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2016/04/14

「魂のヨーガ」 パタンジャリのヨーガ・スートラ OSHO <1>

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「魂のヨーガ」 パタンジャリのヨーガ・スートラ <1>
OSHO マ・アナンド・ムグダ翻訳 2012/01 市民出版社 単行本: 390ページNo.3679★★★★☆

 あなたはここにいて、私は話している。でも、私は集団に話しているのではない。なぜなら、集団とはコミュニケーションが成立しないからだ。私はここにいる個人個人に話している。あなたは集団の中に集まっているが、集団として私の話を聞いているわけではなく、個人として話を聞いている。

 実のところ、集団というものは存在しない。存在するのは個人だけだ。「集団」は言葉にすぎない。それは現実のものではなく、実体がない。単に、個々を統合したものの呼び名だ。

 集団を愛することはできない、国家を愛することはできない、人類を愛することはできない。なのに、人類を愛すると公言する人たちがいる。彼らは自分自身を欺いている。人類という人は、どこにもいない。いるのは人間だけだ。

 探しに行ってごらん、人類はどこにも見つからないだろう。実のところ、人類を愛すると公言する人たちは、一人の人を愛せない人たちだ。彼らは一人の人を愛せない。そこで、たいそうな名目を掲げる---人類、国家、宇宙。

 彼らは神だって愛するかもしれないが、一人の人を愛せない。なぜなら、一人の人を愛するには努力が必要だし、困難を伴うからだ。それは骨の折れることだ。

 あなたは自分自身を変える必要がある。人類を愛することはたやすい。人類というものは存在せず、あなたは独りだ。真実、美、愛など意義あるものは、すべて個人に属している。個人だけが受取手になれる。

 仏陀が自分自身の存在をマハカーシャパに注ぎ込んとき、一万人の僧侶がいた。しかし、集団には資格がなかった。集団には資格がない。意識は個人的なものであり、気づきは個人的なものだ。マハカーシャバは、仏陀を受け取れる頂に登りつめていた。他の個人もその頂になれるが、集団は無理だ。

 宗教は基本的に個人的なものだ。それ以外はあり得ない。それが共産主義と宗教の基本的な争点のひとつだ。共産主義は社会や集団性という観点から考え、宗教は一人の人間、自己という観点から考える。

 共産主義は社会を全面的に変えられると考え、宗教は個人だけが変われれると考える。社会を全面的に変えることはできない。それは社会に魂がないからであり、変容はあり得ないからだ。実のところ、社会というものは存在せず、あるのは個人だけだ。

 共産主義は、個人は存在せず、社会だけがあると唱える。共産主義と宗教----それらは完全に対立しており、これが相反点だ。共産主義が広まれば、個人の自由は消滅する。そして社会だけが存在する。

 そこでは、個人は真の意味で許されない。人は部品として、歯車のひとつとしてのみ存在し得る。自分自身であることは許されない。OSHO p297 「止まれ、それはここにある」

つづく

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