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2017年1月の56件の記事

2017/01/31

「仏像彫刻のすすめ」 新装改訂版 松久朋琳

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「仏像彫刻のすすめ」 新装改訂版
松久朋琳 (著) 2016/08 日貿出版社 B5版 単行本(ソフトカバー) 211ページ
No.3875

●あなたの仏像をあなたが彫る---<一人一仏>のための画期的な入門書 

「問」ほんとうに、わたしでも仏像が彫れるでしょうか。 

<答>大丈夫です。次の3カ条をつねに守れば、あなたにも必ず仏像が彫れます。 

1、基本を大切にする。 

 先を急がずにつねに基本に帰って、正しい小刀やノミがあなた自身の手となり指となる、というところまで行かねばなりません。最初に取り組む地紋彫りは、運刀法の基本となるものですから、先に進んだ人も暇があれば初心に帰って、基本を繰り返し彫るようにしてください。 

 基本をおろそかにして気ままな運刀をすると、きっとケガをします。指を切ったり、膝を突いたりするようなことは、最も恥ずべきことなのです。 

2、一にも根・二にも根。 

 木は正直なもので、10日間かけたものは10日間だけのノミ痕としか残しません。10日を20日に見せかけるようなゴマかしは絶対にきかないのです。木彫ほど根と辛抱のいるものはありません。 

 わたしはアマチュアの人たちにも、無言でお手本を彫ってみせて、その通り彫れるまでは何日かかろうが先に進むことを許さぬやり方をとっております。 

 ひとつの段階を、少なくとも10回は反復稽古すること。つまり、仏手を例にとるならば、左右の手を最低10個ずつ彫りなさい、ということです。木彫には早道や抜け道などはありません。 

 わたしのような純な人間でも、それを60年間繰り返してきたおかげで、ようやく皆さんに教えられるところまでたどりつけたのです。仏像彫刻に秀才は不要です。どっしりと腰を据えて、人の10倍の時間をかけてごらんなさい。 

3、気ままをしない。 

 人間と言うものは慢心を起こしがちなもので、少しで売れようになると、気ままにのみを振るいたくもなります。しかし、自由彫刻と違って、仏像彫刻の場合、そんなかっては許されません。

 お手本を正しく読み取って、一刀一刀、己を無にして彫り進んでください。そしてなるべくならば身近な人を誘い合わせて稽古することも、おすすめしたいと思います。

 初心者は一人ぼっちよりもお互いに切磋琢磨しあって彫るほうが、進歩も早いし、落伍する危険も逸れやすいものです。

 仏像を彫るということは、自己が仏によみがえる道なのですから、あくまで気まませず、謙虚な心でお手本どおり進めてください。表紙見返し

 

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「電脳のレリギオ」 ビッグデータ社会で心をつくる ドミニク・チェン

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「電脳のレリギオ」 ビッグデータ社会で心をつくる
ドミニク・チェン   2015/03エヌ NTT出版 単行本(ソフトカバー): 167ページ
No.3874

1)ドミニク・チェン。目下、当ブログ注目のライター、表現者である。

2)哲学やサイバネティクスの理論が影響していることもありますが、僕自身が日本と台湾とベトナムの血を引き継ぎながらもフランス国籍の人間として育ち、アメリカの大学で学ぶ、というまさに文化的にバラバラな生き方をしてきて、血統的だったり国家的な帰属意識がいまに至るまでずっと希薄であることも関係しているように思います。p022「情報に情けと報いは宿るか」

3)名前から察するに、そのような背景があるだろうことは察することができるし、その立場からの発想に期待する私のような読者たちがいる。

4)Religionレリジョンの語源は、ラテン語のReligio(レリギオ)ですが、それは「宗派の教え」と読み取れる日本語の「宗教」とは全く意味が違います。

 Religioレリギオという言葉の成り立ちには諸説がありますが、その一つはre-ligioというように、強調や反復を意味する接頭語の「reレ」と「結び」を意味するリギオという言葉からなっているとするものです。つまり、「再び結ぶ」「強く結ぶ」という意味であり、「神と人のつながり」を表すという説があります。

 興味深いのは、直接「結ぶ」のではなく、「再び」もしくは「強く」という意を表すre-レがついていることです。つまり、この語にはある喪失が前提とされていると考えることができます。宗教学者であれば、それを神的な存在との接続を取り戻すという意味で捉えるでしょう。p019「レリギオ」

5)この多文化の背景を持つ、1981年生まれの若い、科学者にしてビジネスマンは、表現方法に長けている。レリギオ、って何だろう、と本のタイトルにググっと惹かれてしまった

6)しかし早い話がre-union再結合なのであって、話の展開そのものが目新しいわけではない。当ブログでは、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、の三コン論に終始してきたわけだが、サブタイトルの「ビックデータ社会で心をつくる」jに表われているように、コンシャスネス論につながる可能性を期待させる内容である。

7)読んでみた結果、可能性はあるが、まだまだ道半ばの内容と判断した。★5とレインボー評価、どちらにするか悩んだが、若い故に未来があるので好意的に評価することとした。

8)僕が仲間と会社を立ち上げて間もなく発表した、リグレトというオンラインの匿名掲示板サービスでした。(中略)このサービスを開発運営するための資金調達を行っている時に、投資家と「これは宗教2・0とでも呼べるサービスになりえる」という話になりました。p015「情報技術と『心』」

9)著者の発想や表現は若く、非常に豊かで今後に大いに期待しているのだが、研究者であったり、大学の講師であったり、企業家であったり、作家だったりするので、器用でありつつ、多方面に気を配りする気配がある。本当に言いたいことや、独自性、強調すべきこと、などが、どこかボケてしまっていることもある。

10)世界最高峰の学際的な研究機関であるマサチューセッツ工科大学メディアラボの学長を務める伊藤穣一さんは、こうした変化が激しい時代を生きるうえで重要な点を七か条にまとめていますが、その一つが「地図ではなく、よいコンパスを持つこと」の推奨です。p085「情報社会のコンパス」

11)著者は伊藤穣一と角川インターネット講座15「ネットで進化する人類」 ビフォア/アフター・インターネットでコラボしている。伊藤や、ケヴィン・ケリーのような大木に育ってほしい期待の星である。  

12)著者についてはリアルタイムでの追っかけが終わってないし、この本も2年まえのモノであるので、もうすこし追及しなければならないが、どうも若いのに、周囲にこだわりすぎているように思う。伊藤穣一が若い時代に大学を拒否したり、ケヴィン・ケリーもまた若い時代にアジアを10年に渡ってバックパックしていたような、どこか超絶した孤独感、孤立感、独立性を持たないと、いずれ潰されてしまうのではないか。「ウェブ進化論」の梅田望夫などは、数冊の大ヒットの著書のあとは、杳として積極的に姿を消して行った。それもありだと思う。

13)文章を書くこととソフトウェアを書くことは共に「祈る」といいう点で似ています。「祈り」とは具体的には期待できないけれども「願う」こと、ではないでしょうか。文章を発表する場合は、読者がそこに内包されている情報を摂取した結果、新たな表現が生まれることを祈ります。p156「電脳のレリギオ」

14)この本、掴みはいいが、そして内容もまずまずだったとしても、結論としてはまだまだだ。少なくとも当ブログが期待しているようなコンシャスネスにダイレクトにつながっていく部分がまだまだ弱い。

15)狙いはいい。力がある。若さがある。今後にさらに期待。

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2017/01/30

「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<16>

<15>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <16>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<17>につづく

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「55歳からのフェイスブック入門」小川和也 <3> 「60歳からのフェイスブック 」今からはじめるソーシャルライフ  今 陽子<2>「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004 <4>

<2>からつづく


「55歳からのフェイスブック入門」 <3>
小川和也 (著) 2012/9海竜社単行本(ソフトカバー) 260ページ
★★★☆☆

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<1>からつづく 


「60歳からのフェイスブック」 今からはじめるソーシャルライフ<2>
今 陽子 (著)  2012/8マイナビ 新書: 200ページ
★★★☆☆

ーーーーーーーーーー

<3>からつづく

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「Facebookお得技ベストセレクション」お得技シリーズ004ムック<4>
2014/01  晋遊舎 ムック  97ページ 
★★★★★

1)最近スマホとタブレットからFaceBookのアプリを削除した。なんせウルサすぎるんである。定期的に来るアップグレイドは仕方なく付き合ってきたが、今回はどういう訂正があったのか、いきなりわあわあF友たちが書き込めば、そのつどピンピンとお知らせでくる。

2)私はそもそもメールもあとでまとめて読むほうなので、常時つながっていないとダメなような交友関係はない。見たい時に見に行くのである。自宅にいると当てずっぽうなセールスの電話がかかってきてウンザリするが、あれよりもひどい状態が現在のフェイスブックアプリである。(末期症状だな)

3)最近ちょっと飽きてきたこともあったし、見に行く機会も減ってはきていたが、いよいよここにきてブチ切れた。別段に退会したわけじゃぁないので、いずれ再開はできるだろうし、アプリがなくてもブラウザから入ってはいける。

4)って、その方法も実はパスワードを入れるのが面倒なので、入れ直す気もないまま時間が経過している。おそらく新しいヴァージョンのアプリも設定かなにかあるのだろうが、それ自体が面倒くさくなった。そろそろ私もFB卒業の季節ですね。

5)ほかにもっと楽しいことあるし・・・・。(ちょっと、負け惜しみ)

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「人類を超えるAIは日本から生まれる」 松田 卓也

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「人類を超えるAIは日本から生まれる」
松田 卓也 (著) 2015/12 廣済堂出版 新書  207ページ
No.3873★★★★★

1)あり手な本だが、読者の心をぐっとつかむ。出版社は廣済堂。新書版本の、ゾッキ本の一種に数えられそうな一冊だが、専門でもなければ、特段にこのテーマだけに関心があるわけでもない私などには、ちょどいい量であり、質であり、結論である。

2)書き手は1943年生まれの宇宙学者、大学の名誉教授ということだから、中途半端なサイエンスライターもどきが書いた本ではない。それそこそこに信ぴょう性のある一冊と言っていいだろう。もちろん、細かいところの検証はできない。

3)将来の超知能は、芸術や文学も含め人間の創造活動はなんでもできるようになるでしょう。たとえば、五七五という形式が決まっている俳句のようなものは、とても簡単です。ちなみに、現在でもSiriに「俳句をつくって」と言うと、「俳句など 詠めはしません 悪しからず」などと返してきます。p125「芸術分野でも人類を圧倒」

4)う~ん、うまい。拍手。ちなみに私もSiriに頼んでみた。

iPhoneを 貸してくれろと 泣く子かな 

iPhoneの 十四五台も ありぬべし あの、ちなみに、iPhoneは秋の季語なんです。 

iPhoneで 遊べや親の ないすずめ 

クラウドや ああクラウドや クラウドや 

荒海や 佐渡に横たふ iPad mini 

手にはiPhone MacBook Air iMac 

閑さや 部屋にしみ入る Siriの声 

手にはiPhone Apple Watch Mac  Pro 

春眠や 顔面殴打 iPad 

さまざまの こと思い出すiPhoneかな うーん、字余りですねぇ。 

手にはiPhone Apple TV iPad

5)なるほど~~。秀作ぞろいですねぇ。なんてオダ上げていてはいけない。この俳句ではまだ人類を圧倒しているとはいえないだろう。ましてや、これは確かにSiriが受け答えしているが、作者は人間そのものだろう。裏で人間が作ってセットしているものをSiriがリピートしているだけだ。Siriが作ったわけではない。

6)作風も、Apple社製品を織り込んで笑いを取っているだけで、すぐ飽きてしまうだろう。本当にSiriが自分で俳句を詠んで、iPhoneを持つ人間を識別して心にしみてくるような句を吐くようになったら、う~~ん、やっぱりその時はシンギュラリティかなぁ・・?

7)汎用人工知能に意識は必要でしょうか? 人工知能が意識を持つかもたないかは、しばしば注目を集める問題です。(中略)

 意識をもつ/もたないは、あくまでも哲学的な観点です。より実務的な観点に立てば、科学研究などの知能活動に利用するうえで、人工知能に意識が必要とは考えられません。

 人工知能が意識をもつと、むしろいろいろと具合が悪いことが出てきます。人工知能脅威論というのは、まさに人口知能が意識をもつことを前提にしています。人工知能が意識をもつとは、悪意をもつかもしれない、ということですから。

 また、人工知能に意識をもたせるにはどうすればいいのか、現在のところは見当もついていません。技術的に極めて難しいことなのです。「それならば、当面は意識の問題はおいておきましょうい」というのが、現実的な立場だと言えるでしょう。p134「人工知能に意識は必要か」

8)上の文意に異論はないが、ここで言われているのは、意識の中の意志の部分であろう。意識についての論議は半端じゃないし、おそらく、意識は人間だけが、しかも本当に覚醒している人間だけが持っているものであろう。

9)この本のタイトルは、この出版社からでる限りしかたないだろうと思うが、それでも、巻末の対談なんかを読んでいると、日本のモノづくりってすごいなぁ、と納得する。別に日本じゃなくてもいいのだが、日本というもの特性を教えてくれているのは確かだ。

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2017/01/29

「2017年版間違いだらけのクルマ選び」 島下泰久<2>

<1>からつづく

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「2017年版間違いだらけのクルマ選び」<2>
島下泰久 (著) 2016/12  単行本(ソフトカバー 256ページ
★★★☆☆

1)すでに一度は店頭で手に取ってじっくり熟読済みなので、特に加えることはないが、たまたま図書館にもリクエストしておいたので、ようやく私の番になったらしい。せっかくだから、もういちど目を通してみた。

2)プリウスPHVとニッサンノートeパワー、そしてリーフ、そのあたりに話題が集中するのは当然として、ブランド力を高め続けるスバルや、ブランド力を辱め続ける三菱など、衆目のテーマはそう変わるものではない。

3)だけど、今回の自分自身のクルマ選びとして、すでに6年落ちのベーシック・ハイブリッドを乗り継ごうという結論が出た限り、どんな素晴らしいクルマも、どんなカッコいいクルマも目に入らない。自分のクルマが一番いいのだ。

4)だから当面は、傷アリポンコツ愛車を、とにかく10年10万キロ目標に、愛し続けることが目下の^目標である。それがまた実用的でもあり、環境にも素晴らしい結果になるはずである。

5)しかるに、今回、この本を読んでいて、登場する前からずっとわが頭に浮かんでいたのは、ロードスターだった。ポンコツハイブリッドがとにかくあるとして、もう一台あるとするなら、ナニがいい?

6)バイクは転ぶし、自転車はなぁ、体力が持たない。とにかく走るならロードスターだろう。しかもマニュアル。ハードルーフがいいいと思うが、とにかく安ければそれにこしたことはない。燃費? そんなものはどうでもいい。どうせそんなに悪くない。

7)中古はいやだな。早々に手放すことになるとしても、新車がいい。色は本当は赤がいいのだが、いや待てよ、グレーとか、ダークブルーとかもいいなぁ。ここが分かれ目だ。目立つか、徹底的に消えるか。

8)人生最後のクルマが外車だなんていやだ。国産車がいい。しかも廉価で、仕事も、家族も拒否した一台。ただ走る。あるいは、走る姿を想像して眺める。自宅のPに停めて、その気分に浸る。それにはロードスターだな。

9)そういえば、この前もらってきたカタログ類の段ボールにロードスターも入っていたので、今夜はじっくり眺めつつ、夢路にいそぐとする。

(笑)

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2017/01/28

「お経」 禅宗 横尾忠則(装丁)他<2>

<1>からつづく

お経−禅宗
「お経 禅宗」 <2>
桜井 秀雄 (著), 鎌田 茂雄 (著) 横尾忠則(装丁)1983/4 講談社 282p.
★★★★★

1)小賢しい論議や、煩わしい小技に振り回されていると、もうこの際オーソドックスな基本中の基本に戻ればいいじゃないか、という声がする。そこでいきなり「お経」に戻ってしまうのもどうかとは思うが、それもありだと直感する。

2)実に平易に一般の求めに応じて編集された小冊子であるので、よく法事で聞くような一般的なお経が納められていて、論議やら技法やらにとらわれない率直で実直な実態が移されている一冊である。

3)広く大きく開かれた法門であるがゆえに、どこからでも入れるという安心があるものの、その中にあっても、自らの縁を手繰っていけば、それほど曖昧なものではない。それぞれに因果応報の道があり、なるほど自分はここにつながっていたのか、と納得する道筋が見つかったりする。

4)宝鏡三昧や坐禅和讃など、あらためて目を通せば、ありがたくもあり、目がさめるような一説に突き当たり、行きつ戻りつする。

5)Very body the Buddha Very place the lotus paradise

当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり p208 「白隠禅師坐禅和讃」

 道にありて、幾度となく耳にしてきている一句なれど、今改めて聞き直す。

6)巻末には、禅宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗それぞれの来歴が記してあり、改めて眺めれば、40代50代にして没された偉大な先人たちは多い。すでに還暦した身においてみれば、なんの今更道を尋ねんとする我が身の滑稽さよ、と嘆かないわけではないが、いや待てよ。初心忘れるべからず。鈴木俊隆いうところのBeginner's Mind も大事大事と、念を押す。

7)法は人を見て説かれるもの。日本の一般衆生に向けた一冊がこの本なら、アメリカの青い目やら様々な国からやってきた人々に説かれるマインドフルネスの技法も、それはそれ、工夫がひとつもふたつも必要となろう。

8)されど、道はシンプル。隘路に嵌れば、また基本に戻って、最初の一歩からまた歩きだせばいいだろう。それが遅くもなく早くもなく、ちょうどよい時にたどり着く、一番いい方法だ。

<3>につづく

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2017/01/27

「上弦の月を食べる獅子」 夢枕 獏<4> 

<3>よりつづく 

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「上弦の月を喰べる獅子」 <4>
夢枕 獏 1989/08 早川書房 単行本 572p
★★★☆☆

1)こちらもまた、今回もう少し楽しく読めるかな、とちょっとは期待していたのだが、結局は、パラパラとページをめくって終わってしまった。

2)螺旋構造が、一段階変わってしまったのだ。いや、一段だけではないかもしれない。さらには二重螺旋構造だったりするのなら、かなりのねじれの関係からすでに脱却してしまっているのかもしれない。

3)もはや帰還は不可能だろう。

4)アーガタや如来を、語感や意味合いで探っている段階はもうすでに終わった。名もなく、また、語るべき方法もない次元があるとするならば、そちらに向かって時間軸も空間軸も移動してしまっている。

5)572ページを費やして語られなければならないこととはなにか?

6)今回は、丁寧に、静かに閉じておく。

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「2001年宇宙の旅」講義 巽 孝之 <3>

<2>からつづく

『2001年宇宙の旅』講義 (平凡社新書)
『2001年宇宙の旅』講義 <3>
巽 孝之 (著) 2001/05新書 平凡社 205p
★★☆☆☆

1)今回もちょっとは楽しみにしながらこの本を開き始めたのだが、どうもだめだった。全体的に、躁的な著者の全体的に飛び跳ねた文章を、ひとつひとつ追いかけていくことに、とてつもない疲労感が伴う。

2)この本を読むとするなら、著者に合わせて、映画のあれこれと、SF小説のあれこれを併読しておかなければならないだろう。それも、幅広く必要となる。すでに同じチャンネルにいて、同じような嗜好の文化に浸っている読者にとっては、物事の再構成となるので、面白いのかもしれない。

3)この本が石川裕人蔵書の一冊だったというのも奇縁だが、石川ならなるほどこの分野をカバーしていただろう。されど、このような飛び跳ねた文章を好んだかどうだかはわからない。

4)私にとってはこの本が「2001年宇宙の旅」から夢枕獏「上弦の月を食べる月」につないでくれた一冊としては感謝しているのだが、その「上弦の月」もまた未消化であることは間違いない。当ブログの裏キーワードであるアガータを浮き彫りにしてくれた、という意味では感謝に堪えないが、それでも、そこまでだったように思う。

5)今回正月を過ぎて、あえて「2001年宇宙の旅」追っかけを再スタートさせたのは、このような躁的心情からではない。鬱とまでは言わないが、もっとずっとずっと静かで落ち着いたトーンの中での出来事である。

6)おそらく、私はこの「講義」を読まないでも、私は私の「2001年宇宙の旅」を楽しめるのだ、ということを、今回改めて確認した。

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「2001年宇宙の旅」 アーサー・C・クラーク <2>

<1>からつづく

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「2001年宇宙の旅」
アーサー・C・クラーク (著),    伊藤 典夫 (翻訳) 1977/05 早坂書房 ハヤカワ文庫SF) 文庫  p270

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 地球でさえ、この方向へすでに何歩か進んでいるのだ。以前なら死んでいるはずの何百万もの人びとが、人工四肢、人工腎臓、人工肺、人工心臓のおかげで、今でも幸福で活動的な暮らしをしている。

 この過程の行きつくところは----それがどれほど常軌を逸したものであろうと----一つしかない。

 最後には、脳髄さえ消えていくのだ。意識の着床する場として、それは絶対的なものではない。電子知能の発達が証明している。精神と機械の対立は、やがて完全な共生という永遠の妥協で終わるだろう・・・・・・・。

 しかしそれが終局だろうか? 神秘主義に傾いた少数の生物学者たちは、さらにその先へ進んでいた。多くの宗教にある信念を手がかりに、彼らは精神もいつかは物質の束縛を逃れるだろうと推測した。

 人工身体も、血と肉の身体と同様に、別の何か、遠いむかし、人びとが「たましい」と呼んだものへの踏み石にすぎないのかもしれない。

 そして、その先にまだ何かがあるとすれば、それは神以外にあるまい。p208「32 ETについて」

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<3>につづく

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「古代一木彫像の謎」仏像の樹種から考える―成城学園創立100周年記念シンポジウム報告書 金子啓明他<3>

<2>からつづく

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「古代一木彫像の謎」仏像の樹種から考える―成城学園創立100周年記念シンポジウム報告書<3>
金子 啓明(著), 岩佐 光晴(著), 藤井 智之(著), 能城 修一(著), 安部 久(著) 2015/12 東京美術 単行本: 159ページ

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<15>

<14>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <15>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

奈良国立博物館データベースより
「国宝 薬師如来坐像」
1躯  木造 榧材 一木造 素地 彫眼 坐像 像高49.7 彫刻 平安時代 9世紀

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<15>につづく

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2017/01/25

「人工超知能が人類を超える」 シンギュラリティ―その先にある未来 台場時生

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「人工超知能が人類を超える」 シンギュラリティ―その先にある未来 
台場 時生 (著) 2016/02 日本実業出版社 単行本(ソフトカバー)  248ページNo.3872★★★☆☆ 

1)いわゆるシンギュラ本の中ではやや面白いかな、という程度。プロフィールに某大学准教授とあるが、なにか出自をごまかさなければならないような、やましい点でもあるのかな。ロボット工学を研究しているというが、前後の成果と見比べなければならない。

2)ほかに著書として「科学仏教」(Amazon KDP)が紹介されているが、どうも怪しいというか、中途半端。

3)巻末の参考文献の中に、「WIRED VOL20」が紹介されている。

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「WIRED VOL.20」 特集 A.I.(人工知能)
(GQ JAPAN 2016年1月号増刊) 2015/12 コンデナスト・ジャパン 雑誌(不定版) 1260ページ WIRED関連リスト

4)中途半端なシンギュラリティ「まで」のプロセスを紹介した本よりも、「その先にある未来」を書いたところは良心的であり、当ブログとの親和性が高いが、だからと言って褒められたものではない。

5)2045年とも2050年ともいわれるそのシンギュラリティとやらを待って、その後の生き方を考えるなんて、どうかしている。そもそも、それまで自分が、人類が生きて存在しているなんて、だれも確信ができない。それまで生きていると断言できる人間は、この地球上にひとりとしていないのだ。

6)だから30年後の、そのあとを考えたりする必要はない。

7)生きるのは今。

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「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」スティーヴン・マーフィ重松<3>

<2>からつづく 

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「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」 <3>
スティーヴン・マーフィ重松 (著),    坂井 純子 (翻訳) (2016/06講談社 単行本: 322ページ

エクササイズ1 

1 足の裏を床につけ、両手を膝の上に乗せて、静かに椅子に腰かけます。
2 目を閉じ、呼吸に意識を集中させます。鼻から吸った空気が肺へと移動するのに注意を向けましょう。吸い込む息は冷たく、出ていくときは温かくなっています。吸ったり吐いたりするたびに空気が体内を移動するのを感じましょう。
3 心配を捨てて、ただ自分の思いを観察し、自分の思いと戦うことなく、静かに意識を呼吸に戻していきます。
4 この練習を一週間のあいだ毎日続け、初日は5分間、その後は1日数分ずつ時間を長くしていきます。 
p56

エクササイズ2

1 自分の弱点について考え、書き出してみましょう。
2 目を閉じて、三回深呼吸をしましょう。その時、鼻から息を吸い込み、口からゆっくりと吐くようにします。
3 自分にこう言いましょう。「私はこのままで大丈夫、私は完璧でなくても大丈夫」
4 目を開いて、最初に書いたリストのそれぞれを受け入れられるようになっている自分に気づくようにしましょう。
p94

エクササイズ3

1 次の質問に5分間考えます。「この地上での私の仕事(目的)とはなんだろうか」
2 自分の考えを10ほど書き出してみましょう。
3 次の質問について5分間考えます。「それをするのにお金を出してもよいと思うほど私が好きなこととはなんだろうか」
4 自分の考えを10分ほど書き出してみましょう。
p126

エクササイズ4

1 よく知っている苦手あるいは嫌いな誰かを、家族・友人以外に思い浮かべてください。
2 その人と自分の共通点(どんな共通の性質や経験があるかなど)を考え、書き出します。
3 できたリストをよく見ます。
4 目を閉じて深呼吸をし、その人を頭に浮かべ、その人について自分がどう感じているかに気づくようにします。
 p162

エクササイズ5

1 アクティブ・リスニングのステップをもう一度確認します。
2 いっしょにいる誰かが話したそうにしていたら、聞き役になってみます。そのために、自分からたくさん話したり、アドバイスしたり、会話のやり取りをしたりしないように気をつけましょう。
p201

エクササイズ6 

1 「平静の祈り」の次の言葉について考えてみましょう。
私にお与えください 自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そしてふたつのものを 見分ける賢さを
2 自分ではどうしようもないことが起きて、無力さやヴァルネラビリティを感じた時のことを思い出してください。その時、どのようにその状況を受け入れましたか。10分ぐらいで書いてみましょう。
3 何かが起こり、その状況を自分の力でなんとかできると感じた時のことを思い出してください。行動に出る勇気をどうやって手にいれましたか。10分ぐらいで書いてみましょう。
4 自分が変えられること、変えられないことをどのようにして知るのかを考えてみましょう。それについて5ふんほどで書いてみましょう。
 p239

エクササイズ7

1 枕元にノートを一冊用意し、感謝日誌とします。
2 毎晩、寝る前に、その日にあった5つの感謝していることを書き留めます。
3 その時、自分自身、自分の人生に関係している他の人、状況、体験などについて書きます。
4 これを最低でも一週間続け、自分がどのように感じているかに気づくようにします。
p273

エクササイズ8

1 次の質問を考えてみましょう。「私がしなければおそらく誰によってもなされないことは何だろうか」
2 これについて10分ほど書きます。
3 次の言葉について考えてみましょう。「人生の目的とは、自分が持っているものを使って自分の最善を尽くすことだ」
4 これについて10分ほどで書きます。
 p311

<4>につづく

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「古代一木彫像の謎」仏像の樹種から考える―成城学園創立100周年記念シンポジウム報告書 金子啓明他<2>

<1>からつづく

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「古代一木彫像の謎」仏像の樹種から考える―成城学園創立100周年記念シンポジウム報告書<2>
金子 啓明(著), 岩佐 光晴(著), 藤井 智之(著), 能城 修一(著), 安部 久(著) 2015/12 東京美術 単行本: 159ページ

1)[カヤ]
 材は均質かつ緻密で、香気・光沢がある。辺材淡褐色、心材は帯褐黄色で、偏心材の区別はやや不明瞭。早晩材の移行は穏やかで、年輪はあまり目立ない。耐朽性、耐水性に優れる。均質でやや高密度による適度な弾力性。木目が目立たない均質性などにより、碁盤・将棋盤に賞用される。気乾比重は0.55(0.47~0.75)。
 

 暖帯性で天然分布は本州東北南部以南。散在性の常緑の大高木で、神社や庭園などで見かけることが多い。 p81「一木彫像の用材樹種の特性」

2)カヤは、東北南部から九州までの広い地域に生育していますが、温暖帯の森林中にぽつぽつと単木的に生育しているのが普通です。

 古代の木彫像が集中的に制作された奈良の周辺では、ヒノキもカヤもごく普通に生えており、古代でも木彫像を制作するための用材を得ることは、それほど困難ではなかったと考えられます。p100「森林を構成するヒノキ、単木的に生育するカヤ」

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3)昔は木彫像を造る場合は乾燥させた材を用いるのが常識と言われていたのですが、しかし、実際に木を彫る作家の方は、硬くなった材はもう彫れないと、とても刃が立たないと言います。むしろ生木のほうがいいのだという意見もあります。

 本当に乾燥して硬くなった材を用いて彫刻することが可能なのかどうか、あるいは生木のほうがよいとすれば、湿り気がある材の方が彫りやすいとすれば、硬く乾燥した材をもう一度湿らせて、それで彫刻をするようなことがあり得るのか、(後略) p144金子啓明「日本の8~9世紀の一木彫像になぜカヤが使われたのか?」

4)造形面の彫り方の問題から見ますと、カヤやビャクダンは木目が非常に緻密ですので、とても細かなところまで彫刻できるし、することに表現上の意味がある、ということが上げられるのではないかと思います。

 ヒノキの場合はそういうごく細かなところまで表現することをそもそも求めているのか、という問題が特に定朝などの場合にはあるかもしれない。定朝などの像の作風は、非常にセンスもよくて細部もきれいですが、全体的にはやわらかな質感というのを大切にする。

 そういうようなことで、最後まで彫り込んでいくということをそもそも求めたのか、ということがあると思いますし、壇像やそれを意識したカヤの像の場合にはそういう細かな細工を追及するとともに、白木をそのまま留めるという像が多く残っています。

 しかし、白木を留めるという考え方が、定朝の特に阿弥陀如来像の場合にはないわけです。表面は金箔を押していますので、そういう場合の仕上げの問題と表現の問題と、それから技術的な大量生産の問題は、やはり総合してみていく必要がありますし、技術論とともに造形の問題がとても重要ではないかという思いがあらためていたします。

 そういうことで、クスノキから針葉樹、ヒノキに変っていくという大きな流れ、木彫像の樹種の大きな展開があるということを、もう一度認識させていただければと思います。p149 金子 同上

<3>につづく

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「シンギュラリティ = SINGULARITY」限界突破を目指した最先端研究 NAIST-IS書籍出版委員会

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「シンギュラリティ = SINGULARITY」限界突破を目指した最先端研究NAIST-IS書籍出版委員会 (編集) 2016/03 近代科学社 単行本: 324ページ
No.3871★★★☆☆ 

1)ひとつの大学が自分たちの研究をまとめたものを内部的にまとめて、それを外部向けに編集し直したもの。卒業論文集を「希望」としたり、学園祭のポスターに「新世代」と印刷したりするのと同じ程度の意味で、「シンギュラリティ」という用語が使われている。

2)かつてはいろいろな言葉が、未来を飾っていた。70年頃でた本では「1999年7の月」が一世を風靡した。地球破滅、人類滅亡、日本沈没。ノストラダムスは、たんにノートルダムという名前に過ぎないのだが、一気にトンデモない意味を負わされた。

3)類似では「21世紀」という言葉もあった。2001年になればこの世はユートピアになる。そのような幻想にも似た、甘い甘い推論があった。その結果がどうであったかは、各人各様の検証にゆだねる。

4)わけのわからない言葉に「革命」というのもあった。命をあらためる。混乱したこの世ではない、素晴らしい革命後の世界。なんの革命かしらないが、とにかく「革命」と言えば、素晴らしいものに見えてきた。

5)精神的な世界では、悟り、覚醒、エンライテンメント。すごろくで言えば「上がり」である。最終地点。完成。最強最上の人間像。この言葉も使われ方によっては、まったく真逆の世界を呼び寄せる魔法の言葉であることはすでに実証済みである。

6)シンギュラリティについても、カーツワイルが提唱し始めた頃はほとんど無視された形であったが、ここにきて、一気に流行語化している。まぁ、やむをえないことではあろうが、ここまで劣化しているとは、さすがにあきれる。

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「インターネットを生命化する プロクロニズムの思想と実践」ドミニク・チェン

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「インターネットを生命化する プロクロニズムの思想と実践」
ドミニク・チェン (著)  2013/07 青土社 単行本: 368ページ
No.3870★★★★☆ 

1)ドミニク・チェン。この頃あちこちで散見するお名前である。名前も独特だが、テーマもなかなか痛いところを突いてくる。1981年生まれということだから、現在30歳代中ばの気鋭の学者、というべきであろう。

2)何の学者であろうか、と思うが、テーマがかなり横断的であるので、せいぜい言って科学者。あるいはインテリとだけ言っておけばいいのかもしれない。学際情報学という分野自体、あやしい(笑)。

3)で、この人が結局、学者、あるいは科学者という分野にとどまっていってしまうなら、おそらくこの人の真の意味は消えていってしまうことになるだろう。

4)巻頭に「東南アジアの歴史学者であった祖父、陳荊和博士の記憶に本書を捧げる。」の一行がある。陳とは、チェンと読むのだろう。この祖父の名前も存じあげないが、いずれにせよ、知性が勝っているDNAを受け継いでいるのであろうし、社会的マイノリティーゆえに、自らの地位を確保するために、学者的ふるまいをする必要がある家系なのかもしれない。

5)20世紀中盤から後半までアメリカで活動した人類学者、そしてサイバネティクス論者のグレゴリー・ベイトソンは、生命の来歴がその形態に刻み込まれることを「ブロクロニズム」と呼んだ。ブロクロニズムは本書の通奏低音を成す概念だ。p011「はじめに」

6)本書のタイトルにもなっている「インターネットを生命化する」ことは不可能である。私がここで断言する必要もないが、それが定説であろう。そこをあえて本のタイトルにしようという若い気概がうれしいではないか。そうでもなければ、若い思潮は、あたらしい芽を出すことができない。

7)最近とみににぎやかになってきたシンギュラリティだが、そしてその周辺に出没するのが、この著者の名前だが、不可能なことを可能にするのが新世代なのだとすれば、それはそれで、大いにそのチャレンジ精神を観戦すればいいのだろう。

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2017/01/24

「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」スティーヴン・マーフィ重松<2>

<1>からつづく 

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「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」 <2>
スティーヴン・マーフィ重松 (著),    坂井 純子 (翻訳) (2016/06講談社 単行本: 322ページ
★★★★★

1)二回目は、もうすこしゆっくりめくってみた。この方、何歳なのだろう。表紙の写真を見る限り、若い人なのかな、と思ったが、文面や動画でみる限り、結構な年輪を感じる。裏表紙の著者プロフィールやネットの人物紹介でも、徹底して生年が表記されていない。

2)マインドフルネスを磨く方法をようやく見つけたのは大学に入ってからだった。ちょうどこの頃、1975年には多くのアメリカ人に瞑想を紹介する革命的な本「The Relaxation Response(邦題:リラクセーション反応)」が出版された。執筆者はハーバード大学の研究者であるハーバート・ベンソンである。p31「第一章 念」

3)仮に1975年に20歳だったとするなら1955年生まれ。我が人生とそれほど大きく時代体験は違ってはいないだろう。アイルランド系アメリカ人の父と、日本人の母を持つハーフではあるが、本人は、どこかでハーフではなくホール(全体)だ、と言っている。

4)この本、もともとは英語なので、欧米人を読者想定して書かれたものだろうが、翻訳も優れていて、日本語として破綻していない。随所に日本や東洋文化の紹介があるが、もともとの日本語テキストを読んでいるような精緻さである。

5)しかしながら、いかに日本にルーツを持つ著者が、日本の文化を紹介しているとしても、伝えるべき相手が欧米人と想定している限り、文章の運びが違う。

6)そして、ここでは瞑想という言葉も使われているが、瞑想へたどり着くためのメソッドとしてのマインドフルネスなのだが、むしろ瞑想より「磨かれたもの」としてマインドフルネスが紹介されているようにも見受けられる。

7)基本は、お互い用語の意味合いをキチンと整合させないで理解しようとすれば、おのずと差異がでてきてしまうのは仕方ないが、それでもまだまだ、互いの整合性が保たれるまでには、相当の文化的成熟期間が必要とされるように思う。

8)そもそもは大学の先生なので、アメリカの学生たちが関心をもつようにつくりあげたカリキュラムであり、読む立場にとっては、かなりな屈折した使い方をしないとこの本はうまく使えない。

9)それぞれの章間にエクササイズが短文で書いてあり、8まである。これをマインドフルネスというのかどうかは、キチンと説明はされていないが、なるほど導入法としてはありうる。ないしは、マインドフルネスとは、このステップを限りなく精緻に作り上げた世界なのか。

10)次回、この書き込みで転写しておくことにする。

<3>につづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<14>

<13>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <14>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<15>につづく

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2017/01/23

「いのちの環」 「白鳩」 「日時計」<7>

<6>よりつづく

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「いのちの環」 「白鳩」 「日時計」<7>
生長の家 2017/02 日本教文社 小冊子 p66 
No.3867~3869★★★☆☆ 

1)今更特別な団体やグループに加入したりする気は毛頭ないのだが、う~~ん、自宅のすぐ側にあるこの団体が、昔からこのような雰囲気だったら、ひょっとしたらひょっとしたかもな、と思う。

2)「日本会議の研究」(菅野完 2016/04 扶桑社)や「戦争を通すな! 」(鈴木邦男×福島みずほ 2015/09 七つ森書館)を読む限り、この団体はただ事でないことは昔から知ってはいるが、その過去があるがゆえに、現在はこういう姿になっているのだ、と知ることは、ほんと驚きである。

3)実は先日、この団体のイベントがその施設内であり、地域に開かれた日であったので、この際だからひと目覗いてこようかな、と思っていたが、残念ながらこちらのスケジュールが合わず参加できなかった。

4)このような団体に、不注意に参加するのもどうかな、と思うけれど、かたくなに拒否したりしていると、逆にいきなり引き寄せられりするから、まぁ、全体としては自然体としてつきあっていくのが一番いいと思う。

5)「生涯現役でいこう」。うん、そのとおりだね。おかげ様で一生やり続けることができる仕事に恵まれているし、幸い健康も大きく崩れていない。生涯現役は、今やわが目標である。

6)「無駄なものは何もない」と知る祈り。それもそうだね。確かに、よくよく考えてみれば、無駄なんて何もない。結局役立つ。当ブログが廃物アートに凝っているのも、そのせいかもな。

7)「偏りのない文明へ」「脱都会の選択がある」。これもごもっとも。その通りだと思います、ってうなづいては見る。しかし、脱都会といえば、私は最初からずっとそうだった。そう思ってきた。その「都会」が大都会を表しているのなら、その通りだ。しかし、地方の小都市もまた「都会」と見るなら、私は完全な「脱」都会とは言いにくい。

8)私は田舎にずっと暮らしてきた、と思ってきた、いやいやどうしてどうして。もっともっと自然の真っただ中というものがある。そんな大自然の中でなんか、私は生きていけないだろう。そのような生活力を失っている。

9)私は脱都会というより、小都市の片隅で、それほど大きくないネットワークの中で静かに生きていきたい。出勤ラッシュや激しい生存競争などはゴメンだ。かと言って、交通も文化施設も医療も教育も、基本的に構成されている空間に生きていたいよなぁ。

10)しかしまた、なんでまたこの団体、いまさら「脱都会」なんて言い出しているのだろう。それはあまりに「大」都会にいすぎたからじゃないか。今だって、おそらく「都会」の機能なくしてはこの団体は存在しえない。せいぜい、主だった施設を最近森の中に移動しましたよ、というだけなんじゃないか。

11)その証拠に、わが近所のこの団体ブランチは、これから森の中に移動しよう、という動きはなさそうだ。何十万かのメンバーに支えられて、主だった人々が森に入った、というだけだろう。それを「脱」都会といまさら仰々しくいうのは、すこしく欺瞞的すぎるだろう。

12)この団体、思想団体から、ファッション団体に鞍替えしているのかな。でも経典らしきものは古色蒼然としたものだ。パッケージを変えただけ、なんてことにはならなければいいなぁ。

13)新しい酒は新しい革袋に入れるべきだ。いや、新しい革袋ができたのだから、新しい酒を造るべきなのかもなぁ。

<8>につづく

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「戦争を通すな! 」 鈴木 邦男×福島 みずほ

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「戦争を通すな! 」
鈴木 邦男   (著),    福島 みずほ (著) 2015/09 七つ森書館 単行本 222ページ
No.3866★★★★★

1)この本を手に取ったは、本のタイトルはちょっと変だな、と思いつつ、対談の片割れの鈴木邦男に関心が湧いたからである。

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2)先日、当ブログでも「日本会議の研究」(菅野完 2016/04 扶桑社)を取り上げたが、当然あの本でも、鈴木邦男は登場している。しかも日本会議のルーツとしての生長の家における、立ち上げにかかわる大きな位置を占めるキャラクターとされている。

3)僕は父よりも母から思想的影響を受けているんです。母は当時、愛国的な宗教だった「生長の家」に入信していたし、天皇陛下の話もしていました。p37 鈴木邦男 「愛国有理」

4)母親が生長の家という宗教団体に入っていて、ごくふつうの親孝行な子どもだったから、中学・高校のときは、話をそのまま素直に信じて、聞いていたんですね。それで、大学に入学して実家のある仙台から東京に来たのだけど、(中略)僕は生長の家の寮に入ったのです。

 ただ生長の家が経営しているだけの自由な寮だと勝手に思って、そうしたら、厳しく宗教的な寮だった。

 「いま日本は危ない。社会党や共産党は日本を潰そうとしているんだ」と温和な人たちがみんないうので、そうか、と素直に信じていました。大学ではストライキとか授業料値上げ反対闘争などが盛んだが、あれはただの口実で、実際のところは党の指令で、革命思想のためにやっているのだという話を、言われるままに信じた。 

 だから、それに反対する、といってビラを撒いたら、いきなり全共闘の人たちに囲まれて、ポカポカと殴られてしまった。それで、「お前ら右翼だ!」といわれて、え、右翼って何だ? って。その頃から右翼と意識するうよになった(笑)。 p112鈴木邦男「え? オレって右翼なの?」

5)生長の家の場合は、そうではないけれど、当時は非常に愛国主義的な宗教でした。(福島:いまは?) 総裁はもう3代目ですし、政治的な要素は全然ないですね。初代の谷口雅春先生は宗教者であると同時にもうすごい愛国者で、愛国的な本もいっぱい出していました。

 いま日本は重大な病に倒れているのだ、だから救わなくてはいけない。学生もみんな立ち上がれ、デモをして、左翼と闘えと。だから、僕らは、僧兵みたいな感じでしたね。p115 鈴木邦男 同上

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6)鈴木邦男本人も、生長の家も、かつてのカルマがかなり大きいので、「今は違います」って言っても、イメージはそう変化することはない。実際に「日本会議の研究」でも、ネット情報でも、この周辺については、さまざまなゴシップやスキャンダルが山積みで、通りがかりの当ブログとしては、その真贋を見定めることはしない。

7)それは昔です、というなら、それはそれでいいけれど、この対談でいえば、私は当然福島の方に近い意見なのだが、この本においては、両者とも、かなり似通った結論に導かれている。

8)だとするなら、鈴木も某団体も、当時からもっと慎重な言動に終始していたら、これほどこんがらかった状況にはならなかったのではないか、と残念に思う。知らないよ、と言いつつ、やはり、現政権なり、某会議団体なり、ネトウヨとやらに、悪影響を与えることはもっと少なかったのではなかろうか。

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2017/01/21

「『走る原発』エコカー」 危ない水素社会 上岡直見<6>

<5>よりつづく

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「『走る原発』エコカー」 危ない水素社会 <6>
上岡 直見 (著) 2015/07 コモンズ 単行本  134ページ
★★★★★

<6>パンク!

1)自宅からクルマに乗ろうとしたら、あらら、パンクしている。なんと、パンクなんてもう何年振りだろう。このクルマに乗って6年目で初めてだ。少なくとも前に乗っていたリッターカーも11年間ノーパンクだった。その前に7年間乗っていたステーションワゴンは確か乗り始めた頃に一回パンクがあった。

2)だから6+11+約6=で、おそらく20年ぶり以上の出来事である。

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3)しかも、驚いたことに、この冬タイヤは、昨年10月末に新品を購入して交換したばかりだから、なんと3か月も経過しないのにパンクである。あら~~、不良品をつかまされたかなぁ~~~~。

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4)と、あれこれタイヤを点検してみると、またまた、な~~~んと、タイヤの溝にきちんと木ネジが一本刺さっていた・・・・・・・(涙)

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5)そういえば、さっきホームセンターに行った時に、あそこの駐車場のガラクタ前で拾ってしまったのかなぁ。残念。

6)さっそくエマージェンシー用のタイヤに交換し、購入した近くのカーコーナーへ。ここではパンクは購入後一回目まで無料修理サービスということで、ちょっとホッとした。しかし、症状は重く、パンク修理剤を二個使ったらしい。これからも油断は禁物とか。

7)どっちみちタイヤのローテーションで近々カーコーナーにお世話になろうと思っていたので、ついでにやってもらった。しかし、パンク履歴のタイヤは前にはつけられないということで、部分ローテーションで終わり。

8)おそらく高速でもバーストはしないでしょう、ということではあるが、すこしづつ空気が抜ける可能性はあるとのこと。う~~ん。クルマを世話し続けることもなかなか大変なことだなぁ。

つづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<13>

<12>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <13>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<14>につづく

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2017/01/20

「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」スティーヴン・マーフィ重松<1>

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「スタンフォード大学 マインドフルネス教室」<1>
スティーヴン・マーフィ重松 (著),    坂井 純子 (翻訳) (2016/06講談社 単行本: 322ページ
No.3865★★★★★

1)出版以来、ずっと待っていた本である。ようやく私の順番が来た。さっそく手に取ってみる。パラパラと全体を触ってみて、どこかどんどん冷めていく自分がいる。あんなに待っていたのにな。

2)この本に対する私の評価は厳しい。いや、個別にこの本に対する評価が厳しいというより、マインドフルネスというものを本で知ろうとする、自らの態度に対して厳しい、と言い換えたほうが、より正確かも入れない。

3)本の内容としてはこれでいいのだろう。この人がこれ以上の何を書くことができるだろうか。あるいは、この本を必要としている人にとっては、ある意味、至れり尽くせりの良本ではないか。

4)そう、タイミングの問題だ。この本を必要としている人にとってはとても良い本だ。しかしタイミングが外れていれば、役に立たないクソ本となる。私はこの本のタイミングにいないのだろう。そして、私はマインドフルネスというキーワードで、この本になかった、なにか他の別のことを求めている。

5)もし、この本を読む私のベストタイミングというなら、今から30年前、インドから帰り、日本の社会の中で、どのように定着していくべきかを盛んに考えチャレンジしていた頃、あの頃、この本が欲しかった。

6)自ら経済的体制を整え、家庭環境を整え、時間に余裕を持たせ、カウンセリング研究所に通い、大学で臨床心理の勉強を再開し、電話相談員をしていた頃。セラピストとしての訓練を重ね、クラインアントと対面し、産業カウンセラーの認定を受け、公的施設での面談を重ねていた頃。

7)小学2年生の春休みに父が亡くなった。あの時漠然とした死という実態への直観。10代の頃、路上で売られていたミニコミに瞑想という文字を見つけた頃。近くの禅寺に通い、参禅の日々を送っていた頃。

8)探求の旅が始まり、編集活動の中でのネットワークづくり。そしてインドへの旅。帰国後、また学生生活が再開し、結婚もした。子供たちが生まれ、家庭生活が始まった。

9)あの頃までの私なら、きっと、この本はとても役にたったと思う。欲しかったけど、これほどまとまった本などなかった。だから手探りでさまざまな彷徨を繰り返した。

10)学生期、探求者期、帰依者期。仮にそのようなものがあるとするならば、まずは学生期にいる人々にとってこの本は良本である。現在ある本の中でもベスト本の中の一冊になる。探求者期にいる人々にとっては、自らのプロセスを検証するよい傍証となるだろう。

11)しかし、帰依者期にいる人々にとっては、最優先本とはならないだろう。若き人々が今現在どのような環境にあるのかを知り、また自らの若き日々を振り返る、というチャンスには使えるだろう。有効な使い道はある。

12)当ブログは帰依者期にいる。求められるべき世界は無限にあり、その歩みが止まることはない。何を求めるべきかは、あらかじめ分かっているわけではない。分かってしまっているのなら歩みそのものが不要のものとなる。

13)注意深く、周囲に目を凝らす。そしてそれを使って自らの中を見る。どんなものでも振り返りのチャンスにはなる。されど、きっともうそれは本の中にはないのである。

14)ないものねだりをしている時はもう過ぎている。本の中にないものを探す旅を、本を使って続けている。

<2>につづく

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2017/01/19

仏陀の存在を凝視する 『オレンジ・ブック』 OSHOの瞑想テクニック<3>

<2>よりつづく


「オレンジ・ブック」OSHOの瞑想テクニック <3>
OSHO ホーリスティック・セラピー研究所 1984/04 単行本 245P

仏陀の存在を凝視する

あなたの部屋の中に小さな仏像を置き
いつでも暇なときにその像をただ見るがいい
仏像というのは、ただの肖像としてつくられたものではない

それは瞑想の対象としてつくられた
それは現実の仏陀を描写はしていない
彼はそれに似てはいなかった
それはひとつの隠喩(メタファー)だ

仏陀の肉体的な姿を表現するよりは、むしろ彼の内なる慈悲を表現している
彼がそっくり同じ姿、同じ顔立ち、同じ目鼻だちだったということはない
それはまったく肝心な点ではない
それは超現実的なものだ
いわゆる現実(リアリティ)を超えた<実在(リアル)>の何かを伝えている

つまり、それはヤントラだ
人は、ただそれを見るだけで瞑想のなかへと落ちて行ける
だからこそ、幾千となく仏像が刻まれた
仏陀ほど多くの彫像をもつ者は他にいない

瞑想的な雰囲気をつくりだすためだけに、単独で1万体もの仏像を擁す寺院がいくつもある
どこに目をやろうとも見えるのは仏陀だ
どこもかしこも仏陀の姿、仏陀の存在、その沈黙、その慈悲、閉ざされたその両眼、静穏なその姿態
その均整、その調和----

それらの仏像は大理石の音楽、石の説法だ OSHO p177

<4>につづく

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2017/01/17

「仏教美術の基本」 石田 茂作・ 「装飾のハンドブック」フランツ・S・マイヤー

 

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「仏教美術の基本」
石田 茂作   (著) 1967/03 東京美術 ハードカバー函入り 481ページ
No.3863★★★★☆

1)今東光のCD講話「合本 極道辻説法」2013/12 ソニー・ミュージックダイレクト CD2枚)を聞いていて、ふと聞きなれない仏さんの名前が飛び出してきた。いや、毎回聞いてはいたのだろうが、今回だけはなにか、ピンときた。「いちじきんりんぶっちょう」・・・? はぁ?

2)漢字で書くと「一字金輪仏頂」。どうやら東光和尚が住職をつとめていた岩手県平泉の中尊寺にある秘仏であるらしい。どんな仏さん? ネットで画像検索。

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3)なるほどこんな方か。東光和尚によれば、和尚と同じ津軽出身の版画棟方志功はこの仏さんに惚れちゃって、抱き着いてキスしちゃったという。色が白くて、なかなかお美しい方である。

3)と、ふと見ると、この印にどこか覚えがあるし、ピンときたものがある。そうそう、あれだ。昔私達が作っていたミニコミ雑誌「時空間」12号(雀の森の住人たち1975/11) の表紙、実質的に休刊号になってしまった、あの時の・・・・。

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3)実は最近、この仏さんはどういう名前なんだろう、なんて、本当にそんなことを考えていたのだ。出典は大体わかっていた。当時所蔵していた「仏教美術の基本」を参考にしたのだ。今回、改めて探してみた。

4)確かにp239にあった。当時のルビでは「一字金輪大日 中尊寺」とある。こんりん、と呼ぶ場合もあるようだが、今東光和尚は、きんりん、と呼んでいた。

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5)この印だけでは判別できないが、頭にかぶっている(仏頂)頭巾、さらには光背にある火の玉のような文様は独特の形式である。私は知らず知らず、この仏さんに呼ばれていたのだ。

6)しかし、私のデザインは、この仏さんを基に曼荼羅かなにか作ろうとしたようだ。実際には一字金輪曼荼羅というものが存在するのだが、私は当時そこまで頭は回っていなかった。

7)この檻のような格子模様は、これもまた当時所有していた一冊からインスピレーションを受けたものだった。

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「装飾のハンドブック」
フランツ・S・マイヤー 1966/01 東京美術 ハードカバー函入り p487
No.3864★★★☆☆

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8)しかしまぁ、これだけ劇的に、この仏さんがつながってくるとは思ってもみなかった。まさに40年間のミッシングリンクが今まざまざとつながっていくようだ。表紙に使ったさまざまなシンボリズムは、当時の自分なりにインテグラルを試みた結果であろう。

9)いまこうして縁がつながって、彫刻刀でなにやら彫り出していることと、どこかでつながっているのだろう。ミッシングリンクがつながっていく。

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2017/01/16

「夢十夜」 夏目漱石

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「夢十夜」
夏目 漱石   (著) 青空文庫 フォーマット: Kindle版 ファイルサイズ: 178 KB 紙の本の長さ: 85 ページ
No.3862★★★★★

第六夜 

 「さすが運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」と言って賞め出した。 

 自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、その男は、すかさず、「あの鑿(のみ)と槌(つち)の使い方をみたまえ。大自在の妙鏡に達している」と云った。 

 運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪(たて)に返すや否や斜(は)すに、上から槌を打ち下ろした。堅い木を一と刻みに削って、厚い木屑(きくず)が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒りの鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀(とう)の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挟(さしはさ)んでおらんように見えた。 

 「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉(まみえ)や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言(ひとりごと)のように言った。 

 するとさっきの若い男が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずがない」と云った。 

 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家に帰った。 

 道具箱から鑿と金槌を持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風(あらし)で倒れた樫(かし)を、薪にするつもりで、木挽(こびき)に挽(ひ)かせた手頃な奴が、たくさん積んであった。

 自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当たらなかった。その次のにも運悪く掘り当てることができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片っ端から掘って見たが、どれもこれも仁王を蔵(かく)しているのはなかった。

 ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。16/28「第六夜」

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2017/01/15

「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<12>

<11>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <12>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<13>につづく

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2017/01/14

「死にゆく人と共にあること」 マインドフルネスによる終末期ケア J・ハリファックス<1>

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「死にゆく人と共にあること」 マインドフルネスによる終末期ケア<1>
J・ハリファックス (著),    井上 ウィマラ[監訳] (翻訳),    中川 吉晴 (翻訳),    浦崎 雅代 (翻訳),      & 2 その他 2015/4 春秋社 単行本(ソフトカバー): 352ページ
No.3861★★★★★

1)昨年後半から、マインドフルネスというキーワードで図書館に何冊かリクエスト中である。運よくすぐ読めた本もあるし、もう半年待っているのにまだ私の番にならない本もある。

2)その中にあってこの本はすぐに私の番になった本であり、続いてリクエストも入ってはいなさそうだ。本にも人気不人気があり、この本はひょっとする不人気本なのかもしれない。

3)そんなななめ心で手に取った本書ではあるが、極めてよい本である。おそらくすでに2年前の本なので、新刊本というジャンルからはやや外れてきたのでリクエストがしやすくなっているのだろう。

4)1942年生まれのアメリカ人女性。医療人類学者。仏教、特に禅の世界についての造詣が深い。この本の成り立ちはともかく、日本の仏教書を読んでいるような感覚にさえなる。しかし、中途半端で終わらずに、徹底した岩盤があるかのような理知性はよく悪くも、欧米人による一冊であることを思わせる。

5)翻訳も、複数の人々が関わっているようだが、出版社が春秋社ということで、破綻がない。読んでいてこれでいいのだ、と思う。

6)ウパーヤ禅センターには、ブッダの育ての母であるマハーパジャパティの美しいブロンズ像があります。その表情は穏やかで、右手を上にあげて、手のひらを外に向けています。これは「施無畏(せむい)(訳注・恐れのなさを提供する)」という名で知られるポーズです。死にゆくプロセスとともにあることへと入っていくとき、私たちが他者と自分自身に与えることのできるいちばん大切な贈り物は恐れがないということです。p109「施無畏」

7)よくぞまぁ、この本でこの言葉を取り上げてくれたと思う。20歳前後の時、私を大きく仏教の世界へと後押ししてくれた祖父が、それから10数年後に亡くなった。その際、形見分けのような形で、遺品整理していた時、見つかった祖父の手帳に書かれていた言葉がこの「施無畏」だった。まるで、私にとっては宮沢賢治の手帳から見つかった「雨ニモマケズ」のような言葉だ。

8)この言葉を知ったあと、私はあえてその字義を探索しなかった。ずっとこの言葉を心の中で温めていた。「施」と、「無」と、「畏」と、三つの漢字でできているこの言葉。

9)施しにはいくつかの例がある。物品、金品による施しもある。時間や、行為による施しもある。道を教え、人々を導く施しもある。「自未得度先度他」もまた祖父から「人生で最も大事なもの」という問いに対する答えとしてもらった言葉だが、菩薩の道として、施無畏は、極めて純度の高い行為であると、感じられた。

10)無は仏教の根幹をなすキーワードだが、この場合は、次に連なる言葉の否定形として使われている。「畏」。畏怖という言葉はあまり多用はされないが、とにかく恐れや怖がることを表しているのだろう。

11)人々が畏れ無いように、態度や言葉や、ふるまいで施す行為。不安を取り除く、心を安ずる、安心させる。いくつかの技法の上に存在する心構えとして、カウンセリングに立ち会う時に、私が最も基本としてきた姿勢だ。また、日常的な業務のうえでも「あんしん」は実に大事なキーワードであり続けてきた。

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12)祖父の農家の屋敷林には樹齢1300有余年と言われるカヤの木があった。いまでも市の名木選に数えられている古木だが、住宅街となって数年前に伸びきった枝が間伐されたことがある。その時の切り取られ、廃材となった枝で、最近、薬師瑠璃光如来像を彫り始めたところだ。

13)右手が施無畏印、左手には薬壺を乗せているが、メディスン・ブッダと英訳されるこの壺に入っているのは、メディスンのもっとも純化されたもの、メディテーションであるはずである。

14)ホスピスを訪れたこともあるし、死にゆく人々とともにあったこともある。最近私は40数年来の古い年上の友人を失った。彼もまた家族に見守られながらホスピスで最期の日々を送った。彼は最後の最後に、人々の役に立つようにと、自らの亡骸を大学病院の研究用に献体するよう遺言して亡くなった。

15)私は決して彼のためにこの薬師瑠璃光如来を掘り始めたのでもなければ、そのことばかりを思っているわけではない。しかし彫り進めるにつれて、いつも傍らにあの大きな目と大きな体で、彼が後ろから私を抱いてくれているような思いになる。

16)回向しているつもりはなかったのだが、私は私なりに、彼への思いを整理しつつ、ひと彫ひと彫り、進めている。

<2>につづく

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「シリコンバレーで起きている本当のこと」宮地ゆう

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ルポ「シリコンバレーで起きている本当のこと」

朝日新聞参フランシスコ支局長 宮地ゆう 2016/08 朝日新聞出版 単行本: 208ページ
No.3860★★★★☆

1)タイトルだけ見て図書館から借りてきた一冊。なんとなく面白そうだなぁ、と途中まで読みかけたが・・・・・。

2)はて、待てよ、と我に返った。たしかにシリコンバレーは面白そうだ。気になることは木になる。しかしながら、現在は、瞑想とかマインドフルネスへとターゲットが切り替わりつつある。なにをいまさら、シリコンバレーなどにうつつを抜かす必要があるだろうか。

3)一旦ページを閉じて、手を放してしまったあと、また再び待てよ、意識がシュンとなった。アップル、グーグル、ヤフー、フェイスブック、アマゾン、などなど、現代世界の「トップ企業」の名前が列挙してある。シリコンバレー・・・?

4)そうそう、この世界の人々が現在「マインドフルネス」ブームを持ち上げているのであった。いや、彼らが「やっている」からこそ、世界はこのシリコンバレーと関連づけてマインドフルネスを考え始めているのだし、また、当ブログも自らの新しいテーマとして取り上げようとしているのではないか。

5)書いているのは朝日新聞参フランシスコ支局長、すでに朝日新聞に連載されたルポート記事に大幅に手を加えて編集されなおされている一冊である。

6)サンフランシスコやシリコンバレーを車で走ってみて驚くのが、ガタガタの道路だ。道路標識が半分落ちかけたままの場所もある。

 地元に世界1、2位の時価総額の企業がありながら、自治体は財政難にあえぎ、インフラ整備にも十分なお金が回らない。IT企業の税金逃れに原因を求める声も上がる。p4「はじめに」

7)報道を通じて私が知っているシリコンバレーの姿も、ひとつの断面ではありそうだ。しかし、その地を訪れたことのない身には、わからないことがいっぱいありそうだ。経済格差、労働風土、精神性、地元民のホームレス化。

8)ルポを書いているのは、新聞記者である。しかも日本社会では今や旧態依然化してしまっていると思われる朝日新聞の記者だ。若者やネットワーカー、企業家など、視点がまったく違えば、書かれなかった風景もたくさんある。

9)現在の当ブログの視点は、おそらく、新聞記者にもネットワーカーにもどちらにも偏ってはいないだろう。どちらも必要だと思うし、関心がある。されど、そのどちらもメインの視点ではない。社会観察しようとしているわけでもなければ、今から起業しようとしているわけでもない。

10)シリコンバレーの主な地域とサンフランシスコ市を合わせると、ホームレスの人口はニューヨークとロサンゼルスに次いで全米で3位の多さになる。

 普通に仕事をしていた人たちがあっという間に家を失う。シリコンバレーでは、誰もがそんな危険と隣り合わせている。p70「富を生み出す街の知られざる顔」

11)ノマド生活や、キャンピングカーのライフスタイルなど、断片的な画像を一・二枚見せられる段階では、あら~~こんな暮らしぶりもいいなぁ、などと、郊外の緑一杯のフィールドなどとともに眺めていることもある。しかし、じっくり考えてみると、自分にはできない生活なのだ。ある意味、必要に迫られている彼らのノマド生活も、新聞記者から見れば、それは「ホームレス」と切り捨てられる。

12)技術の集積と巨大な富は、人の生活に何をもたらすのか。

 今後シリコンバレーはどのような変化を遂げるのか。

 この場所は、日本の社会の今後のあり方を考えるうえでも、貴重な視点を与えてくれている。p205「おわりに」

13)いたずらな舶来信仰は恥ずべきであり、とりとめのない社会議評もいつまでも続けるべきではないだろう。この本で確認しておくべきは、マインドフルネスをしているからエリート企業が成り立っているのではなく、マインドフルネスに打ち上げられてしまうほどに、エリート企業に働く人々の生活は、実はとても不安定なものである、ということについてだ。

14)こういう背景の中で、現代社会のマインドフルネスを考察していく必要がある。

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2017/01/13

「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<11>

<10>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <11>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<12>につづく

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OSHO 現代世界のマインドフルネス 「Mindfulness in the Modern World」 <16>

<15>からつづく

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「Mindfulness in the Modern World」
How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? <16>
OSHO 2014/04 Griffin 英語 ペーパーバック 254ページ (Osho Life Essentials)  目次
★   工事中 

 あなたは自分を、正面ではあなたのマインドを置き、片面では熟考に置くという二分化することはできない。あなたの意識を二つの部分に分けることに可能性はない。もし可能性があるとすれば、実際はないが、議論を目的として、私はあなたの意識を熟考のためと、もうひとつは他のもの、あなたではないものに分離する可能性について話してみよう。

 他のものはあなたのものではない。言い換えるならば、外在物はあなたではない。あなたはそれ以上分割できないものである。あなたを外在物に変化させることはできない。

 それはちょうど鏡のようだ。鏡はあなたを映す、鏡は世界のなんでも映す、しかしこの鏡そのものが映るようにすることができるだろうか? あなたは鏡をそれ自身の前に置くことはできないし、もし鏡を正面に持ってきても、その時鏡はもうない。鏡は自分自身を映せない。

 意識はちょうど鏡のそのものだ。あなたは意識をなにか外在物のために使うことができる。それを何かの外在物の集中のためになら使うことができるし、何かの物事の熟考になら使うことはできる。

 使われるべき言葉がないために、メディテーションというのは正しい言葉ではないが、英語でも受け入れられていている。中国や日本の国々でも同じ状況のだったために、ディアナという言葉が使われてきている。二千年の前の昔、仏教僧が中国に入り、ジャイナという言葉を翻訳するべき言葉を探そうとしてきた。

 ゴータマ・ブッダは決して自分の言葉としてサンスクリットを使わなかった。彼の言語はパーリ語だった。サンスクリットはブラフマンの聖職者たちの言葉だった。そしてブッダの基本的な革命の部分だが、聖職者たちはそれを捨てるべきだし、そうすれば彼らの商売がなくなるだろう。人は存在に直接つながることができる。べつに代理人など必要ない。仲介者を通すことはない。

 シンプルに理解しなさい。あなたは、仲介者を通じてあなたのガールフレンドやボーイフレンドを愛することはできない。あなたは「キミ、ちょっと私の最愛の妻のところに行って愛してくれるなら、10ドルをあげるよ」とは誰にも言うことができない。

 召使だってできないだろう、最愛の人に誰もできない、できるのはあなただけだ。召使を使ってでは、最愛の人を愛することはできない。さもなければ金持の人々はこの面倒くさい出来事にまったく頓着しないだろう。

 彼らは十分な召使たちを従えている。金も十分あり、召使を送ることができる。一番の召使を選ぶことができるし、そうすれば、何も彼ら自身、気をつかう必要はない。そうなれば、あなた自身でやるべきことはそんなに多くない。召使はあなたのために眠ることもできないし、あなたのために食べることもできない。

 聖職者たちは何をやっているのだろう。彼らは、あなたと存在、あるいは神、自然との間の、存在との仲介役の召使以外の何ものではない。ヨハネ・パウロ法王の世界にむけたメッセージによれば、神と直接つながりを持つことを試みるのは罪だと諭している。罪! 

 あなたは正当に認められたカトリック聖職者を通して神とつながらなければならない、すべてが正式なチャンネルを通して進められなければならない。これは明らかに階級であり、官僚主義であり、あなたは司教、法王、聖職者を避けて通ることができない。 

 もしあなたが彼らを避けて通ったら、あなたは直接神の家に入ってしまう。これは許されない、それは罪なのだ。私はこの法王が、人は彼は正式な代理人を必要とし、人は存在や真実そのものとつながるような生得権は持っていないという。これを罪と呼ぶような神経を持っていることに、本当に驚いた。 

 だれが正式な代理人と決めたのかね? 世の中には300もの宗教があり、それぞれに階級を持っている。他の299の他の宗教はガラクタで、彼らの聖職制度だけは絶対的な必要性で存在すると言っているのだ。これは絶対的に不必要であり、あなたを力づくで避けて通れないようにしているだけである。 OSHO  p27~29/254          (p24~26/198)

<17>につづく

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2017/01/12

「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<10>

<9>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <10>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<11>につづく 

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2017/01/11

「高畠華宵」 大正☆昭和レトロビューティ 松本品子編集

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「高畠華宵」大正☆昭和レトロビューティ 新装版
松本 品子 (編集) 2011/12/22  河出書房新社 単行本(ソフトカバー) (らんぷの本/マスコット) 135ページ
No.3859★★★★☆

1)昨日、図書館の芸術コーナーを覗いていて、たまたま見つけたので借りてきた。たかばたけかしょう、と聞いても私にはピンとこない。高畠華宵、という名前なら、もしや、とは思うが、まだ確かではない。しかし、この三白眼の少女たちのイラストを見れば、ああ、この人だと思う。

2)1974年ごろ、この人の画を特集した当時のグラビア雑誌があったはずだ。今となっては、誌名も思いつかないが、このインターネットの時代、どうしてもというなら探し出すことも可能だろう。なにはともあれ、私はその中の一枚のイラストに釘付けになった。

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3)大正ロマンを彷彿とさせる当時の代表的イラストレーター高畠華宵の代表的な作品ではなさそうで、この本にもこのイラストはでてこない。彼の美少年の絵ならむしろ、こちらのほうが有名で、さもありそうな図形である。

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4)まるで若き日の丸山(美輪)明宏を思わせるような美少年画である。インターネット時代でなければ、私はこの画家を思い出すことはなかっただろう。ある時、ふと「美少年 大正 挿絵」とかで検索して、ようやくこの画家との再会あいなったのだった。

5)例の絵を見た時、私はまだ10代の最後、ただただひたすら情熱だけ持て余し、その矛先をどこに向けたらよいか、わからない時代だった。私はふと思う。あの時の、私のような情熱の状態だったら、「大義」さえ与えられたら、なんでもやったのではなかったろうか。

6)正直、あの時、特攻隊員の精神状態がわかるような気がしていた。「革命」に命を賭けるなら、賭けてもいいな、と思っていた。死んでもいいや、と、むしろ、死に場所を探していたようなところもあった。

7)ふと、当時の日本社会党委員長浅沼稲次郎が17歳の右翼少年山口二矢に刺殺された事件さえ彷彿とさせる。

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8)昨今、イスラム原理主義者などの自爆テロなどが拡大する傾向にあるが、その良し悪しはともかく、そして、チャンバラなら、漫画だろうが「スターウォーズ」だろうがバトルゲームだろうが、まったく大嫌いな現在の私ではあるが、私の中のどこかにか、この情熱と相通ずるものがあったように感じ、不思議に思う。

9)私は例の絵に刺激されて、当時編集していたミニコミ誌「時空間」のシルクスクリーンの表紙をデザインした。

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10)当時、この少年の刃の矛先が「星の遊行群」に向かっていたことに気づいた読者はどれほどいただろうか。「星の遊行群」誌編集についてのいきさつについては別に書いたので、繰り返さない。しかしながら、本当に、どうしようもない行き場のないパトスを私は抱えていた。今となっては説明不能な部分もあるが、何事かに対する違和感が、結局あのような動行へとつながっていたことを、今もまざまざと記憶する。

11)さて、私は、ごく最近になって、あの絵の少年が戦っていたものの正体を知った。

20140228111036049  豹(ジャガー)の眼 少年倶楽部/大日本雄弁会講談社

12)なんと、かの美少年剣士が戦っていたのは、獅子というべきか豹(ジャガー)というべきか、目の前の獣だったのである。私には、あの少年はスピリチュアルな存在に思えていた。なにか空なるものと戦っているような、空なるものへと向かう戦いをしているようなそんな気がしていたのだ。すくなくとももうすこし崇高なものであってほしかった。

13)でも戦っていたのは、獣だった。そう知って、ちょっと目が覚めた。この獣、どこから来たのだろう。ジャングルで出会ったのだろうか。それとも敵が少年と戦わせるために檻から放ったのか。

14)今の私なら、わが内なる邪悪なる獅子との対決の場面を想定する。高畠華宵にはたくさんの作品群があり、これと言って探し出さなければ出てこない一枚である。これまで、なんとなく心に引っかかっていたので、ここに忘備録としてメモしておくことにする。

つづく・・・かも

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2017/01/10

「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<9>

<8>からつづく 

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <9>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<10>につづく

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OSHO 現代世界のマインドフルネス 「Mindfulness in the Modern World」 <15>

<14>からつづく

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「Mindfulness in the Modern World」
How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? <15>
OSHO 2014/04 Griffin 英語 ペーパーバック 254ページ (Osho Life Essentials)  目次
★   工事中 

 集中は一つの点に向かう。熟考は広い視野を持っている。あなたは美について熟考する。そこは何千という美があり、あなたはこちらの美からあちらの美へと動き続けることができる。あなたは美についてのたくさんの体験を積む。こちらの体験からあちらの体験へと。

 あなたは外的な物事の狭さにとどまり続ける。熟考はちょっと広い集中だ、たしかに一点集中ではない、だがひとつの外的存在の狭さにおいてだ。あなたは動き続けるだろう、そしてマインドも動き続ける、しかし外的物事の中にとどまり続ける。

 哲学は方法として熟考を使い、科学は集中をその方法を使う。熟考のなかで、あなたは自分の目的としている外的物事の他のすべてのことを忘れてしまうだろう。主観的世界は広い、あなたはもっと動いていえる広さを持っている。

 集中においては動いていける広さがない、あなたはもっと深く深く、狭く狭く移動して、もっともっと一点になるだろうが、あなたは動きまわれる広さを持たない。このように科学者は狭い視野の人々だ。こんなことを私が行ったらあなたは驚くだろうがね。

 科学者はとても広いマインドであるべきだと人は思うだろう。そうではない。その主体性を見る限り、彼らは完全に広いマインドであるように見える、彼らは完全に公平に自分の定理についての反論を聞く準備はできている。

 しかし、特定の例外を除いて、彼らはもっと偏見的であるし、通常の人々よりもっと偏狭である。それは彼らが、他のことをよく検討せず、なんであれ社会が信じているものを単純に受け入れているという理由による。

 たくさんの宗教的な人物たちは自慢する。「見なさい、彼はこんなに偉大なる科学者だ、ノーベル賞受賞者だ」とかなんとか、「それなのに、まだ彼は毎日教会に来ている」。彼らは教会に来る科学者は、ノーベル賞受賞者ではないことを、完全に忘れている。

 教会に来ているのは科学者ではない、教会に来ているのは科学的な部分を除いた男なのだ。そしてこの科学的な部分を除いた男は、誰よりもだまされやすい男なのだ。というのも、他の誰もが開放的で、友好的で、物事について考え、宗教は正しいと比較検討し、時々は他の宗教についても読み、そして常識的な感覚を持っているのに、科学者たちはそれを持っていないからだ。

 科学者になるためには、あなたはもうすこし、例えば常識的な感覚を持たなければならない。常識的な感覚は、常識的な人々の、常識的な品質だ。科学者は非常識的な人物だ。彼は非常識的な感覚を持っている。常識的な感覚ではあなたは相対性原理を発見することはできない。常識的感覚でなら、あなたは他のどんなことでもできる。

 例えば、アルバート・アインシュタインはひとつの数列でゼロをいくつも続いて、ページ全体を使うような、とてつもなく長い数字を計測する。彼は、彼は星や、光年、百万、10数億、天文的無数、非常識的に長い数列に取り込まれても、小さな物事については無頓着だった。

 ある日、彼はバスに乗り、運転手に料金を払った。運転手がおつりを払うと、アインシュタインはそれを数え「私をだますのかね、全部返しな」と言った。

 運転手はおつりを手に取って、数え直し、そして言った。「お客さん、これはおつりですよ」

 アインシュタインは記憶している。「彼が『お客さん、これはおつりですよ』と言った時、私は自分に言った。『黙っていたほうがいいな。もし誰かが、私がおつりを知らないことを知ったら、ましてバスの運転手に知られたら・・・・』、私は自分の人生全体で何をしてきたのだろう、数えに数え、他のことを夢見もしなかった、私は夢でさえ数えてきたのに、こいつは私に、『数え方を知らないのかい?』と言ったのだ」。

 帰宅した時、彼は妻に言った。「ちゃんと数えて欲しいんだ。これでいくらある?」。 妻は数え言った。「おつりは間違っていないわ」。

 「なんてこった。これじゃぁ運転手が正しかったということになる。私が数え方を知らなかったのだ。おそらく私は巨大な数字を数えることはできるが、小さな数字についてはすっかり忘れてしまったのだ」。

 科学者は常識をあっという間に失う。同じことが哲学者にも起こる。熟考は幅がある。だがまだひとつの目的に取り囲まれている。例えば、ある夜ソクラテス何か、いままで誰も考えなかったことについて考えていた。木のそばで、彼は熟考に熱中していた、雪が降っていることにも完全に無頓着になり、朝になって凍りかけているところを発見された。

 膝まで雪がつもり、彼は目を閉じて立っていた。彼はほとんど仮死状態だった。彼の血液はほとんど凍りかけていたに違いない。

 彼は家に運ばれ、マッサージを受け、酒を与えられ、彼の常識について質問を受けた。みんなは彼に聞いた。「野外の空の下に立って、あそこので何をしていたのです?」

 彼は言った、「私は、私は立っていたのか、座っていたのかさえ分からない、あそこにいたのかどうかさえ。物事が私を夢中にさせ、私は完全にそれと一体になっていた。私はいつ雪が降りだしたのか知らないし、夜が更けたことさえ知らなかった。物事がそれほどまでに私を夢中にさせるとは気づいていなかったので、私は死んでしまったかもしれない。

 私はまだ終わっていなかった。全体的な定理だった。あなた方が私を途中で起こしてしまった。今や、私は結論できなかった定理について、着想できるかどうかは私にはわからない」。

 それはあなたが夢見ている時に、誰かに起こされてしまったようなものだ。あなたは、目を閉じて眠ろうとして、夢の続きを見ることができると思うかね? 同じ夢の中に戻ることは非常に難しい。

 熟考は論理的な夢見の一種だ。非常に珍しい。しかし哲学は熟考の上に成り立っている。哲学は集中を幅のある目的に、熟考の補助として使うことができる。もし同じような小さな断片がその中にあれば、もうすこし集中する努力が必要だ。集中が使われる。そこになんの問題はない。哲学は基本的に熟考だが、なんであれ、ひとつの道具として、楽器として集中を使う。

 しかし、宗教は集中を使うことはできないし、熟考を使うことはできない。なぜなら、それは外在物についての考察ではないからだ。なんであれ目的物は外側にあり、考えや、定理、哲学といったあなたのマインドの中の目的も、大したものではない、それらは外在物だ。

 宗教的な考察とは、集中した誰か、熟考した誰かのものだ。

 これは一体誰だろう。

 さぁ、あなたはそれに集中することができない。誰がそのことに集中しているのか? それは、あなたなのだ。・・・・・24/198

<16>につづく

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2017/01/09

 「彫刻刀で楽しむ仏像」弥勒菩薩・薬師如来 関侊雲他<4>

<3>からつづく 

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「彫刻刀で楽しむ仏像」 弥勒菩薩・薬師如来<4>
関侊雲 紺野侊慶(監修) 2011/09 スタジオタッククリエイティブ 大型本: 168ページ
★★★★☆

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つづく

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アーサー・C・クラーク 「地球怪奇現象」

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「地球怪奇現象」 
監修: アーサー・C・クラーク 1989 イギリス 1991日本発売 ヤングコーポレーション VHS 80分 (「CDジャーナル」データベースより 形式: Color, Dubbed 
No.3858★★☆☆☆

1)図書館をアーサー・C・クラークで検索してみるとたくさんの資料がでてくる。この英国生まれでスリランカに住んでいたSF作家は1917/12~ 2008/03の間生存していたわけだから、ごく最近の現代作家だったということになる。

2)しかし、このタイトルはどうかなぁ・・・? 当ブログでここに刺さっていくと、せっかく封印してしまったところの「アガルタ探検隊}をまたまた呼び覚ましてしまうことになりそうだ。

3)せっかくOSHO「現代世界のマインドフルネス」までテーマを絞り込んできたところなので、ここまでバッグギアを入れたくはない。

4)「2001年宇宙の旅」では、ようやく「意識」までつなげてきたのだ。このへんはあまり深入りせずに、パスしていこう。

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2017/01/08

「2010年」 監督:ピーター・ハイアムズ<4>

<3>からつづく

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「2010年」<4>
監督:ピーター・ハイアムズ  1984年製作 米113 min 日本公開1985年

1)正月早々、またまた見てしまった、このシリーズ。年末には8時間かけて「ホビット」を見たが、いまいちだった。スターウォーズもなんだかなぁ。ゴジラもなぁ。それに比べれば、こちらはCGは使っていないし、かなりクラッシックの領域に入ってしまう作品なのに、すごくリアリティがあった。

2)おそらくチャンバラとか神話とか、エンターテイメントに逃げていないところがいいのだろう。もちろんこの映画にも戦いや戦争はある。しかしながら、それはそう想定しているだけであって、実際には戦ったりはしない。そこがいい。

3)1対4対9、などというモノリスに謎かけしてしまうのは、今となってはちょっとずるい気もするが、他にどのような表現が残されているだろう。HAL9000も旧態依然としたドデカさだが、それはそれでその存在感をキチンと示している。

4)最後のメッセージはなんだか教訓めいていて、毎回聞いていると、なんだかなぁ、という気分にならないワケでもないが、他になんとする。これはこれでいいのだ。この枠でキチンと作品されている。感動ものである。また見たい。

<5>つづく

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2017/01/07

OSHO 現代世界のマインドフルネス 「Mindfulness in the Modern World」 <14>

<13>からつづく

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「Mindfulness in the Modern World」
How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? <14>
OSHO 2014/04 Griffin 英語 ペーパーバック 254ページ (Osho Life Essentials)  目次
★   工事中 

 その集中から戻ってきた時、彼は辺りを見回し、友人を見、空っぽの食器を見た。彼は友人に言った。「いやぁ、ごめん。キミは来るのが遅かった、私は朝食を全部食べてしまったよ」。もちろん食器は空っぽだった、誰かが食べてしまったのだから、では誰が食べてしまったのか? 彼が食べたに違いない。

 気の毒な友人は、何にもすることができなかった。彼はエジソンをちょっと驚かしてやろうとしていただけだった。しかしこの男はもっとこの友人を驚かした。「キミはちょっと遅れてきたね・・・・」

 しかし妻は全部のなりゆきを見ていた。彼女は来て言った、「彼は遅れてきたわけじゃないのよ、あなたが遅れてきたのよ! 彼があなたの朝食を食べてしまったのよ。私は見ていたわ、だんだん冷めてしまったし、どうせ誰かが食べてしまったでしょ。あなたは科学者よ。私にはあなたは自分の科学を活用することができないなんて、信じられない」 妻は言った。「あなたは誰があなたの朝食を食べてしまったのかまったく気づいていない、そして彼に謝っているなんて!」

 集中はいつもあなたの意識を狭めてしまう。狭めてしまえば、それはもっと強力にはなる。それは剣がどんな自然の秘密でも切り取ってしまうようなものだ。あなたは他のことに無頓着になってしまう。しかし、それは瞑想ではない。たくさんの人々が間違って理解している。西洋ばかりではなく、東洋の人々だって、同じだ。彼らは集中が瞑想だと考えている。それはとてつもない地からをあなたに与えてくれる、しかしそれらはマインドの力にすぎないのだ。

 例えばインドのあるバラナーシの王が、1920年、今世紀のことだ、手術することで話題になった。彼はどんな麻酔薬も使ってほしくなかった。彼は言った、「私はどんなものでも私を無意識にするものは受け付けないと誓ったのだ。だから私はどんな麻酔薬も使ってほしくない。しかしキミは恐れることはない。」 それは出来物を切除する手術だった。

 さぁ、誰であろうと、麻酔薬を使わずに出来物切除手術するなんてきわめて危険だ。この男を殺してしまうだろう。彼は痛みに耐えることなどできない、痛みはとてつもないものになるだろうからだ。彼の胃袋を切り裂き、出来物を切除しなければならない。それは一時間、二時間かかる。出来物はどんな状態になってしまうかさえよくわかっていない。

 しかし、彼は普通の男じゃなかった、彼はバナラシーの王様なのだ。でなければ力づくで手術することもできただろう。彼は医者に言った「心配するな」。そこには英国からやってきたインドの中でも一番有能な医者たちがいた。

 彼らは相談し合った。だが誰もその手術をする準備がてきている医者はいなかった。そうしているうちに、出来物はこの男を殺してしまうだろう。状況はとても深刻だった。さらに深刻なことさえ起りつつあった。手術をしないで彼を放置すれば死んでしまう、彼に麻酔を変えずい手術をするなんて、やったことがない、前例がないのだ。

 だが王は言った。「キミは私を分かっていないようだな。前例がないのは、キミが今から手術しようとしているような男を手術したことがないからだ。私に聖なるシリマド・バガバット・ギータをよこしなさい。私はそれを読む。それから5分後にキミの仕事を始めなさい。一度ギータに夢中になれば、キミは私の体のどこを切っても構わない。私はそれにまったく気づかない、痛みなんてあるわけない」。

 そう主張しつつ、彼は死につつあった。ためらっている場合ではない。確かに彼は正しいのだろう、彼は宗教的実践家として知られていた。そして手術は実行された。彼はギータを5分間読み、目を閉じた。ギータは彼の手から落ちた。手術が始まった。それは一時間半かかった。それはとても深刻なものだった、あと数時間すれば出来物は爆発してしまって、彼の命を奪ったことだろう。

 医師は出来物を摘出し、王は完璧に意識的だった。まばたきもせず沈黙を保った。彼はどこか別なところにいた。

 これは彼の人生の中での訓練だった。たった5分間ギータを読む、本なしでも暗唱ができた。いちどギータの中に入っていけば、彼は本当にギータの中にいた。彼のマインドはその中に入っていった。体はそこに完全に置き去りにして。

 この手術は世界中でニュースになった。実にまれな手術だった。しかし同じ間違いが起きてしまった。すべての新聞が、このバナラーシの王様は、偉大なる瞑想の人として取り上げてしまった。

 彼は偉大なる集中の人ではある。だが瞑想の、ではない。

 彼自身、おなじ混乱の中にいた。彼は自分が瞑想の地平にたどり着いているものと勘違いしていた。それは違う。それは単にマインドが集中しているために、他のものがその集中から外れて、無感覚になっただけだ。それは覚醒の地平ではない。それは狭められた意識の地平だ。とてつもなく狭められ、一点に集中し、他の存在物は全部、どこかに行ってしまった。

 さぁ、私はあなたの「瞑想とはなんですか?」という問いに答える前に、あなたはそうではないものを理解する必要がある。まず、それは集中ではない。そして、それは熟考でもない。 21/198

<15>につづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」関侊雲他<8>

<7>からつづく

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「続・彫刻刀で楽しむ仏像」[釈迦如来・聖観音菩薩] <8>
関侊雲(監修), 河合宏介(写真)  2013/6/5 スタジオタッククリエイティブ 単行本 176ページ

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<9>につづく

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「地球人スピリット・ジャーナル」エッセンス版<3>

<2>からつづく

「把不住述懐」<3>科学

1)2006年から2016年までの十年間の読書の中で、記憶に強く残っている科学のテーマとしてはシンギュラリティがある。当ブログとしては「シンギュラリティ」「シンギュラリタリアン」という二つのカテゴリを作って、それなりに探索してみた。

2)もちろん、その語源は「ポスト・ヒューマン誕生」(2007/1 NHK出版)のレイ・カーツワイルにある。この邦題が悪かったのか、当時はほとんどヒットすることなく沈静していたコンセプトだったが、版元のNHK出版が、タイトルも新たに「シンギュラリティは近い」---人類が生命を超越するとき---としてエッセンス版を出したのは2016/04になってからであった。

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3)2017年初頭の現在、このシンギュラリティは最前線の流行語であるようにさえ思える。そもそもがかなり分厚い一冊なので、エッセンス版とは言えかなり重厚な内容である。左脳が必ずしも聡明ならず、理科系の論理性にも乏しい当ブログとしては、ほとんどちんぷんかんぷんであるが、最後にカーツワイルが到達した地平は興味深い。

4)シンギュラリティは最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできる 「シンギュラリティは近い」p244 同上

5)反面、そのシンギュラリティのシンボル的存在となるのが、ヒト型ロボットの登場である。いずれ人工知能をそなえたコンパニオンとしてのロボットが私たちの生活に入り込んでくるのは間違いないが、そのことを先駆的に考察したのが、「未来のアトム」(田中伸和 2001/7 アスキー)である。

6)鉄腕アトムが誕生したと言われる2003/4/7に向けて書かれた膨大な一冊であるが、人工知能が心を持つには身体が必要とされる、と言う点からヒト型ロボットの登場を予感するが、それでもなお、科学が意識を超越することはない、と喝破している。

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7)SF小説が好んで主題に取り上げるようには、ヒューマノイドに簡単に「意識」や「心」が発生することはありえないことは確実であるように私には思える。
 このことは、逆にいうと、私たち人間が、誰しも、実に驚嘆すべき能力を宿しているということである。私たちは、自分たちが宿している驚嘆すべき能力について、あまりにも無知なのである。
「未来のアトム」 p600

8)当代の科学者としては名前を馳せた茂木健一郎には「意識とはなにか」(2003/10 筑摩書房)がある。当ブログも呼応する形で、そのブック・ガイドをナビゲーションとして、関連書籍を読み進めてみたが、結論としては芳しいものではなかった。

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9)3・11震災のあと慰問のために来日したダライ・ラマに対して茂木は質問をしている。

10) 「実はわれわれ脳科学者はとても大きな問題を抱えています。それは『意識』の問題です。科学者はこれを全然解明できていないんです。・・・」茂木健一郎「傷ついた日本人へ」 (ダライ・ラマ14世 2012/04 新潮社)p129

11)対するダライ・ラマの回答は・・・。

12) 意識はこうして前世から現世へ、そして現世から来世へ、連続して持続すると考えられています。意識は何かから生み出されたわけでも、突然消滅するわけでもなく、始まりも終わりもなく、常に存在し引き継がれるものなのです。ダライ・ラマ14世「傷ついた日本人へ」 ( 2012/04) p134 同上

13)ここで会話が成立しているかどうかは微妙なところである。そもそも意識は「~~とは何か」と問われるものではなさそうだ。科学という強大なパワーの限界点はこのあたりにある。

14)さまざまに理解され脚色されるアーサー・C・クラーク「2001年宇宙の旅」だが、しばがきけんじ脚色でFM東京1978-06に放送されたの第5話(15分以降)ではは、次のように表現されている。

15)「何もなく、ただ何もないということを意識している意識だけがある。そして打ち消すことができない意識という現象こそ、自分の、あらゆる人々の、全生命の、宇宙の本質なのだ。宇宙はなにひとつ隠してはいなかった。われわれが必死になって目をつむっていただけだった。」第5話15分以降

16)それから彼は、考えを整理し、まだ試していない力について黙想しながら、待った。世界はむろん意のままだが、つぎに何をすればよいかわからないのだった。

 だが、そのうち思いつくだろう。アーサー・C・クラーク「2001年宇宙の旅」(1977/05 早坂書房)p264

17)この小説はこのように結句されている。つまり人間存在の可能性は無限である。そして、なにをするのか、どう生きるのは全く自由なのである。

<4>につづく

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「把不住述懐」<2>目次

<1>からつづく

 

「把不住述懐」

 

<2>目次

37) OSHOアシュラム売却? NEW 2021/04/14
36) パンデミック  
35) 自分の居場所 
34) 令和新時代  
33) 彫刻教室  
32)
冬の松竹梅三句
31)
神無月
30)
めぐりあわせ
29)
万法
28)
ダイジェスト
27)
セラピスト
26)
迷と道
25)
新ブログ
24)
祈りの場所をつくる 
23) 
ブッタのおしえを社会に生かす 
22) 
人気記事ランキング
21) 
Mindfulness in the Modern World 
20)
把不住述懐
19) 
suchness
18) 
年末 
17)
40年目のサニヤス
16) 
百句
15) 
ZENアートこの7年の歩み
14) 
秘密の部屋  
13) 
仮題としての把不住述懐 
12) 
連続エッセイ
11) 
千の花散らして残る小枝かな
10)
キリ番
9)
Life has no goals, No purpose 
8)
統合
7)
人間性
6)
三つづつに絞る
5)
意識、あるいは4000冊目 
4)
芸術 
3)
科学  
2)
目次 
1)
はじめに

 

<3>につづく 

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「把不住述懐」<1>

「把不住述懐」

<1>はじめに        目次

1)年の初めに、当ブログ「ダイジェスト版」に目を通してみた。相変わらずあちこちに誤字脱字が散見されたものの、これまで見つけ次第訂正してきているので、だいぶ減ってきた。通読して、後半部分は内容が薄くなってしまっているが、それでもダイジェスト版としてはまだまだ今後も機能してくれそうである。

2)しかしながら、ダイジェスト版をまとめたのは、当ブログがスタートして5年目、タイミングとして3・11震災をひとつの契機として振り返ってみようというのが、大きなきっかけだった。あれからさらに5年が経過して、その後に付け加え続けている後半部分については、論点がやや呆けてしまっているのも事実である。

3)また、当ブログの書き手として、ブログ全体を大きくフォーカスして見ることもできるようになった。スタートから5年目のまとめはそれはそれでいいとして、現在の10年を経過した時点で、もう一度、内容的にまとめてみたらどうだろう。

4)ダイジェスト版は、カテゴリを時系列に短文で切り取ってきたが、エッセンス版では、むしろテーマ別に分けて見るのも悪くないのではないか。実は、そう思ってから数か月が過ぎてしまった。遅れてしまったのは、うまい表現形態を思いつかなかったからだ。

5)それでも今でもその思いは強いので、まずはタイトルだけでもスタートしてみようと思う。始めてしまえば、おのずとその形を現してくるだろう。テーマとしては、今のところ、科学、芸術、意識の三つに分ける。

6)科学は外側の世界である。コテコテの技術論に興味はあるが、非才なるわが身には理解不能な面が多々ある。コテコテ・ワールドに興味はあるよ、という姿勢を保ちながらも、とにかく当代のトップランナーたちに目をくばる、その程度に落ち着くだろう。

7)意識。これはもう、当ブログの目下の最大課題である。このために当ブログは存在しているようなものである。しかしながら、こちらもまた、多才なるわれ、と誇れるほどのものはない。古代からつづく先達をしのびながら、それでもなお、現代に生きるわれの目から見た、まとめなり、活用させていただいた部分のメモとなろう。

8)科学があり、意識がある。しかして、科学は有用なれど絶対ではない。意識は絶対なれど、表現不能。その橋をかけるのが、芸術である。文学、音楽、絵画、演劇、舞踏、造形、などなど芸術にもさまざまな分野があれど、当ブログの基本は追っかけは書籍追っかけの読書なので、文字表現が主となる。しかも小説やSFはざっくり避けている。ノンフィクションやジャーナリズム、エッセイや一部の研究書主なものとなるだろう。

9)エッセンス版と銘打つ限りは、本来は、科学、芸術、意識という三分割を終わりにして、乗り越えていこう、というのが本旨である。進化しつづける科学はさらに芸術的でなり、目指すは意識である。意識は科学の手に届かないところにありながら、科学では証明きれない「非」の部分にあるとすれば、意識はパラドックスとして科学に大いに依存しているところがある。芸術もまた、魂に響くような作品は、つねに科学に裏打ちされて、しかも意識に届いている。

10)エッセンス版。目指すは一つであり、その一つを乗り越えた地平である。そして、そこにあるのは、神羅万象が豊かにあふれかえっているであろう世界である。

<2>につづく

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「48歳からのウィンドウズ10入門」<11>

<10>からつづく

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「48歳からのウィンドウズ10入門」 

リブロワークス (著) 2016/4 インプレス 単行本(ソフトカバー): 128ページ 目次
★★★☆☆

<11>三か月使ってみた

1)すでに3か月前に締めてしまったコラム・シリーズだが、あえてその後のリポートをしておくことにする。よいことは書いてしまったので、よくないことから書いてみる。

2)まず、ぎょっとしたのは、電源コードのプラグ接続部分が折れたことである。

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3)この機種にほれ込んだのは、とにかくあれだけ落下や衝撃テストを繰り返していて、その堅牢さは、モバイルパソコンの必須条件だろう、という読みがあったからである。そして、たしかに、何度も机から落下するような事態が発生したが、本体には何の影響もなさそうだった(今のところ)。

4)しかし、それをなんどかやっているうちに、不注意さが増加してきたのだろうか、今回ばかりはやばいと思ったのだが、足をコードに引っかけて落下させてしまった瞬間、本体に差し込むプラグ部分が折れてしまったのだ。

5)現在「く」の字に曲がった状態で、断線は免れているが、これはいずれ時間の問題だろう。数千円覚悟の上、新しいコードを用意しなければならない(あれ、メーカーサポート、って効くかな?)。

6)今回のPC選びで一番こだわったのはモバイル性だった。だから12インチにしたのだし、重量も1キロにこだわった。その部分はもう納得済みである。しかしながら、この3か月の自らの行動において、本当にモバイル性が必要だっただろうか、というところが引っかかってくる。

7)たしかに何度もカバンに忍ばせて客先には向かった。デモでカバンから取り出すという「示威行為」もした。しかし本当にその場面でこのモバイルPCが必要だった、ということはなかった。もちろん、いつも常帯するなどというスタイルも必要なかった。

8)つまり、外においてはスマホで十分だったのである。どうしてもというならタブレットもあるが、タブレットさえ本当は必要なかった。12インチモバイルPCでノマド生活、というのは、私の場合は、憧れであって、実態にはそぐわないものであった。

9)とするなら、本来、重くて、デカくて、携帯性に乏しい15インチでも十分だったのではないか。その方が安い。そして選択の幅は広がる。携帯性にこだわったばっかりに削った機能やアプリソフトもだいぶある。そもそも、ここが間違いだったのではないか。

10)15インチとは言え、本当に必要なら外出時に持ち出すことは可能だ。機能的には問題ない。オフィスでなら、すこしかさばるかもしれないが、置き場所が決定してしまえば、それはそれ、うまく収まってくれるはずである。

11)その他、芳しくないことと言えば、やはりSSDにしたおかげで速さは抜群だが、容量をケチってしまったこと。もうすこし大きなキャパが必要だ。そしてオフィスソフトもやはり新品が必要になりそうだ。

12)さらには、3か月も使ってくると、やはり少しづつ立ち上げや切り替えが遅くなる。常にクリーンアップを心掛けてはいるのだが、知らず知らずに残り滓がたまっていくようだ。それと、やはりOSの特性だろうか、異常停止、再起動がかかった場面が二度三度あった。

13)概して言えば、このPCは現在78点くらいである。60点合格主義の私としては、これで、もう十分すぎるのだが、この次買う時は、このPCが壊れないうちに、15インチの安価な一台にしようと思う。

14)モバイルはもう、スマホで十分な時代だ。

<12>につづく 

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2017/01/06

「ネットで進化する人類」 ビフォア/アフター・インターネット 角川インターネット講座15 伊藤 穰一 (監修) ドミニク・チェン他<3>

<2>からつづく 

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「ネットで進化する人類」 ビフォア/アフター・インターネット角川インターネット講座15 <3> 
伊藤 穰一 (監修) 2015/10 KADOKAWA / 角川学芸出版 単行本213 ページ、 Kindle版 ファイルサイズ: 4328 KB 
★★★★☆

1)正月に当たって、もういちどこの巻をめくりなおしてみた。伊藤穰一の直観的で断片的なコメントだけでは、いまひとつ納得感がなかったし、もうすこし深さも欲しかった。その推察は一応正しかったが、今回の読書で、新たにドミニク・チェンを再発見したことは大きかった。

2)彼については、一度当ブログでも拾ったことがあったけれど、十分ではなかった。

3)有史より、個々人の認知限界から生じるさまざまな問題---自然現象の不可知、社会の崩壊などの解決不可能な事象---を回収し、個人を世界と接続し秩序をつくるための機構として「宗教」が機能してきた。「宗教(religion)」という言葉は、ラテン語源に由れば、「re-ligio」=「再接続」を意味する。それは多様な人間からなる集団を共通の物語のもとで統治するという実際的な定義であると同時に、個々の人間が「わたしがわたしとして存在する理由」、言い換えれば自己同一性を担保する物語装置として作動するものとして理解できる。ドミニク・チェン「いきるためのメディア」(2010/08 春秋社)p295「コミュニケーションとしての統治と時間軸の設計」

4)「宗教のない世界」というフレーズはジョン・レノンの樂曲「Imagine」で世界的に知れ渡った。それは宗教が人類史を象徴する大半の紛争の理由として利用されてきた経緯を表しているが、それゆえに共同体を統治するための再=接続装置は「宗教」とは別の概念、別の呼称をもって更新される必要性があるものとしてとらえることもできる。ドミニク・チェン「同上」p298

5)この「生きるためのメディア」が出た当時は、まだドミニク・チェンの活動全開とはなっていなかったようだ。

6)前回、この「ネットで進化する人類」を読んだ時は、次の部分を抜き書きしていた。

7) ソフトウェア以外の著作物もまたオープンにしようというフリーカルチャー運動に属するクリエイティブ・コモンズ・ライセンスのなかでも、フリーソフトウェアと同等の自由度を利用者に与える作品をフリーカルチャラルワークス(自由な文化作品)と定義している。ドミニク・チェン「ネットで進化する人類」p086 「フリーカルチャーに通底する思想」

8)4分と33秒の間、全く演奏を行なわない演目に注意を向け、逆に体内や環境に偏在する音に気づかせるというコンセプトの楽曲「4’33”」を書いた20世紀のジョン・ケージは、米国で禅の思想を説いた鈴木大拙に師事して以来、「妨害なき相互浸透」(interpenetration without obstrukution)というフレーズに取り憑かれた。 

 もともと仏教思想から鈴木が英訳した言葉だが、ここまで考えてきた私たちの言葉でいえば「妨害なき」とは他律的な制御の影響のない状態、そして「相互浸透」とは相互の有機構成が密接に連関したコミュニケーションとしてイメージすることができる。ドミニク・チェン「ネットで進化する人類」p95「人間のためのデザインのプロセス」

9)世代的には、ドミニク・チェンの文章にもでてくる1952年生まれのケヴィン・ケリーの方が親しみを持つ。1966年生まれの伊藤穣一の研究には注目せざるを得ないが、世代的なズレを感じないわけではない。

10)それに比すれば、1981年生まれのドミニク・チェンは、私などから見れば一世代下、つまり子供の世代である。もちろんジェネレーション・ギャップを感じないわけではないが、むしろ小気味いいギャップである。ここまで割り切れて語ることができる、という期待感がある。

11)現代の主要な検索エンジンはインターネット全体の氷山の一角しかインデックス化できていないといわれ、そのまだ暗い領域はディープウェブと呼ばれている。私たちの無意識下の膨大な生命情報はあたかも個々人が内部に抱えているディープウェブのようである。

 そこからデータを採取する生体センシング技術の発展と、機械学習やビッグデータ解析といった情報技術の適用が行われれば、内的なディープウェブとしての私たち自身の無意識に対する解像度が高まり、そこが新たに自律的な産出と他律的な算出がせめぎ合う戦場となろう。その時、人間はありのままの、生身の心的システムの挙動を見ることが可能になる。093ドミニク・チェン「無意識という深層の捕捉と活性化」

12)本書のタイトル「ネットで進化する人類」にズバリ対応するような言及である。

13)しかし、ことはそう簡単ではないことはすでに知られており、意識というものは、これ、と示すことが出来ず、これでもなければ、あれでもない、という「非」を使ってしか指し示せないと言われている。とすれば、どこまでも発展していく技術を、最後は否定するというパラドックスの奥に隠れているのが意識であれば、新しい世代のこれらの研究もいずれは、次の世代へとバトンタッチしなければならないわけで、それこそがまさに大々逆説的に「ネットで進化する人類」となってしまうのかもしれない。

14)ちょっと早すぎると思うが、ドミニクチェンの関連リストを作っておく。

「いきるためのメディア」2010/08 春秋社

「フリーカルチャーをつくるためのガイドブック」2012 フィルム・アート社

「オープン化する創造の時代」 著作権を拡張するクリエイティブ・コモンズの方法論2013/06 kadokawa Kindle版 電子本

「インターネットを生命化するプロクロニズムの思想と実践」2013/07 青土社

「シェアをデザインする」 変わるコミュニティ、ビジネス、クリエイションの現場 共著  2013/12  学芸出版社

「みんなのビッグデータ」リアリティ・マイニングから見える世界 イサン・イーグル 2015/01 エヌティティ出版

「電脳のレリギオ ビッグデータ社会で心をつくる」 2015/03 NTT出版

「ユーザーがつくる知のかたち」 集合知の深化 角川インターネット講座 (6)
西垣通(監修)2015/03 KADOKAWA 

「ネットで進化する人類」ビフォア/アフター・インターネット 角川インターネット講座(15) 2015/10 KADOKAWA

「シンギュラリティ 人工知能から超知能へ」 マレー・シャナハン (著), ドミニク・チェン監訳2016/01 NTT出版

「謎床: 思考が発酵する編集術」松岡正剛と共著(2017/07 晶文社)

つづく

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2017/01/05

「キンドル・アンリミテッドの衝撃」 IT研究会

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「キンドル・アンリミテッドの衝撃」 あなたの読書生活に革命が起きる!
IT研究会 (編集) 2016/10 ゴマブックス 単行本: 147ページ
No.3857★★☆☆☆

1)当ブログは「意識と瞑想をめぐる読書ブログ」である。読書ブログである限り、どのような質の読書を続けているのかが問われる。当ブログの基本は、公立図書館の一般開架棚にある、ふつうに流通している本がベースとなる。

2)古い本や、一般には手に入らないような希少本、外国語や研究書のようなものは自然と省かれる。そのようなスタイルになったのは、そもそもブログという機能が登場した時に、利用方法として、読書ブログが登場したのであって、むしろブログというキーワードが先行するからである。

3)インターネットの一機能としてブログサービスが一般化した10数年前、時を同じくしてイノヴェイションを起こしていたのが、図書館という機能だった。図書館とはいうものの、それまではなかなか利用しずらい面も多かった。それが大きく変化したのだ。

4)まず、オープン化されたこと。市内、県内の図書館のみならず、地域にある大学、短大、高専、高校、中学、小学校のほとんどどのレベルにおいても、外部の人間が利用可能になったのだ。これは大きかった。

5)二つ目に、各図書館が蔵書リストの閲覧にパソコンを使い始めたこと。これによって、書籍を検索するのが極めて楽になった。これまで見逃していた本がたくさんあることが分かってきたのだ。

6)そして、この閲覧パソコンがインターネットによって外部からも検索できるようになったのだから、大きな驚きだった。どこの大学にどの研究書があり、隣のあの町にならこの希少本や郷土史がある、ということがどんどん分かってきたのだ。

7)そしてさらに驚いたことに、地域の図書館にない本でも、リクエストして数日待てば、全国どこからでもお目当ての本を無料で取り寄せてくれるようになったのである。これは便利だった。全国どの図書館に見つからなくても、最終的には国会図書館という手が遺されていた。

8)一部の大学では入館カードを作るのが一部有料だったり、持出禁止で図書館内で読まなければならない本もあるが、それでも、実際に手にとって読めるのだから、限りなく便利である。有難い。

9)これら限りないぜいたくをさせてもらって早10年。この間、読めた本は4000冊弱である。月に換算すればおおよそ30冊平均。なんと一日一冊読んできたことになる。もっとも、貸出を延長し、あるいは再々貸出を繰り返した本も多くあるし、ほんの流し読みで終わった雑誌のバックナンバーのようなものもあるので、均一ではないが、それでも、われながら驚きである。ちなみにこの本は3857冊目だ。

10)さて、その読書のメモを綴り続けてきたのが当ブログであるが、テーマはおのずと「意識と瞑想をめぐる」となっていった。経緯はともかく、もっとも関心のあるのがその辺なのである。テーマとしてはまだまだ深堀りできておらず、むしろそれはこれからの課題である、と考えている。

11)さて、そこに登場するのかしないのか、この電子本という流れ。当ブログでは現在、電子本については大きく二つの点で関わりがある。ひとつは雑誌「WIRED」誌で、もうひとつはOSHO「現代世界のマインドフルネス」である。

12)すでに宅配の日刊新聞を取っていない我が家としては、雑誌の類はなおさら縁遠かったのであるが、どれでも何かが足りないように思っていた。愛読雑誌の一つでもあったほうが、自らのキャラクターを把握しやすいのではないか、と思い、ようやく雑誌「WIRED」誌の有料定期読者になったばかりである。

13)「WIRED」は知る人ぞ知るITやネット関連では最も先頭を切っているように思える雑誌で、かなりの部分をネットで読めるし、またそのサービスはほとんど無料なのである。で、読めば読むほど、全部読みたいという機運が高まり、結局は紙ベースの雑誌を購入し、ネットでも読むという併読スタイルが進行中だ。

14)有料といっても隔月500円程度なので、ポケットマネーから出せない金額ではない。しかし有料は有料である。編集部からのヘルプも熱い。正直言って、私は招待席に座らされた優良顧客のような気分を味わいつつある。

15)もう一冊はOSHOの「現代世界のマインドフルネス」。「WIRED」誌ともつながってくるけれども、当ブログとしては、「意識と瞑想」の部分を、この「マインドフルネス」というキーワードで深堀りしよう、というプロセスにある。OSHOとしてはこのキーワードを使って本を出していることは珍しい。これはなんとか、今年一年ゆっくり英文でよみ、拙訳を当ブログに連載しようと思い立ったところである。

16)このOSHO本は、もちろん英文で印刷されている本もあるが、電子本もある。最初どちらにするか悩んだが、結局両方入手することにした。本はやっぱり紙で印刷されているものほうが本らしい。そして、電子本は実は、翻訳する場合、とても役立つのである。

17)英語が得意でない私は通読するとなれば辞書なしでもなんとか行くが、翻訳となれば、簡単なものでも辞書は必携となる。紙ベースの本となれば、パソコンにせよ紙辞書にせよ、とにかく辞書が必要になる。ある意味めんどうくさい。

18)ところが、電子本なら、わからない単語が登場するたび、単語にタッチすると、すぐ辞書機能が働くのである。これは便利だ。簡単に単語の翻訳語が出るので、分かっていたつもりの単語もタッチしてみると、あらら、長い間勘違いして覚えていた単語もあったり、他の意味もあったりすることを発見したりする。

19)はてさて、ここに登場するのがキンドル・アンリミテッドだ。私の読書ブログ生活に「革命」は起きるのか。それほどの「衝撃」はあるのか。

20)まず、当ブログは、漫画や小説は読まない。完全に排除しているわけではないが、メインターゲットではない。雑誌の類も、一部限られたものしか手にとらない。何万冊、何十万冊と歌われても、結局は10年間で4000冊が限界である。今後はもっと減っていくだろう。

21)月数百円から千円程度という課金も、ポケットマネーが痛むほどのことはないが、毎月となれば、その質が問われる。本当にそれだけの投資の価値があるのか。読書ブログのための私的「図書館利用術」を超えるだけの利用価値があるだろうか。

22)個人としては現在のところ、その価値なし、と結論がでている。まずは、図書館ネットワークで十分である。図書館ネットワークで見つからないものがあるならキンドル・アンリミテッドも悪くはないが、そうでもなさそう。品揃えが十分とは言えない。

23)また、電子本とは言え、電子本アプリはキンドルやキンドル・クラウド・リーダーの他にたくさんある。楽天KOBOや青空文庫、Fujisan、iBooks、などの他にも多数乱立している。それぞれが特徴あり、まだキラーアプリになるほどのものはない、と感じる。

24)ところで今回、この本を検索していて分かったのだが、同じタイトルで他社からーーー「キンドル・アンリミテッドの衝撃」(石井隆志2016/09講談社) がでている。各出版社がイージーに「~~~の衝撃」というタイトルを安易につけるようになっているが、これはどうかな、と思う。全然、衝撃波を感じなくなる。さらには、この二書とも、そのタイトルとは裏腹に、キンドル・アンリミテッドでは読めないのだ。実になんとも可笑しいだろう。チグハグだ。

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2017/01/04

「シンギュラリティは近い」エッセンス版―人類が生命を超越するとき レイ・カーツワイル<21>

<20>からつづく

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「シンギュラリティは近い」エッセンス版―人類が生命を超越するとき<21>レイ・カーツワイル 2016/04 NHK出版(編集)  単行本(ソフトカバー) 256p

1)人はよく意識のことを、ある存在物のはっきりとした属性で、難なく識別し、発見し、判定できるものであるかのように言う。意識の問題がこれほどまでに議論を呼ぶのはなぜか。その謎の鍵を握る洞察は次の言葉に集約される。  

 意識の実在を決定的に裏づける検証法は、ひとつとして存在しない。 

 科学とは、客観的な計測と、そこに生まれる論理的な推論から成り立っているが、まさに客観性の本質として、主観的経験は計測できないことになっている。p231「意識をめぐる厄介な問題」

2)この本は、オリジナルにせよ、エッセンス版にせよ、ほとんど90%が外側の科学について書かれている本である。科学史やその発展、可能性について書かれている。だが、それだけならおそらく魅力は半減するし、当ブログにおいても話題にするほどでもなかっただろう。

3)この本の良心的な部分は、シンギュラリティという耳新しい概念を使いながら、「科学の可能性」と「科学の限界性」を垣間見せてくれるところにある。 この残り10%が限りなく魅力的なのであり、そこに多くの読者が新しい可能性を見つけようとしているのだ。

4)主観的な経験はまったく存在しないか、あったとしても本質的なものではないので無視してもよい、という見解に対しては反対したい。誰に、またはなにに意識があるかという問題、および、他者の主観的経験の性質は、われわれの倫理的、道徳的、法的概念の基礎をなしている。

 人間社会の法体系は、主として意識の概念に基づいており、とりわけ(意識のある)人間に被害---特に深刻な意識的経験の形で---を及ぼす行為や、人間の意識的経験を終わらせる行為(殺人など)に多大な関心が向けられている。p232 同上

5)最終章において、残りの10%において、わずかに「意識」についての考察が展開されている。そこに触れなかったよりはずっといい。この10%こそを読みたかったのだ。そう思い読み進めるのだが、カーツワイルもそこから向こうについて、それほど多くを語ることはできない。

6)わたしとは誰なのか? たえず変化しているのだから、それはただのパターンにすぎないのだろうか? そのパターンを誰かにコピーされてしまったらどうなるのだろう? わたしはオリジナルなほうなのか、コピーのほうなのか、それとも両方なのだろうか? 

 おそらく、わたしとは、現にここにある物体なのではないか。すなわち、この身体と脳を形づくっている、整然かつ混沌とした分子の集合体なのではないか。p235 「わたしは誰? わたしはなに?」

7)シンギュラリタリアンを自負するカーツワイルにして、初めてこの内なる旅の入り口に立つ。その探求心は、科学に対する誠実さと同程度に、実に誠実な姿勢である。

8)意識について論じるときには、往々にして行動科学や神経学でいう意識の相関物の考察に逃れていってしまいがちだ(たとえば、ある存在がその意識体験をみずから観察できるか否かとか)。だが、そういうものは三人称の(客観的な)問題であり、哲学者のデイヴィッド・チャーマーズが意識の「難問(ハードプロブレム)」と呼ぶもの、すなわち、「物質である脳から、いかにして意識のように明らかに非物質的なものが生じるのだろうか」という問題を説明していない。p240 同上

9)当ブログは現在、マインドフルネス、という言葉まで降りてきている。ジョン・カバットジンが、どのような体験をし、どのような体形を整えたとしても、少なくとも一般的な受け止められ方は、まだまだ科学的マインドを満足させるような語り口で語られることがほとんどだ。

10)やれ、エリートが注目している。やれ、スポーツマンがメンタルヘルスに使っている。健康法や成功哲学のひとつのようにさえ扱われている。しかし、それはなにもカバットジンだけを責める必要はない。これまでかつてさまざまな言葉で語られてきた類似概念のほとんどは、そのようなものでしかなかったからだ。説明する方も、受け取る側も、突き詰めは見事に甘かった。甘いばかりではなく、方向がまるで勘違いであり、間違っており、危険、有害ですらあった。

11)シンギュラリティは、物質界で起こる事象を意味する。それは、生物の進化に始まり、人間が進める技術進化を通じてさらに伸張してきた進化の過程における、必然的な次へのステップである。

 しかしながら、われわれが超越性(トランセンデンス)---人々がスピリチュアリティと呼ぶものの主要な意味---に遭遇するのは、まさにこの物質とエネルギーの世界においてなのだ。p241 「超越としてのシンギュラリティ」

12)誠実なアプローチではあるが、カーツワイルが科学者である限り、そして自らシンギュラリタリアンと自負したとしても、その考察の多くは、仮説にとどまっている部分が多くある。

13)「スピリチュアル」と呼ばれるものこそ超越性の真の意味だと考える向きもあるが、じつは超越性は現実世界のすべてのレベルに見ることができる。たとえば、われわれ自身を含めた自然界の創造物、そしてもちろん、芸術、文化、テクノロジーや、情動的、精神的表現など、人間が創造したものにも超越性がある。

 進化は、パターンと深く関わりがあり、進化の過程で成長するものは、端的に言えば、パターンの秩序と深さに他ならない。したがって、人間の中で起きる進化の極致であるシンギュラリティは、こうしてさまざまな形で表れる超越性をさらに深めていくことだろう。p243 同上

14)語られる言葉には、語り手と聞き手の、相互の関係性が大きく作用している。著者が感じ取っているもの、表現しようとするものが、聞き手の本当に聞きたいものか、聞き取る能力があるのか、それぞれの関係性に大きく影響を受けている。だから、このあたりの表現については、ゆっくりと吟味する必要がある。すくなくとも、ここでのカーツワイルは必ずしも成功はしていない。

15)「スピリチュアリティ」のもうひとつの合意は「魂をもつ」ということで、いうなれば、「意識がある」ということだ。「個人性」の土台である意識は、多くの哲学的、宗教的伝統において、真実を意味すると考えられている。一般的な仏教の存在論では、むしろ主観的---すなわち意識的な---経験こそが究極の真実だとされており、物理的または客観的現象はマーヤー(幻影)だと考えられている。p244

16)されど読者である私(たち)もまた、カーツワイルだけを責めることはできない。彼は、表現され得ないことを表現しようと努力しているのであって、その意味を理解できない自分を責めたりする以上に、むしろカーツワイルの努力を賞賛さえすべきなのだ。

17)われわれは、人間には意識がある(少なくともそう見えるときには)と思っている。それとは対照的に、単純な機械には意識はないものと思い込んでいる。宇宙論的な見方をすれば、現代の世界は意識のある存在というよりも、単純な機械のように行動している。

 しかし、われわれの周辺の物質とエネルギーは、この人間と機械の文明の知能、知識、創造性、美、感情的知性(たとえば愛する能力)に浸透しつつある。

 そして人間の文明、われわれが遭遇する物言わぬ物質とエネルギーを、崇高でインテリジェントな---すなわち、超越的な---物質とエネルギーに転換しながら、外へ外へと拡張していくだろう。それゆえある意味、シンギュラリティは最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできるのだ。p244 同上

18)最後は詩的表現にならざるを得ない。そうしか書きようがないだろうし、また、受け手もまた、頭脳をでなく、感性を最大限オープンにして、その「考察」=詩、を堪能すべきなのだ。

19)指数関数的に急激な進化をとげながら、進化は確実にその方向へと進んでいる。進化は、神のような極致に達することはできないとしても、神の概念に向かって厳然と進んでいるのだ。したがって、人間の思考をその生物としての制約から解放することは、本質的にスピリチュアルな事業だとも言えるだろう。p245 同上

20)これが、エピローグ前の第六章「わたしは技術的特異点論者(シンギュラリタリアン)だ」の結句である。彼は頑張った。よくやったと思う。その科学史はどうであれ、その具体的ライフスタイルであれ、一般には理解しにくい概念について多くの読者を惹き付けた。その検証は今後多くの人々によって具体的に継続されていくだろう。

21)しかし、私(たち)は、彼の努力はようやくある世界の入り口への標識である、と気づかないではいられない。そこからがスタートなのであって、そこから先は、さらに新たなる論者を、真なる覚者を待たなければならない。その世界を十分に知り尽くした道案内人。もし私(たち)が本当にその旅を続ける意思があるのなら、道は確実に開ける筈だ。

つづく

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「<インターネット>の次に来るもの」 未来を決める12の法則 ケヴィン・ケリー<18>

<17>からつづく  

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「<インターネット>の次に来るもの」 未来を決める12の法則 <18>
ケヴィン・ケリー (著),    服部 桂 (翻訳) 2016/07 NHK出版 単行本: 416ページ 目次

1)お正月にはこの本を読むぞ、と盛り上がっていたリストのうちのナンバー3に入る一冊ではあったが、今年のお正月休みは短い。あっという間に終わりに近づき、この本を再精読するまでには至らなかった。

2)されど、すでに一度精読しているので、2006年の梅田望夫の「ウェブ進化論」が当ブログのスタートだったとするなら、当ブログの到達点はこのケヴィン・ケリーの一冊だった、と締めてしまっても、なにも惜しくもないような爽やかな読後感がある。

3)前回この本についてメモしたのは2016/10/31、すでに二か月前の事だが、その時の結論は、カーツワイルの一冊、ケヴィン・ケリーの一冊、そしてOSHOの一冊、に結実していた。

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4)この三冊の親和性は高い。少なくとも当ブログにおいては同根同テーマについて語られているシリーズだと見なすことは可能だ。だがしかし、それぞれに表現方法が違う。お正月も明けて、当ブログとしては今年はOSHOのこの一冊を精読する一年と定めたわけだが、その「現代世界」と銘打たれた時代性については、他の二冊が大きく関わっている。

5)カーツワイルは当ブログの立ち上げ時点よりも重いテーマとしてある。ケヴィン・ケリーもまた、その世代や編集者という志向性から、とにかくわが身には強い説得力を持つ。OSHOはわがマスターである。

6)一冊一冊、読み物としては重くのしかかってくる本たちではあるが、テーマそのものの方向性が見えているので、一行一行にこだわらくても、ひとつの同時代の指標として存在してくれるなら、それはそれでとてもありがたいことだと思う。

7)さて標題の「<インターネット>の次に来るもの」だが、この本においては決してその答えがズバリと書いてあるわけではない。その答えは自己撞着していて、結局「<インターネット>の次に来るもの」でしかない。つまりは、インターネットにどっぷりハマって、それを推進していくところにこそ次があるという、もはや完全明け渡しの状態を勧めているかのようだ。

8)パソコン、インターネットの次に来るものとして「ブロックチェーン」が熱く語られている。本書においては、ビットコインやブロックチェーンについては、明確に章立てて書いてあるわけではないが、5.ACCESSING(アクセシング)に詳しい。

9)結論部分に登場するわけではないが、この12のテクニックは必ずしも順番通りでてくるのではないので、決してブロックチェーンが「<インターネット>の次に来るもの」として、否定されている、というわけではない。

10)ケヴィン・ケリーといえど、完全無欠の預言者などではなく、間違いだらけの先駆者であってみれば、少なくともここで彼もまたブロックチェーンを取り上げている、ということを認知しておけば、それでいいだろう。

11)カーツワイルの本の前半部分から半ばまでは、まぁそれはそれとして付き合っておき、最終的な結論部分は、もはや「意識」についての考察に絞られている。結論とはいいがたいとするなら、すくなくとも、これは記しておかなければならない、という書き方であるにせよ、人間として最終的には「意識」にぶちあたざるを得ない。

12)その点、OSHOのすべての著書は、最初の最初から「意識」について語っているのであって、その言語化が不可能な領域を、時代を背景としながら語り続ける姿には強く惹かれるものがある。

13)ブロックチェーン・テクノロジーと意識では、あまりにもかけ離れた領域のようにも思えるが、インターネットが「全体」が、「全体」として存在することに全精力を傾けているかに見える反面、ブロックチェーンは、テクノロジーとしては「個」を強調する方向性を持っていくのではないか、という期待がある。

14)テクノロジーの全体化、意識の個化、そしてテクノロジーの個化、意識の全体化。言葉としては簡単に発想できるが、これらがどのような道筋をたどって進化していくのかは、今後のお楽しみである。

15)科学と意識についての関係はOSHOのこのレクチャーにきわめて明晰に語られている。最近のマインドフルネスの流行は決して正しい道筋で理解されてはいないけれども、少なくとも多くの人々がその方向に「意識」を集めていることには注目するに値いする。

16)大きな意味では、この中に「<インターネット>の次に来るもの」がある、と見るのが当ブログである。

<19>につづく

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2017/01/03

「講座スピリチュアル学」 第7巻 スピリチュアリティと宗教 (地球人選書 講座スピリチュアル学) 鎌田 東二 (編集) <12>

<11>からつづく

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「講座スピリチュアル学」 第7巻 スピリチュアリティと宗教 (地球人選書 講座スピリチュアル学) <12>
鎌田 東二 (編集) 2016/08 ビイングネットプレス 単行本: 277ページ 「地球人選書 講座スピリチュアル学」リスト  
★★★★☆

1)お正月そうそう、またこの本を手に取り、ひととおりパラパラではあるが、目を通すことができたことを感謝したい。「意識と瞑想を巡る読書ブログ」を標榜するわが「地球人スピリット・ジャーナル」としては、この「地球人選書 講座スピリチュアル学」の存在は、無関心では通り過ぎることができないシリーズである。

2)反面、「選書」であり「講座」であり「学」である限り、当ブログとははるかに遠く、時には正反対に位置する場合さえあり、かならずしも賛成同調しかねる文脈も数多くあった。

3)当ブログは個人ブログであり、気ままな一旅人のつぶやきに過ぎない。そして、マスターOSHOのサニヤシンであるという自意識が消滅していない限り、そして、瞑想センターからインフォーメンションセンターへという変遷もあったとして、さらに、OSHOカウンセラーの一人として、自らの立ち位置が奈辺にあるのかを常に手探りながら歩き続けてきた。

4)そのような立場から一読者として考えれば、この巻ばかりではなく、シリーズ全体との距離が必ずしも近くなく、むしろ同じ地平に立ってみれば、これほどの距離感があるのか、とさえ思う場面にもしばしば出会った。

5)この巻では町田宗鳳(敬称略、以下同)の一文にはなるほどとうなづかされることが沢山あった。当ブログとしては過去に「〈狂い〉と信仰」狂わなければ救われない」(1999/07  PHP研究所)や、「『生きる力』としての仏教」(上田紀行と共著 2006/06  PHP研究所)などに目を通した程度であるが、もともとは多数の著書を持っている方である。

6)その彼にして、次の語りにはちょっとぎょっとした。

7)筆者は、京都大徳寺における臨済禅の修行歴二十年を経て、沈黙を主体とした瞑想法、いわゆる黙照禅や公案禅による精神集中の困難さを痛感することとなった。 

 また日本人とだけではなく、欧米人とも禅を組む機会をもつことも再々あったが、形式的な様相をいくら整えたところで、自我意識の壁を破ることは容易ではなく、本質的な意識変容体験を得ることの難しさを強く感じた。

 そこで実践者の宗教的かつ民族的背景を超えて、誰もが容易に禅定に入り、意識変容体験をもつことが可能な瞑想法がないものかと積年にわたって模索を続けることになった。

 その結果、おおよそ五十年という歳月を必要としたが、極めて簡単明瞭かつ画期的な瞑想法「ありがとう禅」に到達することになった。p62 町田宗鳳「修行--その光と影」

8)長い伝統のなかにいて、全うな道を歩まれつつ、率直な述懐として、グローバルな現代世界の瞑想法としては、いわゆるこれまでの禅では十分ではない、という告白に聞こえてくる。なにか痛切で切実なものを感じる。

9)樫尾直樹の「均等を解くスピリチュアリティ--感じる心とからだを回復する」p218においては、いわゆる欧米に流布しつつあるマインドフルネスについての論述がある。そして、やはりこの書において、一番身近に感じたのは伊藤雅之「ポスト世俗化ー時代のスピリチュアリティ--マインドフルネス・ムーブメントを手がかりとして」p176である。

10)その内容はともかく、彼をもっとも身近に感じるのは彼には「現代社会とスピリチュアリティ」 現代人の宗教意識の社会学的探究( 2003/03 渓水社)の著書があるからである。その一部には長年にわたってフィールドワークした日本のOSHOサニヤシンの実態が含まれている。今となっては貴重な資料である。

11)彼もまた若い時分には京都のOSHOセンターに参加していたサニヤシンであり、研究課程においては、東北の我が家に数日停泊して、当地のサニヤシン達と面談取材したのであった。私も一部その研究をお手伝いした。

12)だがその後、巻末の鎌田東二の文にも登場する島薗進を頂点とする日本のスピリチュアリティ研究のアカデミズムの中にあって、その色彩を消していった。その経緯については異論さまざまあろう。なにはともあれ、風あたりの強い場所にあっても、私は、OSHOのサニヤシンであることを深く自負するものである。

13)ジョン・カバットジンのマインドフルネスについての論述は多数書籍もあるが、最近注目度が高まっているので、わが読書ブログにまでなかなか順番が回ってこない。されど、私は特段に彼の著書に触れることを急いではいない。

14)世にマインドフルネスの疾風は吹き荒れているが、やれグーグルやアップルのエリートがどうしたとか、スポーツマンのマインド強化だとか、ビジネスマンの成功哲学のように取り上げられているのは、提唱者自身はどう思っているか知らないが、まったくの間違いである。もちろん健康法でも、精神療法でもない(そのような副次的効果があったとしても)。

15)マインドフルネスという単語はわがOSHOとともにあってはなかなか使い慣れたものではない。むしろ意味不明でさえある。しかしながら、使い慣れた瞑想という言葉も、言葉に頼る限り十全ではない。むしろそこから一度離れてみることさえ必要である。

16)正月にあたって、当ブログとしてはOSHO「現代社会のマインドフルネス」(2014/04 Griffin)を一度通読し、ゆっくり一年をかけて拙訳をアップしてみたいものだ、と思い立ったところである。

17)その中で、いわゆる世界のマインドフルネス・ムーブメントとやらとの同調をはかりつつ、なおその本来の意味を、OSHOの言葉を通じて、再編したいものだと思う。

つづく

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2017/01/02

OSHO 現代世界のマインドフルネス 「Mindfulness in the Modern World」 <13>

<12>からつづく

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「Mindfulness in the Modern World」
How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? <13>
OSHO 2014/04 Griffin 英語 ペーパーバック 254ページ (Osho Life Essentials) 「現代世界のマインドフルネス」 目次
★   工事中 

 あなたの中にわずかな理解が生じるだけでも十分すぎるくらいだ、なぜなら理解は自分自身で成長していくからだ。もしほんのわずかな理解が正しい場所、ハートに降りるなら、それに従って成長し始めるだろう。

 まず最初に、瞑想という言葉を理解しようとしてみなさい。それは正しい言葉ではなく、真正な探求者なら誰でも考察することを避けてきた。そこで私は、二三の言葉についてあなたに話してみたい。サンスクリットにおいて私たちは瞑想について特別な言葉を持っている。それはディアナだ。他の言語には同義語は存在せず、翻訳はできない。二千年に渡って翻訳できない言葉であるとみられたきたのは単純な理由による。他のどんな言語も、その地平を体験、あるいは体験しようとする人々を持たなかったからだ。だからそれらの言語はその言葉を持たない。言葉が必要とされるのは、語ろうとする何かがある時、指し示そうとする何かがある時だ。

 英語には三つの言葉がある。最初はコンセントレーション、集中だ。私は意味深い人々ではあるが、瞑想を体験したことがない人々に書かれたた本をたくさん読んできた。彼らはディアナについてコンセントレーションという言葉を使い続けているが、ディアナはコンセントレーションではない。コンセントレーションは単にあなたのマインドがひとつの点に集中しているだけだ。それはマインドの次元だ。通常マインドは動き続ける。しかし絶え間ない移動は、マインドが正しい主題についてあなたが働けないようにしてしまう。例えば科学においてはコンセントレーションは必要とされる。コンセントレーションなしでは科学の可能性がない。科学が東洋では発達しなかったことは驚きではない。私が内なる深いつながりを見れば、コンセントレーションには価値がないからだ。

 コンセントレーションは一つの点に集中したマインドのことだ。それはそれなりに役に立つ。なぜならあなたは深く、もっと深く正しい主題の世界に入っていけるからだ。常に周囲を気遣っているようなマインドの人間は科学者にはなれない。科学者の仕事全体は、世界全体を忘れて、彼の意識全体を一つ事に集中することができる、ということにかかっている。そして、意識全体が一つの事に注がれる時、それはまるで太陽光線がレンズを通していくように火を作り出すことさえできる。光線それ自体は、拡散し、お互いが遠く離れているので火を作りだすことはできない。彼らの動きはコンセントレーションと正反対だ。コンセントレーションとは光線が一緒になり、一つの点であることを意味する。そしてたくさんの光線が一つの手で出会うことは、火を作り出す十分なエネルギーを持っているということを意味する。

 意識も同じ性質を持っている。集中すれば主題の神秘の深みまで貫いていける。

 私はアメリカの偉大なる科学者のひとりトーマス・エジソンを思い出す。彼は、妻が朝食を持ってきた時、とても集中して何事かの仕事をしていた。彼女は、彼があまりに仕事に取り込まれていて、彼女が来たことさえ気づかないのに気付いた。彼は彼女を見ることさえなかった。彼女がそこにいるのさえ気づかず、彼女は今は邪魔する時ではないと知った。「もちろん朝食は冷めてしまうでしょう。そして私が邪魔をしたら彼は本当に怒ってしまうでしょう。彼がどこにいるかわからないのです。」 そして彼女は、いつでも彼が集中の旅から帰ってきたとき彼がそれに気づき食べられるように、彼のかたわらに朝食を置いたものだた。しかし、何が起こっていたのだろう? ときたま顔を出した友達も、エジソンがとても集中していることを見ていた。友人は朝食が冷めていくのを見て言った。「彼には仕事をさせておいたほうがいい。冷めてしまうから、私が彼の朝食をたべてあげよう。友人が朝食を食べてしまったのに、エジソンは、友人がそこにいて、しかも彼の朝食を食べてしまったことに気づいてさえいなかった。19/198

<14>につづく

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「現在空間の世界」 末崎ふじみ FSK研究所 <2>

<1>からつづく 

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「現在空間の世界」 
末崎ふじみ  201/08 特定非営利活動法人FSK研究所 小冊子 p146
★★★☆☆

1)冬崎流峰氏からの贈本である。ちょっとした新書本と同程度の内容であり、短時間で読み切ることは可能だ。しかし、それにしても、いまひとつよくわからない一冊である。

2)本来、本というものは、あるいは言葉は、誰かが誰かに伝えるために表現されるものである。その基本中の基本が、この本ではよくわからない。

3)そもそもFSK研究所とは何か。登録された認定NPOではあるようだが、それだけでは現在日本社会では意味を持たない。その程度なら誰でも作れる。あるいは、発信元をぼかすためにさえ、法人が使われたりする。

4)FSKとは本書ではよくわからないが、ネットで調べると「Future Society Kibo」の略称らしい。なんとなく英語ではあるが、いかにも日本人的発想ではある。研究所とはあるが、実態はよくわからない。その主体が分からなければ、どのような活動し、どのような目的を持って、誰に語り掛けているのか、その辺がまったくわからない。

5)ただ文面としては、大変気になるところが多い。そもそも「序」は「人間を特徴づけるものは、意識を持つようになったということです。人間は意識を持つことによって言葉を生み出し、思考や思想を生み出し、思想によって様々な人工物を創り出してきました。」 p1「序」から始まる。

6)全体としては4章に分かれていて、第1章は外的な世界についての分析とまとめ。第2章は、この本のタイトルとなっている「現代空間」という言葉遣いについての説明と、活用。第3章にいたれば、いわゆる「意識」についての展開。

7)第4章はまとめ。「二人制による意識の改革」などという独特な考え方、方法論を展開しているようにも見えるが、この二人制というのは、LGBT時代のスピリチュアリティについて配慮したか?

8)「地球憲法の制定」などの文字も踊るが、その言やよしではあるが、そんなたやすいことではない。「新しい人権主義」、「情報の公証化」、「精神性と祈り」などなど、何事かを志向しているのはわかるが、それを誰が、どういう形で、いつまでやるのか、ということどもが、いまいちわからない。

9)流峰氏は、ワンネスとの共通項に目を見張っているようでもあるし、積極的に大中氏を理解しようと努力しているようにも見えるし、注目すべき点は多いが、いまいち明瞭ではない点が多い。

10)もうすこし時間をおいて、ゆっくり再読することとする。

つづく

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「おおやまと」 2016/06 通算550号 冬崎流峰<2>

<1>からつづく

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「おおやまと」 <2>
大倭出版局・大倭紫陽花邑 2016/6 通算550号 会報
★★★★★ 

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1)久しぶりの彼の文章に立ち合い、感無量である。なに、彼としてはいろいろ表現し、発表もしていたことだろうが、私のほうとしては、ネットで検索する限り、なんの手がかりもなかった。自分で検索して、自分の書いたものしか引っかからないときの、脱力感は特別なものである。

2)今回、この文章にあたり、確かに分量は少なく、説明も不十分だが、彼の長い間の「休眠」を説明するには十分な意味のある一文であると、私には思える。

3)おおやまとの矢追日聖師については、経緯あって、「やわらぎの黙示」ことむけやはす 1 (1991/12 新泉社)と「ながそねの息吹 ことむけやはす2」(1996/09 野草社)に目を通させていただいた程度である。

4)伝聞に伺う程度で、何事も知らないのだが、イメージとしては、とにかく印刷所や農場を持った共同体を奈良地方に創立された方で、一種独特の霊的な能力を発揮されたのだ、と理解している。人脈的にも、時代的にも、規模的にも、私達のコミューン志向にはいつもお手本のように登場された方ではあるが、戦後の揺籃期という時代背景や、師独特のスピリチュアリティは、余人の及ぶものではなく、一種、ユニーク過ぎる存在として、私には見えてきた。

5)さて流峰と大倭だが、結局は、野草社の合宿セミナーなどのつながりで、いつかそのような集まりが会場となった大倭で深化していったものと理解する。

6)もとも私は、神様の世界とは縁遠い環境に育ち、極端に言えばそのようなことはすべて迷信であるみたいな意見を持った人間であったかと思う。それがまさに、定められた人生とでもいうのか、徐々に磨かれ変化していったように思われる個人史がある。上段 流峰

7)かれこれ40数年前に一緒にコミューン活動をしていた時に、私は私なりの求道心があり、それとなく彼と話していた時に、彼から勧められたのは「批判的主体の形成 キリスト教批判の現代的課題」(三一書房1971/08)だったことを思い出す。

8)今から30年程前になるだろうか、(中略)その頃から身の回りに起きるいろいろな事がご縁として繋がっていく。伊勢神宮に何回も行くことになったり、奈良の天河でたぶん初めての未知のエネルギー体験をしたり、そして戸隠の霊性に導かれていくのである。上段 流峰

10)これは1980年代のバブリーな時代の出来事を思い起こしているのだと思われる。彼はアジアの学生を日本に呼ぼうという財団の仕事に関わり、新しい人脈に触れ始まっていた。私は私で、1987年にインド・プーナからの帰国の際、彼と会って日本におけるOSHOマルチバーシティ活動を紹介し、助力をお願いした経緯がある。当時、伊勢をお互い訪ね、シャルノ女史やほかの仲間とつながりができていった。

11)当時、私はまだお会いしていない大中氏という人物がおり、私には謎のまま残っているのだが、今回、この「おおやまと」とともに贈本してもらった「現在の空間の世界」(末崎ふじみ 201/08 FSK研究所)には、その人物の思想哲学が大きく影響しているようで、当ブログとしてはまだ未読であるが、興味深く拝読することになるだろう。

12)千葉県にある麻賀多神社(天日津久神社)へもこのご縁(編注・にぎわい塾)もこの流れからで、たまたま息子の引っ越し先の近所だということで寄ってみたらあらま、何かが私に降りてきて、私はわぁわぁ泣いているのだった。ここが、知る人ぞ知る、王仁三郎の弟子の岡本天明氏に、日月神示がおろされた最初の場所だと知ったのはだいぶたってからのことであった。中段 流峰

13)麻賀多神社はまだ参拝したことはないが、当ブログの隠しキーワードとしてきた「アガータ」と、実は深いつながりがあり、期せずして流峰の文章にこの文字を見つけるとは、実に意表を突かれた気分である。

14)今、まさに神の意志、宇宙の波動によって織り出されている私の生き様があり、そのことに感謝感動している私がいる。この稿をしたためることになった流れもまた、私にとって大切なご縁であるし、これらのことを含め、廻りに起きていることはすべて、偶然たまたまの出来事、関係ではなく、天の配剤による必然なんだなぁと改めて感謝する今日この頃である。 下段 流峰

15)近年ワンネス活動に参加しているという彼の、現実的な日常については詳しくは知らないし、ましてやその内面活動においての経緯については、詮索するにも限界はあるが、この世において袖すり合った数少ない縁深き朋友の一人であり、また互いのそれぞれのネットワークが常にクロスする位置で生存してきたのにも、それなりに、彼の言うところの「天の配剤」があるものと直感する。

16)互いの表現や活動方法については、それなりの差異があって当たり前ではあるが、少なくとも今回の再会にあたって、彼が自分の書いたこの文章を私に見せてくれたことに感謝する。彼の文章は私にとっての鏡となる。

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 「彫刻刀で楽しむ仏像」弥勒菩薩・薬師如来 関侊雲他<3> さとりサマディにて<9>初詣

さとりサーマディにて

<9>初詣   目次 

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「解き明かされる日本最古の歴史津波」<28>淵上蛸薬師瑠璃光如来 からつづく

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「彫刻刀で楽しむ仏像」 弥勒菩薩・薬師如来<3>
関侊雲 紺野侊慶(監修) 2011/09 スタジオタッククリエイティブ 大型本: 168ページ
★★★★☆

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「2001年宇宙の旅」 アーサー・C・クラーク <1>

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「2001年宇宙の旅」 <1>
アーサー・C・クラーク (著),    伊藤 典夫 (翻訳) 1977/05 早坂書房 ハヤカワ文庫SF) 文庫  p270
No.3856

 

1)ラジオドラマ「2001年宇宙の旅」 (しばがきけんじ:脚色.FM東京1978-06)の第5話を聞いて、改めてこの作品の意味が深まった気がした。

2)「何もなく、ただ何もないということを意識している意識だけがある。そして打ち消すことができない意識という現象こそ、自分の、あらゆる人々の、全生命の、宇宙の本質なのだ。宇宙はなにひとつ隠してはいなかった。われわれが必死になって目をつむっていただけだった。」第5話15分以降

3)はてさて、この文章は原文ではどうなっていただろう、と思って、わが書庫を探した。確か文庫本があったはずだ。さっそくでてきたのは、ハヤカワ文庫1977年版である。よく見ると、これは、石川裕人蔵書市で買い求めた100冊のうちの一冊だった。

4)彼は最後のページに「〇七七〇五二二〇 邑人」 と記していた。これは当時の彼の表記法であり、1977年5月22日の意味である。当時彼は「いしかわ邑人」というペンネームを使っていた。邑人と書いて、「ゆうじん」と読んだ。

5)当該の文章がどこにあるのか、ちょっと探しあぐねたが、おそらくそれは脚色の伊藤典夫の独創であるかもしれない。意味的は、そうであろうが。

6)ニュートンはこの長いSFの一か所だけ、カギかっこの書き込みをしていた。

7)ベルディの「レクイエム・ミサ」だった。空っぽの船内にいかにも似つかわしくなく不気味に響きわたる「怒りの日(デイエス・イレー)」は、彼を完全にうちのめした。審判の日のトランペットが天からこだましてきたときには、とうとう我慢できなくなった。

 それからは器楽曲しかかけなくなった。まずはロマン派作曲家からはじめ、彼らの感情のほとばしりにうんざりするまで聞いて、一人一人かたづけていった。シベリウス、チャイコフスキー、ベルリオーズは、数週間続いた。ベートーベンはもう少し長かった。そして最後に、彼は今までの多くの人々がそうしたように、ところどころモーツァルトの装飾を施した、バッハの抽象的建築のなかに安らぎの場を見出した。

 こうしてディスカバリー号は、ハープシコードの冷ややかな音楽 p210

8)文中の途中から始まり、文中の途中で終わった、ニュートンのマーキング。これは一体何を意味していたのだろうか。当時の私達といえば、23歳の若者。ただ彼は、洪洋社という演劇集団を立ち上げたものの、自主的な演劇空間の維持や、劇団のまとまりについて逡巡している時期だった。次なる公演に向けてシナリオをつくる材料を探していたのか。あるいは、自らの魂の癒しのために、これらの音楽に心を寄せていたのか。

9)私は私で印刷会社で働きながら、別の演劇集団「ひめんし劇場」のチラシを作り、劇団員の一人としてステージにあがる準備をしていた。

10)結局この年の秋、私はインドに渡り、翌年にプーナの映画館で、後に翻訳家として活躍するソパン氏と一緒に、この映画を見たのだった。英語版だったし、いっぱつ決めていたので、途中で、すっかり寝こけてしまった記憶がある。

11)今回、天井階の書庫を探した時には、このバージョンしかでてこなかったが、たしかもう一冊別な文庫もあったはずなので、後日、もっと探してみよう。

<2>につづく

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2017/01/01

謹賀新年 2017年 元旦 本年もよろしくお願いいたします

Sunrise_4
           Yuriage-minato 2007 by Bhavesh

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