飯沼史観において、この土偶は、アラハバキ神と見られていて、アラハバキは、男神のアラと、女神のハバキが合体したものだとされている。その証拠とまではいかないが、宮城県大崎市のアラハバキのご神体は、一対の像になっていた。

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 ところが、宮城県多賀城アラハバキには、詳細は不明なれど、男根(リンガ)像の寄進も複数みられる。

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 また、宮城県角田市鎮座の熱日高彦神社境内においては、陰陽混交神とも思われる拝殿もあった(最近参拝した時は、見つけることができなかった)。

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 三内丸山遺跡は、厚く積み上げられた年代層があり、この本はとくに縄文時代に特化して書かれているということだが、それでも、縄文時代とは言え、一万年に及ぶ長い期間である。その年代の経過においても、さまざまな歴史があったことだろう。

 さて、土偶ともうひとつの関心ごと、巨大建造物についてはどうだろう。

 各地の縄文遺跡から掘立柱建物跡の検出例が多くみられるようになり、縄文時代にも一般的な構造物として理解されるようになるとともに、多様な目的や用途を持っていたと考えられ、太い木柱だけに注目し特別な意味づけを与えることは慎重にならなければならない。

 関連して冬至の際に太陽が六本柱の延長線上、ちょうど本柱の間に沈むことが指摘されているが正確に言うと、大型掘立柱建物と太陽とが交差し、本柱の間に見る(通過する)ことができるのであり沈むのではない。夏至の際には主軸の延長線上より南側から太陽が昇る(図62)。

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 したがって、現在のところ、二至二分など太陽との関係を積極的に見出すことはできない。そもそも地軸が傾いており、縄文時代と現代では太陽の日の出、日の入りの地点が同じではないことについても注意する必要がある。また、西側には津軽地方で最も高い岩木山があり、それとの関係も考える必要がある。

 現在のところ三内丸山遺跡では大型掘立柱建物が20棟近く見つかっており、すべて同じ軸方向ではない。もちろん同時に建っていたのではなく、おそらくは一時期一棟程度と考えられる。このことはそれぞれが他の施設と関連してその位置や方向性が決められていたことを示している。p94「大型記念物」

 仙台郡山遺跡についても、その西に存在する太白山や神室岳(かむろだけ)の位置関係が云々されるが、状況はそれであったとしても、明確な証左とはなっていない。早とちりは禁物だし、ましてや、千年単位と、万年単位の遺跡間における整合性を、一気に関連付けることは無理である。

 しかしながら、多賀城アラハバキの参道は西から東へつづき、大崎岩出山アラハバキの参道が東から西へと延びて、角田熱日高彦神社の参道はかつて西から東に延びていた(今は痕跡のみ)ということを考える時、縄文時代にとって、この日の道が大きな意味を持っていたことは間違いない。

 ましてや飯沼史観におけるヒタカミ文明が、日を高く見る、という象徴性を持っている以上、この三内丸山にも、そのようなはっきりした痕跡を見てみたいものである。初代ヒタカミ、ここにあり、と宣言できる何かが見つかるのか。おっとり刀の探検はつづく。

つづく

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