敬愛すべきM氏からSNSメールで、集いへのお誘いが届いた。大変興味深い内容で、しかもM氏からの案内とあれば、ぜひにでも参加したいものだと、直感する。
しかしながら、関西、中国圏を活動域とする彼と会うのは、北日本に住まう我が身としては、そうそう簡単ではない。ひとっ飛びに飛行機で宮崎に行ったのは、すでに15年前のことだし、関西圏に遊んだのは、もはや30年近く昔のことだ。
年々、活動域も狭まり、無理な日程の旅も身にこたえるようになった。ああ、お互いに、もうすこし身近な存在であればいいのになぁ、と願いつつ、いつの間にか、年に何度もない挨拶程度の交流で済ます友人も多くなってきた。、
M氏の案内は、必ずしもピンポイントで私宛に宛てたものではなさそうなのだが、受け取ったよ、ということは言いたい。そして、ぜひ参加してみたいなぁ、と思いつつ、どうも今回も無理だよ、と、伝えたい。
しかし、現在の私は年度末、年度初めの業務で忙殺されている。日々のルーティンワークではなく、年に一度の精神作業が多いのだ。頭を抱えて、あれをこう、これをああ、と、なかなか悩ましい毎日なのである。それに輪をかけて、次々と様々な締め切りが迫る。
何か、気の利いた返信を書きたいのだが、言葉にならない。彼の案内と、私の今の状況では、言葉の橋が、上手く掛からない。
そこで、スマホに残っている画像ひとつを、イイネ! の積りで、送信してみた。
どれだけの人が共感してくれるものかは分からないが、私の近況はここにある。わが廃材アートの極みである。海苔や乾麵が入っていた木箱をバラして材とした五重の塔。制作にかれこれ3ヵ月かかった。まだ未完成ながら、そこに費やされた日々を思うと、我ながら、とてもいとおしいものを感じる。
五重塔も数あれど、これは法隆寺のそれを模したもので、40分の1スケールである。なかなかリアリティに富む。そもそもこれは仏舎利塔なのであり、実は基壇には「納骨」のスペースがあり、そこには私なりの宝物を納めるように出来ている。
天頂部分の法輪などはいかがなものか。道具箱やらガラクタ箱からでてきた金属類を、繋いで作ったものであり、細部は問わないとしても、基本を無視して繋いだものではない。その元の意味を尋ねるべき学習の一環として、積み上げてみたものだ。
さて、その面前にある仏像もはて、いかがなものか。これにも仔細あり、今はとにかく樹齢1300有余のカヤの木の間伐材から掘り出した薬師瑠璃光如来である、ということだけは記しておこう。いずれに廃棄されてしまう間伐材に、ドド素人の私が彫り出すものは、なにほどのものではないが、個人的には実に心の修練にはなる。
ややあって、M氏からの追加の句があった。無為自然についての心境であろうか。意味深く、彼の存在があればこそ、深読みもしたくなる、一句である。この句に対となるような句を私には作れない。そこで、またイイネ!のつもりで、画像を一枚送った。
最初の画像が、全てが私のてなぐさみの結果であるなら、こちらは、ある意味、手つかずの自然の営みである。
気がつく人は気がつくであろう。これはタンポポの花だが、今や希少となったニホンタンポポの花である。阿武隈川の土手に自生していたものを数十年前に我が家の奥さんが移植したものだが、未だに健在である。花弁やその色合いに特徴がある。
除草剤こそ散布しないが、雑草だらけの我が狭き庭のなかにあって、いつも除草の対象になり、季節ごとにむしり取られている。だが、春になると毎年芽を出し、葉を伸ばし、花をつける。そして白い胞子となって飛んでいく。
我が庭の数カ所に咲いているのだが、この画像は、我が事務所の入り口の真ん中に咲いているものだ。荒く敷いたブロック石の隙間から、毎年芽を出す。その下には、深く根を張り巡らしているのだろう。今となっては、私も春になると、このタンポポを心待ちするようになっている。
と、さらに追加のメールがM氏から届いた。正直言って、これは私に宛てたものか、同報メールなのか、分からない。そこには、彼の故郷にまつわる伝説が紹介してあった。なるほど、そういうこともあるか。伝説の解読には、私なりに気がかりな件もいくつかある。今は、ひとつひとつの解読のすり合わせをしている余裕はない。
で、ここでまたイイネ!のつもりで何か気の利いた画像を、と思ったのだが、なんだか長々とした禅問答になりそうなので、こちらのブログに経緯を記しておき、M氏のみならず、最近少なくなるばかりのこちらのブログの記事として、好意的な読者の皆さんにも近況を記しておこうかな、と思い立ったのである。
しかるに、その伝説に対応させるべき、我がもう一枚の画像は、なんとなるべきであろうか。思案して、画像フォルダーの中に、最近のこの一枚を見つけた。
ちょっと意味不明であろうが、
私としては、ここに四つの意味を映し出している。ひとつは、一本の老木である。さもない団地の中の一本の老木である。
二つ目は、この老木は、推定約1300有余年の樹齢を持つとされて、市内最古云われているカヤの木の保存樹木であるということだ。
三つ目には、この鳥居にもあるように、このエリアは聖域とされていて、根元より出現したとされる薬師瑠璃光如来の坐像を元にお堂ができている。例年春にお祭りがされているのだが、その時に建てられる旗には、神仏習合の名残であろうか、「少名彦名命(すくなひこなのみこと)」と銘打たれている。
四つ目は、その春祭りが、今年も近づいてきましたというポスターである。一番手前に張ってある。最近、私が張ってきたものだ。
張ったのは私だが、このポスターを作ったのは、すでに80歳を通り過ぎた叔母である。例年彼女の作品が展示される。
この樹木は、長年地域の人々に愛され護られてきた老木であるが、経緯あって、今は私の属する一族が共有で管理している。そして、最長老である我が母が代表者として名を連ねることとなっている。
生家の敷地内にあった老木を誰よりも母が愛しているのは知ってはいるが、その母は、目も見えなくなり、耳も遠くなり、ましてや今年に入って転倒し、腰の骨を折って大手術を受け、現在も入院中でリハビリに励んでいる。
愛するカヤの木に対しては、何事もできない身となって、病院のベットに横たわっている日々である。
その想いも分からないでもないので、その熱情に動かされて、私は毎年のこのお祭りに参加してきた。ことしも、ごく少人数のお祭りではあるが、いくつかの大事な準備を任され、用意をしている。
ここで最初に戻るが、私の拙い手慰みとなってしまった薬師瑠璃光如来の少像は、このカヤの木の間伐材で彫られているのである。そして、最近、私は、奈良唐招提寺の伝薬師如来立像や、新薬師寺の薬師如来坐像、京都神護寺の薬師如来立像なども、おおよそ1300年ほど昔に、やはりカヤの木から彫りだされているのだ、ということを知った。
入院中の94歳の母に、祭りの準備の報告のついで、彫りかけている薬師瑠璃光如来像の少像を握らせてきた。微かな芳香がするのだが、すでに五感が弱くなっている母には、その香りをかぐことはできないようだ。それでも、大変喜んでくれた。
私としては、ここにひとつの円環が閉じるのを感じる。もっとも一番小さな円環である。ようやく閉じたというべきか、閉じるのにこれだけの経緯が必要だったのか、という忸怩たる念もある。また、ようやく今という時代が必要だったのだろう、とも思う。
しかし、我々一個人の生命を超えた円環、いくつも、多層に重なり合っている円環を尋ねる旅は、おそらく、これからようやく始まるのであろうと思う。
100年、1000年を超えるもの、1万年も10万年も超えるもの、さらには億の、未曾有の円環の繋がりの中で、私たちの短い命は、あえなくも、あわく、消え去っていくのである。
3・11もようやく5年を過ぎたものの、未だ心身休まらず、人の営みなどいかほどでもないものだと、感嘆する間もなく、今年になれば、熊本、大分、九州地方の、震度7を伴う連続地震におびえる昨今である。
身を震わせ、大地と共に生きる、人間の、命の、そのはかなさ、おろかさを嘆きつつ、薬師瑠璃光如来の施無畏の慈愛のみこころの情に浴したいものだと祈るこのごろである。
オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ
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