「死について41の答え」 OSHO 伊藤アジータ<6>
「死について41の答え」 <6>
OSHO(著), 伊藤アジータ(翻訳) 2015/01めるくまーる 単行本 456ページ
★★★★★
アクティブ瞑想というテクニック---いかにして死に意識的に入るかというテクニックだ。チベットでは、こうしたテクニックは「バルド」として知られている。ある人が死のうとしているときに、人々が彼に催眠をかけるように、バルドに関わる人々は、死にゆく人に逆催眠的な暗示を与える。
バルドでは、人々は死の瞬間を迎えた人の周りに集まって、「あなたは死んでいくのではない。これまで死んだ人は誰もいないのだから」と語りかける。彼らはその人に、逆催眠的な暗示を与える。 すすり泣きも、叫びもない。なされることは、これだけだ。
人々は彼の周りに集まり、村の聖職者や僧侶がやって来て、言う。「あなたは死んでいくのではない、人は死なないのだから。あなたはくつろいで、十分に意識を保ったまま旅立つだろう。あなたは死んでいくのではない。今まで死んだ人は誰もいないのだから」
目を閉じたその人に、プロセス全体が語りかけられる。今、生命エネルギーが足から去っていった、今、手からさていった、もう話をすることはできない、というように---一方で、その人は、あなたはまだいる、あなたはまだそのままだと語りかけられる。
彼の周り中で、こうした暗示が与えられる。その暗示は、まったく逆催眠的だ。それは、死の淵にあるという社会的な幻想に、その人を絶対にしがみつかせないためのものだ。そうしたことを阻むために、人々はバルドを解毒剤として使う。
死に対して、この世界がもっと健康的な姿勢を手にする日が来れば、バルドは必要ではなくなるだろう。しかし私たちは、とても不健康な人々だ。私たちは大いなる幻想の中で生きている。そしてこの幻想ゆえに、こうした解毒剤が欠かせないものとなる。
誰かが死ぬときはいつでも、彼を愛する人たちはみんな、死という幻想を打ち砕く試みをすべきだ。もし彼らが、その人を目覚めさせておけば、もしありとあらゆる地点に気づかせることができれば・・・・・・。
そうなれば、意識は身体から引き上げる。それは一度に離れるわけではない。身体全体が同時に死ぬわけではない。意識は内面で収縮し、少しづつ、身体の各部分から離れていく。
さまざまな段階を経ながら身を引いていく。そしてこの収縮のあらゆる段階を、死にゆく人が意識を保つ手段として、彼に向って詳しく語りかけることができるのだ。p51 OSHO 「死は最後のタブー」
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