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2016/03/18

「インナーラビリンス」 自分という名の迷宮 ナルタン(日家ふじ子)<2>

<1>からつづく

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「インナーラビリンス」 自分という名の迷宮 <2>
ナルタン(日家ふじ子)(著) 2016/3めるくまーる 単行本(ソフトカバー)– 232ページ

 独な長距離ランナーにも似た当ブログではあるが、たまには気にかけて書込みをしてくださる方もある。貴重なので、ここで全文コピーしておこう。
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「炎の伝承 Ⅰ」「炎の伝承 Ⅱ」「死ぬこと生きること」が、取り上げられていないのはなぜですか?
あと・・・
The Discipline of Transcendence 全4巻
The Silent Explosion
OSHO: The Luminous Rebel
The Long, the Short and the All
Beyond Psychology
これらは翻訳済みで、市民出版社に届けてありますが、
出版権を扱うニューヨークのOshoファウンデーションとの連絡が長い間、取れていません。
ひたすら、先方からの版権認可待ちという状況が数ヶ月以上続いています。
つまり、Oshoの本を出したくても出せない状態です。
これについてどう思われますか?
ナルタンに活躍を期待されるのなら、
彼女にこそ、この異常な事態を打開するために働いてほしいと思いますが・・・?
Devayana | 2016/03/18 06:59

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以下は質問者に対する正しいレスポンスになるかどうかは分からないが、私の今の生な心境。

・私は今まで他者から強いられて読書をしたことは殆どなく、子ども時代の夏休みの読書の宿題などは特に嫌いだった。だから、読めと言われて読んだことはほとんどない。Oshoの本も他者に勧められたから読んだというものはなく、ただ身の周りに置いてくれたので、つい読んでしまった、というのがほとんどである。

・Oshoの本で、これからいつか読もうと思っている本は何十冊もあり、上に記してくれた本もぜひ今後読みたいと手元にはあるが、そのタイミングがまだこないようだ。それは邦訳に限らず、英文や他の言語のものもあり、読まないで一生を終える可能性のほうが高い。

・私は若い時分にはミニコミなどを作って、文章なども書いたし、本を読むこともまったく嫌いなわけじゃないが、ジャーナリズムや科学、歴史などを含め、文字化されたものの限界も気付かないわけじゃなかった。だから、有言は銀、無言は金、と見るような、どこか文章化されたものへの尊敬の念と、離別の念がある。

・旅行代理店に行って、観光地のパンフレットを見て、現地に旅をする。その場合、私にとって本の類などは、パンフレットの次元に属しているように思う。だから、あんまりにすばらしいパンフレットに見とれるよりも、現地に飛んでしまうことのほうが大事に思う。

・それはOshoの本に限らず、ほかの道においてもそうなのだが、どんなに素晴らしいパンフレットでも、現地に行ってガッカリ、ということもすくなくはない。逆に、粗末な、簡単な紹介であったとしても、現地に到着できたことに感謝雨あられということも、なんどもあった。

・Oshoの本やテープ、言葉や具象的な現象は、私に大いなる存在を気付かせてくれる大事なめるくまーるであったが、そこに留まることはなかった。私は私なりに極楽も見たし、地獄もみたように思う。

・私はOshoマニアになることは目的ではないし、そもそも無理な話だが、Oshoについて知らないことは多く、むしろ知らないことのほうが多いに違いない。しかし、それで私は足りる。私は私の旅をするのであり、私は私の極楽を見、地獄に落ちるのである。それでもなおかつ、私の人生においては、大事なポイントで、Oshoがシンボライズしたものが、要所要所で役だってくれている。

・私は英文でもOshoを読み、聞くし、時には翻訳もする。しかしそれを出版したこともなければ、そうしようとしたこともなく、もちろんリバイスなども頼まれたことはない。出版事情に詳しいわけでもなく、得意なわけでもない。出版されていれば、有難いなぁ、と思うし、これもぜひ翻訳してほしいなぁ、と思う書籍も、上記のリストを含め、あることはある。

・しかしながら、例えば、観光地に行って、旅行代理店のパンフレットを再び持ち出すことはほとんどないように、あえて本のみに頼ることは、森に行って木のみを見るごとく、森全体を見逃してしまうこともあり得るか、と危惧する。

・ナルタンについては、私にとってはひさしぶりの登場だったので、うれしかったし、私が知りたいと思っていたことも書いてあったので、感謝した。有難かった。この本は私にとっては宝物だ。

・ナルタンに今後期待する、と言っても、もちろん「強制」することはできない。スポーツ観戦しながら、がんばれコールを叫ぶより、さらにおしとやかな好意を表明しておけば、私からの彼女への「期待」ということになる。

・慈眼愛語ともいうが、ネット上で、あんまりに辛辣な批評を書けば、当然のごとくいたずらな誤解が誤解を呼んで、不必要な混乱を招くことにすらなりかねない。「適当」にこちらからの敬愛の念を記しておけば、それで足りるものとなろう。

・逆にどうにもこうにも今の心境でよいことは一つもかけない、という場合は、少なくともネット上では無言に徹していることのほうがよい場合がある。もちろんそれがやがて逆転して、ぜひ書きたい、大評価したい、と転換することも多いので、いつもながら人生とは不思議なものだ、と思うこと多し。

・いずれも当ブログは「文字」中心のメモである。これもまた旅行代理店の店頭のパンフレットの類のものである。そこに留まる人は、旅にでていないことになる。旅にでる人にとって、パンフレットの類は有用であろうが、パンフレットの類でバックパックを満載する必要もなかろう。

・最後に、私は文字型の人間で、音楽や絵画、演劇などよりは安価で手軽な読書を愛する。そのような書籍を作成し、流通させていただく人々には、常に感謝している。

・当ブログではこの10年間におよそ4000冊弱の本についてメモしてきた。ほとんど本を読まない、読めない時期もあったわけだから、それに比したらば、なんと有難い環境を与えていただいたものだ、と感謝に限りない。

・しかしながら、わが最寄りの図書館ですら数十万冊の蔵書があり、大学図書館や国会図書館、あるいはキンドルを初めとするネット蔵書を考えると、もうすでに数百万冊の上が存在し、私があと何年読書できるか分からないが、全部目を通せるはずがない。

・また、全部読んでみる意味も、本当は薄いであろう。

・私は、この中でも、何冊かの、ああ出会えてよかったな、と思える本が存在していることに感謝している。当ブログにメモした以外にもある。メモしようがメモしようもない本もある。本とさえ呼べないものもある。それはそれでいい、と思う。

 以上、質問者に対する答えになっているとは思えない部分も多いが、今は、書込みをしてくれたことに対する感謝の気持ちで、以上メモしておきます。気が向いたら、関連したことを、今後書けるかもしれません。

つづく

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