「10年間で読んだ本ベスト10」<14>もっとありのままに
<14>もっとありのままに 目次
1)このリストを作成するためにヘッセの「ガラス玉演戯」を取り寄せて、思った。そんなに好きなのに、どうしてこの本を購入して手元におかないのだろう。いくら蔵書を持たないと意気がったところで、やっぱり欲しい本は欲しい。手元においてニヤニヤしたいだろう。
2)「ガラス玉演戯」は素敵な小説だが、私にはちょっとカッコ付け過ぎな気がする。私にとってのヘッセは、もっと身近な存在であろう。その証拠に「庭仕事の愉しみ」は手元にあって、春になれば、ニヤニヤしながら、読むではないか。
3)そう考え始まると、例えば「ウェブ進化論」も手元にあることはあるけれど、ウェブそのものに関心を持つ以上に人間に関心があった。反感を感じながら論破を狙った「ウェブ進化論」よりも、続刊の「ウェブ人間論」の方が、より私らしく、当ブログらしいのではないか。
4)ことほど左様に、飯沼史観だって、「仙台平野の歴史津波」よりも、「3・11その日を忘れない」のほうが、今日的であり、リアリティがある。
5)「増補チベット密教」は、本当はチベット密教全般への関心や、学術的な体系、あるいは麻原集団への反発で取り組むべき問題ではない。むしろ私とOshoとチベットの関わりを知る上では、「マイトレーヤ」のほうが、重要なのである。
6)そしてもちろん「帝国」や「マルチチュード」よりも、「ネグリ、日本と向き合う」のほうが、私は好きだし、よりネグリのことが見えているではないか。
7)スナイダーと三省の対談「聖なる地球のつどいかな」にしても、むしろ、3・11後のスナイダー「For The Children」のほうが、より好きなのだ。スナイダーと三省之対談は、こちらでも抄訳されている。
8)となると、「恐竜の世界へ。」を図書館から借りだすよりも「恐竜時代のふくしま」は、実際にフクシマに行ってトリケラトプスやティラノザウルス、フタバスズキリュウに触れた時の記念で持っている本だから、こちらのほうが絶対リアリティがある。
9)「ネットで進化する人類」よりも、私はむしろ「スペクテイター」(ホール・アース・カタログ編二巻)の方がより好きなのだ。
10)Oshoの「私が愛した本」は、「Books I have Loved」よりは、せっかくの邦訳の方が好きなので、このままのほうが、よりありのままだ。
11)「足に土」は、類書がないし、これはこのままだ。この本以外にない魅力がある。
12)そして、本当は「Osho Zen Tarot」より、「ラジニーシ・ネオ・タロット」を愛したのだが、時流的には前者かな、とすこし遠慮気味。
13)この品ぞろえの方が、より当ブログらしく、私自身らしいのではないか。無理がない。
14)少なくとも、いつも私の身近にある本たちだし、邪魔にはならない友人たちである。図書館から借りてきた本は、私の棺桶に入れてはもらえないが、こいつらには、遠慮なくあの世まで同伴を頼めるだろう。
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