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2016/07/01

「喜多郎」 マインド・ミュージックの世界 <1>

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「喜多郎」 マインド・ミュージックの世界
喜多郎(著) 1981/06 講談社 単行本 222ページ 喜多郎関連リスト
No.3744

Kr007             裏表紙見返し

1)1980年

 三月、仕事でヨーロッパへ向かう途中、インドに立ち寄り、デカン高原の都市プーナでアシュラム(道場)を開いているグル―(導師)、バグワン・シュリ・ラジニーシを訪れた。以前から心惹かれるものを感じていた彼は、どうしても一度会ってみたいと思い続けていたのである。

 「本当に会ってよかったですね。久々にキックを受けたというか、目を覚まさせられた感じです。マラ(数珠)をかけてくれて、ポンと軽く頭を触れられた時には、瞬間、ビーンと、なんとも表現のしようがないショックを感じたものです。

 彼は、ラジニーシから「橋になれ」とさとされた。そして、橋という意味を含むヒンズー名、”スワミ・デバ・セトウー”という名前を授けられた。橋になれ、人と人とのかけ橋、人と自然とのとのかけ橋、すべてが結ぶ橋になれ--その教えは、彼にとってきわめて意味深いものだった。

 なぜなら、彼の体を通して生まれるマインド・ミュージックは、まさに、その橋のような役目をはたすものに他ならなかったからである。事実、今、彼はその教えを「実践しているような感じ」もしているという。

 二週間、インドに滞在した彼は、デカン高原の奥地に入ったり、周辺の町を歩いたりして、旺盛にインドの自然、心を吸収していった。帰国してからの彼は、”自然からの愛”ということを強調するラジニーシの教えもあって、それまで以上に強く自然を求めるようになった。

 ”海もいい、しかし、もっと自然に包まれるために、山深い所に住みたい・・・・”---そんな思いを持つようになったのも、この頃からである。p200「シンセサイザーと旅と」

Kr101            p107


Kr009            p80

Kr02
        p206

<2>につづく

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12)把不住」カテゴリの記事

コメント

1979年当時、瞑想センターの窓口としてお世話になっていたロック喫茶「サンハウス」の太田さんが、確か「オアシス」だったと思うが、初めて聞かせてくれた。喜多郎ってあまり意識したことなかったのだが、その後、1980年代になって大ブレイクした。その頃、私はがんセンターに入院して、夜の待合室でNHKテレビ番組「シルクロード」を見ていた。その時、後ろで年配のおじさんが、この曲いいよなぁ、と言った。私はその時、「彼は僕らの仲間なんです」なんて言っちゃった。まぁ同じサニヤシンなのだから、全く嘘ではなかったけど。その時から、へぇ、喜多郎って一般受けするんダァ、と驚くようになった。

投稿: Bhavesh | 2018/08/28 23:40

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