弔辞 Beloved マ・プレム・マンシャ
明子さん、急なことでただただ驚いています。今でも信じられません。でも、一番驚いているのは、明子さん、ご本人かもしれませんね。
先日、仕事の書類をお届けにご自宅をお尋ねした時、ご主人からあなたが入院されていることをお聞きしました。先月末までは大変忙しく働いていらっしゃったのに、急に体調を崩されたそうですね。今月になって診察を受けたところ入院を勧められ、いくつかの検査も受けられたとのことでした。
シロートの私たちには、病状の内容はよくわかりませんでしたが、早く回復されて、お元気になりますように、とみんなで祈っているところでした。
仙台の友人たちがあなたとお会いしたのは、ちょうど平成の時代がスタートした頃でした。もうすでに二十数年が経過しています。ご主人の好郎さんと私は、彼が十代の頃からのお付き合いですから、もう人生のほとんどの期間の長いおつきあいになりました。
あなた達お二人は、文化的で、活動的で、アジア各地を旅している時に出会い、意気投合されたと聞いています。インドネシアの観光地バリ島でお二人だけのスィートな結婚式を挙げられ、帰国してから仙台でご家族や多くの友人たちに囲まれて、披露宴が開かれたのでした。
お二人は、豊かな海外生活体験を生かし、仙台駅前に、当時大変めずらしい輸入雑貨のお店をオープンしたのでした。独特のアジアンスタイルのグッズが沢山ならんだお店には、多くの若者たちが集い、新しいネットワークが生まれました。
お店を後輩の方に譲られた後も、ご主人のお仕事を支えながら、あなたは独自の文化活動を続けられました。専門学校で絵を教えたり、沢山のギャラリーで個展も開きました。その活動を通じて、新たにご友人もたくさんできたとお聞きしています。
ある時、私たち夫婦も、お二人のご自宅に招待されたことがあります。岡山県にある代々五代も続いた老舗料亭にお生まれになったあなたは、料理も大変お上手だったし、おもてなしの達人でもありました。いつも笑顔で、優しい心遣いのできる人でした。あの時、ご馳走になった鍋料理が今でも思い出されます。
世の中が二十一世紀になる頃には、ご主人のお仕事の関係で神奈川県に転居され、活動のエリアを関東方面にも広げられました。多くの出会いがあり、数々の作品が生み出されました。あなたの素直で大らかな優しい性格を表現している作品が多かったように感じています。
そんな順風満帆なお二人の人生に、突然起こったことは、忘れもしない、あの、3・11東日本大震災でした。東北に住む私たちにとっても、人生のなかで一度起こるかどうか、という未曽有の体験でした。
この東北の地に、日本全国はもとより世界からボランティアや援助の手が差し伸べられました。お二人も故郷の東北を想い、その惨状を見て、再び活動の中心を東北に移すことを決断されました。ご主人は、故郷の金成町をはじめ、三陸海岸沿岸部や、福島県近くまで取材し、公共団体が運営するインターネット・サイトで現地の人々の現状を伝えました。
千年に一度と言われる大震災の復興にはまだまだ時間がかかり、これからますます本当に心からの援助が望まれるところです。地道でしかも力強く、多くの人々が心を合わせなくてはなりません。
そんな折、お仕事を通じて、障害を持つ人々の社会援助活動を続けておられたあなたが倒れられたことは、誠に大きな損失です。これから、もっともっと、あなたのように心から親身になって活動できる方にご活躍願いたいところでした。
それにしても、現実はあまりにも過酷です。今は、明子さん、穏やかにお休みください。これからも、ご家族や友人たち、そして多くの人々を見守っていてください。
心よりご冥福をお祈りいたします。 合掌
平成二十七年十二月三十日 友人 阿部清孝(Bhavesh)
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