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2016/06/14

「東大全共闘1968‐1969」渡辺 眸

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「東大全共闘1968‐1969」
渡辺 眸(著)  2007/10 新潮社 単行本(写真集) 182ページ 渡辺眸関連リスト
No.3718

1)今年(2016年)も、この所、恒例となった福島川内村獏原人の真夏の「満月祭」コンサートへの参加が実現しそうだ。福島第一原発から30数キロの農業コミューン。そこに一貫してこの40年住まい続ける人たちがいる。

2)そこに今年は、ひとりのカメラ(ウー)マンが参加する予定だという。私に何か手伝え、と言ってくれたのは、プラサード書店主のキコリ。何ができるかわからない(おそらく何もできない)が、とにかく行くことは約束した。

3)眸さんと書いて、すぐにヒトミさんと読める人はどのくらいいるのだろう。私はことあるごとにこの方の名前を拝見してきたように思うが、すぐにヒトミさんとお読みしたことはない。なんどか逡巡したうえに、結局、わからないままにしておいてきた。

4)しかし今回図書館から数冊写真集を借りだしてきて、そうかそうなのか、カメラ(ウー)マンだからヒトミさんなのか、と膝を打った。これってペンネームかな、とも思ったが、巻末の山本義隆氏の文章で、それは本名らしい、と推測することにした。

5)私自身は、カメラマン・マインドはない、と自称している。カメラとまったく縁がなかったわけではないが、「まずは」シャッターを押す、ということはできない。

6)私は77年にインド・スリランカを1年かけて旅したが、ほとんど写真をとらなかった。かなりの数のフィルムを持っては行ったのだが、現地で欲しい人に上げたりほんの少し売ったりもしたが、半分ほどは未開封のまま持ち帰ってきた。

7)この度の2011年の3・11に際しても、私の身の回りは「被写体」であふれかえっていた。どの角度を見ても「絵」になる風景だけだった。だけど、シャッターは押せなかった。押すことを拒否さえした。だから当時の写真は、ごくごく限られている。

8)1970年、私たちの高校でバリケード封鎖事件があった時、学校新聞部として駆け付けた私は、手に持ったカメラのシャッターを一枚も押すことなく、私服刑事たちにはがいじめにされてしまった。

9)1969年1月、それは私の中学三年生の高校受験の正月だった。こたつにあたりミカンの皮をむきながら、テレビを見ていた。延々と放映されていたのは、東大安田講堂の「攻防」。それは「東京」というずっと遠いところで起きている、「学生」というずっと上の人たちの出来事で、「理解」するもしないも、ただただ「風景」としてだけ、そのブラウン管を見つめていた。しかし高校に入学して、それは遠い出来事ではなかったことを、すぐ理解した。

10)この「有名」なカメラ(ウー)マンが、実はマ・サナンドという名のOSHOサニヤシンだと知ったのは、いつのころだったのか覚えていない。おそらく1977年にでた「やさしいかくめい」あたりですでに、そうだったのではなかろうか。

11)幸なのか、不幸なのか、私はこの方といままでお会いする機会がなかった。少なくとも沢山の支線の中での「二次のつながり」なのだが、私の中では「実像」が結ばれることは、今までなかった。

12)この写真集について、今の私は、それなりにメモしておきたいこともいろいろある。しかしながら、このヒトミさんにはたくさんの写真集がある。私が住む地方の公立図書館にも、必ずといっていいほどどの図書館にもある。それらをまずはひととおり拝見しながら、この方のヒトミには何が映っていたのかを想いつつ、もうすこし時間が経過したら、この写真集にもどってこようと思う。

つづく

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