「ネパール モヒタの夢の旅」 世界の子どもたち 渡辺 眸
「ネパール モヒタの夢の旅」 世界の子どもたち
渡辺 眸(写真・文)1986/03 偕成社 大型本 38ページ 渡辺眸関連リスト
No.3720★★★★★
1)この写真集は、ガイドブックでもなければ心象風景でもない。敢えていうなら「教科書」だろう。数十冊あるフォト・ドキュメント「世界の子どもたち」シリーズの中の一冊である。当然だろうが、これは旅していて偶然出会った風景を撮りためたものではない。最初に企画ありきで、最初からキチンと申し入れをしてしっかり作られた一冊であろう。
2)この本には、他書にないような形で著者のプロフィールが書いてある。
3)渡辺 眸(わたなべ ひとみ)
1942年、東京に生まれる。明治大学文学部卒業後、東京綜合写真専門学校に学ぶ。
1972年はじめてインドに旅だち、以来、東南アジア、韓国、アメリカ、イギリス、日本と、異文化を遊行(ゆぎょう)しつづけている。
カメラ雑誌、月刊誌などのグラビア撮影、随筆なども仕事もしている。
写真集に「新宿コンテンポラリー」 「東大全共斗」 「天竺」などがある。 p40(あとがき)
4)なるほど、そうであったか。とすると、1968年に東大全共闘の内部に「侵入」した時は、すでに26歳になられていた、ということである。
5)こちらの写真は撮影された時期は明確ではないものの、1986年以前としても、すでに彼女は中年のこの子供たちのお母さんと同じ世代になっていたはずである。
6)小学生のころ、おそらく10歳くらいの時なのだが、図工の時間に、観光地のポスターを作りましょう、という授業があった。有名な観光地はさまざまあるが、当時まだ東京オリンピック直前のことでもあり、テレビ番組もまだまだ多くなかった。テレビさえ普及率が低かった。
7)あの時、私が選んだ観光地はチベットだった。地名だけは覚えているのだが、私が何を書いたのかは覚えていない。ただ、チベットという文字が大きく描かれて、おそらく飛行機や旅行鞄を抱えた人間の姿が二三人描かれて終っていたのではないだろうか。
8)それにしても、当時私にとってチベットという地名がでてくること自体不思議な感じがする。どこかでなにかが刷り込まれていたのかも知れないと、今なら、ジョークを込めてそう言う事にしている。
9)3・11の後に、さまざまな潮流がでてきたけれど、一貫してあった言葉は、子供たちのために、子供たちを守ろう、子供たちとともに生きよう、というフレーズだった。
10)私は今生において、チベットにもネパールにも、モンゴルにも、ブータンにも行けなかった。一時期強く行きたいなと思ったこともあったが、今はまぁ、行けなかったんだな、と、わりと諦めている。
11)いやいやまだまだ機会があるだろう、という声もあるが、今の私は敢えて遠くまで旅するようなチャンスを望んではいない。むしろ、郷土史的な、自分の足元を、え~~~、そうだったのぉ~~、というような大発見とともに散歩するほうが、身の丈にあっているようである。
12)この写真集においては、モヒタという少女が主人公になっている。
13)モヒタは9才。カトマンズのダルバール広場のそばに住んでいます。両親と、3人の兄さんのラジャス(25才)とディーネシュ(22才)とスデェーシュ(18才)、ふたりの姉さんのサンギータ(14才)とヨギータ(12才)、そしてモヒタの8人家族です。
朝8時すぎ、モヒタが学校にいく時間です。スクール・バスの待っているカンティパス通りまで、毎朝、お母さんが送ってくれます。旧王宮前を通って大通りにでると、いつもの顔ぶれがそろっています。
「ナマステ!(おはよう)」バスは、いくつかの集合場所で生徒たちを乗せ、3キロほどはなれたスワヤン寺院の裏にあるアーナント・クティ、スクールにむかいます。p8「アーナンド・クティ・スクール」
14)9才の子供からみたら、世界はどこも観光地のように、輝きにみちた新しい世界なのではないだろうか。このモヒタからみるネパールは遠く離れた観光地としてのネパールではない。そこに展開されるのは、一人分の世界であり、どこに住んでいる子供の世界ともつながる、世界だ。
15)子供たちの目からみたばあい、自分の生きている世界に違いなどない。目の前にある世界が唯一の世界なのだ。別段に比較したり、珍しがったりするようなものではない。すべてがあたらしく、すべてが真実だ。
16)でも、人間は9才や10才に、とどまってはいない。12才になり14才になり、18才、22、25となり、やがて中年となり、老年となり、老いて、死んでいく。
17)もし、人間だれもが9才でとどまるとしたら、世界大戦なんか起きないのではないだろうか。生きている自分の世界が当たり前のものだと思い、分かち合い、楽しみあい、仲良くしていたら、世界はもっともっと平和になるのではないだろうか。
18)人間だれしも子供だった。子供でなかった大人なんて一人もいない。もし、人間だれもが、大きくなっても9才や10才の時の、あの新鮮な驚きの感性をもって生き続けることができたら、おそらくこの世はもともと浄土なのだ。
19)子供たちのヒトミからみた場合、世界はどこもおんなじだ。世界の子供たちに、違いはない。そして、子供たちのヒトミを持ち続ける地球上のおとなたちにも、なんの違いはない。
20)「地球に愛と平和を」。これがこの「世界の子どもたち」シリーズのサブタイトルである。
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