「シンギュラリティは近い」エッセンス版―人類が生命を超越するとき レイ・カーツワイル<21>
「シンギュラリティは近い」エッセンス版―人類が生命を超越するとき<21>レイ・カーツワイル 2016/04 NHK出版(編集) 単行本(ソフトカバー) 256p
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1)人はよく意識のことを、ある存在物のはっきりとした属性で、難なく識別し、発見し、判定できるものであるかのように言う。意識の問題がこれほどまでに議論を呼ぶのはなぜか。その謎の鍵を握る洞察は次の言葉に集約される。
意識の実在を決定的に裏づける検証法は、ひとつとして存在しない。
科学とは、客観的な計測と、そこに生まれる論理的な推論から成り立っているが、まさに客観性の本質として、主観的経験は計測できないことになっている。p231「意識をめぐる厄介な問題」
2)この本は、オリジナルにせよ、エッセンス版にせよ、ほとんど90%が外側の科学について書かれている本である。科学史やその発展、可能性について書かれている。だが、それだけならおそらく魅力は半減するし、当ブログにおいても話題にするほどでもなかっただろう。
3)この本の良心的な部分は、シンギュラリティという耳新しい概念を使いながら、「科学の可能性」と「科学の限界性」を垣間見せてくれるところにある。 この残り10%が限りなく魅力的なのであり、そこに多くの読者が新しい可能性を見つけようとしているのだ。
4)主観的な経験はまったく存在しないか、あったとしても本質的なものではないので無視してもよい、という見解に対しては反対したい。誰に、またはなにに意識があるかという問題、および、他者の主観的経験の性質は、われわれの倫理的、道徳的、法的概念の基礎をなしている。
人間社会の法体系は、主として意識の概念に基づいており、とりわけ(意識のある)人間に被害---特に深刻な意識的経験の形で---を及ぼす行為や、人間の意識的経験を終わらせる行為(殺人など)に多大な関心が向けられている。p232 同上
5)最終章において、残りの10%において、わずかに「意識」についての考察が展開されている。そこに触れなかったよりはずっといい。この10%こそを読みたかったのだ。そう思い読み進めるのだが、カーツワイルもそこから向こうについて、それほど多くを語ることはできない。
6)わたしとは誰なのか? たえず変化しているのだから、それはただのパターンにすぎないのだろうか? そのパターンを誰かにコピーされてしまったらどうなるのだろう? わたしはオリジナルなほうなのか、コピーのほうなのか、それとも両方なのだろうか?
おそらく、わたしとは、現にここにある物体なのではないか。すなわち、この身体と脳を形づくっている、整然かつ混沌とした分子の集合体なのではないか。p235 「わたしは誰? わたしはなに?」
7)シンギュラリタリアンを自負するカーツワイルにして、初めてこの内なる旅の入り口に立つ。その探求心は、科学に対する誠実さと同程度に、実に誠実な姿勢である。
8)意識について論じるときには、往々にして行動科学や神経学でいう意識の相関物の考察に逃れていってしまいがちだ(たとえば、ある存在がその意識体験をみずから観察できるか否かとか)。だが、そういうものは三人称の(客観的な)問題であり、哲学者のデイヴィッド・チャーマーズが意識の「難問(ハードプロブレム)」と呼ぶもの、すなわち、「物質である脳から、いかにして意識のように明らかに非物質的なものが生じるのだろうか」という問題を説明していない。p240 同上
9)当ブログは現在、マインドフルネス、という言葉まで降りてきている。ジョン・カバットジンが、どのような体験をし、どのような体形を整えたとしても、少なくとも一般的な受け止められ方は、まだまだ科学的マインドを満足させるような語り口で語られることがほとんどだ。
10)やれ、エリートが注目している。やれ、スポーツマンがメンタルヘルスに使っている。健康法や成功哲学のひとつのようにさえ扱われている。しかし、それはなにもカバットジンだけを責める必要はない。これまでかつてさまざまな言葉で語られてきた類似概念のほとんどは、そのようなものでしかなかったからだ。説明する方も、受け取る側も、突き詰めは見事に甘かった。甘いばかりではなく、方向がまるで勘違いであり、間違っており、危険、有害ですらあった。
11)シンギュラリティは、物質界で起こる事象を意味する。それは、生物の進化に始まり、人間が進める技術進化を通じてさらに伸張してきた進化の過程における、必然的な次へのステップである。
しかしながら、われわれが超越性(トランセンデンス)---人々がスピリチュアリティと呼ぶものの主要な意味---に遭遇するのは、まさにこの物質とエネルギーの世界においてなのだ。p241 「超越としてのシンギュラリティ」
12)誠実なアプローチではあるが、カーツワイルが科学者である限り、そして自らシンギュラリタリアンと自負したとしても、その考察の多くは、仮説にとどまっている部分が多くある。
13)「スピリチュアル」と呼ばれるものこそ超越性の真の意味だと考える向きもあるが、じつは超越性は現実世界のすべてのレベルに見ることができる。たとえば、われわれ自身を含めた自然界の創造物、そしてもちろん、芸術、文化、テクノロジーや、情動的、精神的表現など、人間が創造したものにも超越性がある。
進化は、パターンと深く関わりがあり、進化の過程で成長するものは、端的に言えば、パターンの秩序と深さに他ならない。したがって、人間の中で起きる進化の極致であるシンギュラリティは、こうしてさまざまな形で表れる超越性をさらに深めていくことだろう。p243 同上
14)語られる言葉には、語り手と聞き手の、相互の関係性が大きく作用している。著者が感じ取っているもの、表現しようとするものが、聞き手の本当に聞きたいものか、聞き取る能力があるのか、それぞれの関係性に大きく影響を受けている。だから、このあたりの表現については、ゆっくりと吟味する必要がある。すくなくとも、ここでのカーツワイルは必ずしも成功はしていない。
15)「スピリチュアリティ」のもうひとつの合意は「魂をもつ」ということで、いうなれば、「意識がある」ということだ。「個人性」の土台である意識は、多くの哲学的、宗教的伝統において、真実を意味すると考えられている。一般的な仏教の存在論では、むしろ主観的---すなわち意識的な---経験こそが究極の真実だとされており、物理的または客観的現象はマーヤー(幻影)だと考えられている。p244
16)されど読者である私(たち)もまた、カーツワイルだけを責めることはできない。彼は、表現され得ないことを表現しようと努力しているのであって、その意味を理解できない自分を責めたりする以上に、むしろカーツワイルの努力を賞賛さえすべきなのだ。
17)われわれは、人間には意識がある(少なくともそう見えるときには)と思っている。それとは対照的に、単純な機械には意識はないものと思い込んでいる。宇宙論的な見方をすれば、現代の世界は意識のある存在というよりも、単純な機械のように行動している。
しかし、われわれの周辺の物質とエネルギーは、この人間と機械の文明の知能、知識、創造性、美、感情的知性(たとえば愛する能力)に浸透しつつある。
そして人間の文明、われわれが遭遇する物言わぬ物質とエネルギーを、崇高でインテリジェントな---すなわち、超越的な---物質とエネルギーに転換しながら、外へ外へと拡張していくだろう。それゆえある意味、シンギュラリティは最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできるのだ。p244 同上
18)最後は詩的表現にならざるを得ない。そうしか書きようがないだろうし、また、受け手もまた、頭脳をでなく、感性を最大限オープンにして、その「考察」=詩、を堪能すべきなのだ。
19)指数関数的に急激な進化をとげながら、進化は確実にその方向へと進んでいる。進化は、神のような極致に達することはできないとしても、神の概念に向かって厳然と進んでいるのだ。したがって、人間の思考をその生物としての制約から解放することは、本質的にスピリチュアルな事業だとも言えるだろう。p245 同上
20)これが、エピローグ前の第六章「わたしは技術的特異点論者(シンギュラリタリアン)だ」の結句である。彼は頑張った。よくやったと思う。その科学史はどうであれ、その具体的ライフスタイルであれ、一般には理解しにくい概念について多くの読者を惹き付けた。その検証は今後多くの人々によって具体的に継続されていくだろう。
21)しかし、私(たち)は、彼の努力はようやくある世界の入り口への標識である、と気づかないではいられない。そこからがスタートなのであって、そこから先は、さらに新たなる論者を、真なる覚者を待たなければならない。その世界を十分に知り尽くした道案内人。もし私(たち)が本当にその旅を続ける意思があるのなら、道は確実に開ける筈だ。
つづく
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