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2017/01/10

OSHO 現代世界のマインドフルネス 「Mindfulness in the Modern World」 <15>

<14>からつづく

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「Mindfulness in the Modern World」
How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? <15>
OSHO 2014/04 Griffin 英語 ペーパーバック 254ページ (Osho Life Essentials)  目次
★   工事中 

 集中は一つの点に向かう。熟考は広い視野を持っている。あなたは美について熟考する。そこは何千という美があり、あなたはこちらの美からあちらの美へと動き続けることができる。あなたは美についてのたくさんの体験を積む。こちらの体験からあちらの体験へと。

 あなたは外的な物事の狭さにとどまり続ける。熟考はちょっと広い集中だ、たしかに一点集中ではない、だがひとつの外的存在の狭さにおいてだ。あなたは動き続けるだろう、そしてマインドも動き続ける、しかし外的物事の中にとどまり続ける。

 哲学は方法として熟考を使い、科学は集中をその方法を使う。熟考のなかで、あなたは自分の目的としている外的物事の他のすべてのことを忘れてしまうだろう。主観的世界は広い、あなたはもっと動いていえる広さを持っている。

 集中においては動いていける広さがない、あなたはもっと深く深く、狭く狭く移動して、もっともっと一点になるだろうが、あなたは動きまわれる広さを持たない。このように科学者は狭い視野の人々だ。こんなことを私が行ったらあなたは驚くだろうがね。

 科学者はとても広いマインドであるべきだと人は思うだろう。そうではない。その主体性を見る限り、彼らは完全に広いマインドであるように見える、彼らは完全に公平に自分の定理についての反論を聞く準備はできている。

 しかし、特定の例外を除いて、彼らはもっと偏見的であるし、通常の人々よりもっと偏狭である。それは彼らが、他のことをよく検討せず、なんであれ社会が信じているものを単純に受け入れているという理由による。

 たくさんの宗教的な人物たちは自慢する。「見なさい、彼はこんなに偉大なる科学者だ、ノーベル賞受賞者だ」とかなんとか、「それなのに、まだ彼は毎日教会に来ている」。彼らは教会に来る科学者は、ノーベル賞受賞者ではないことを、完全に忘れている。

 教会に来ているのは科学者ではない、教会に来ているのは科学的な部分を除いた男なのだ。そしてこの科学的な部分を除いた男は、誰よりもだまされやすい男なのだ。というのも、他の誰もが開放的で、友好的で、物事について考え、宗教は正しいと比較検討し、時々は他の宗教についても読み、そして常識的な感覚を持っているのに、科学者たちはそれを持っていないからだ。

 科学者になるためには、あなたはもうすこし、例えば常識的な感覚を持たなければならない。常識的な感覚は、常識的な人々の、常識的な品質だ。科学者は非常識的な人物だ。彼は非常識的な感覚を持っている。常識的な感覚ではあなたは相対性原理を発見することはできない。常識的感覚でなら、あなたは他のどんなことでもできる。

 例えば、アルバート・アインシュタインはひとつの数列でゼロをいくつも続いて、ページ全体を使うような、とてつもなく長い数字を計測する。彼は、彼は星や、光年、百万、10数億、天文的無数、非常識的に長い数列に取り込まれても、小さな物事については無頓着だった。

 ある日、彼はバスに乗り、運転手に料金を払った。運転手がおつりを払うと、アインシュタインはそれを数え「私をだますのかね、全部返しな」と言った。

 運転手はおつりを手に取って、数え直し、そして言った。「お客さん、これはおつりですよ」

 アインシュタインは記憶している。「彼が『お客さん、これはおつりですよ』と言った時、私は自分に言った。『黙っていたほうがいいな。もし誰かが、私がおつりを知らないことを知ったら、ましてバスの運転手に知られたら・・・・』、私は自分の人生全体で何をしてきたのだろう、数えに数え、他のことを夢見もしなかった、私は夢でさえ数えてきたのに、こいつは私に、『数え方を知らないのかい?』と言ったのだ」。

 帰宅した時、彼は妻に言った。「ちゃんと数えて欲しいんだ。これでいくらある?」。 妻は数え言った。「おつりは間違っていないわ」。

 「なんてこった。これじゃぁ運転手が正しかったということになる。私が数え方を知らなかったのだ。おそらく私は巨大な数字を数えることはできるが、小さな数字についてはすっかり忘れてしまったのだ」。

 科学者は常識をあっという間に失う。同じことが哲学者にも起こる。熟考は幅がある。だがまだひとつの目的に取り囲まれている。例えば、ある夜ソクラテス何か、いままで誰も考えなかったことについて考えていた。木のそばで、彼は熟考に熱中していた、雪が降っていることにも完全に無頓着になり、朝になって凍りかけているところを発見された。

 膝まで雪がつもり、彼は目を閉じて立っていた。彼はほとんど仮死状態だった。彼の血液はほとんど凍りかけていたに違いない。

 彼は家に運ばれ、マッサージを受け、酒を与えられ、彼の常識について質問を受けた。みんなは彼に聞いた。「野外の空の下に立って、あそこので何をしていたのです?」

 彼は言った、「私は、私は立っていたのか、座っていたのかさえ分からない、あそこにいたのかどうかさえ。物事が私を夢中にさせ、私は完全にそれと一体になっていた。私はいつ雪が降りだしたのか知らないし、夜が更けたことさえ知らなかった。物事がそれほどまでに私を夢中にさせるとは気づいていなかったので、私は死んでしまったかもしれない。

 私はまだ終わっていなかった。全体的な定理だった。あなた方が私を途中で起こしてしまった。今や、私は結論できなかった定理について、着想できるかどうかは私にはわからない」。

 それはあなたが夢見ている時に、誰かに起こされてしまったようなものだ。あなたは、目を閉じて眠ろうとして、夢の続きを見ることができると思うかね? 同じ夢の中に戻ることは非常に難しい。

 熟考は論理的な夢見の一種だ。非常に珍しい。しかし哲学は熟考の上に成り立っている。哲学は集中を幅のある目的に、熟考の補助として使うことができる。もし同じような小さな断片がその中にあれば、もうすこし集中する努力が必要だ。集中が使われる。そこになんの問題はない。哲学は基本的に熟考だが、なんであれ、ひとつの道具として、楽器として集中を使う。

 しかし、宗教は集中を使うことはできないし、熟考を使うことはできない。なぜなら、それは外在物についての考察ではないからだ。なんであれ目的物は外側にあり、考えや、定理、哲学といったあなたのマインドの中の目的も、大したものではない、それらは外在物だ。

 宗教的な考察とは、集中した誰か、熟考した誰かのものだ。

 これは一体誰だろう。

 さぁ、あなたはそれに集中することができない。誰がそのことに集中しているのか? それは、あなたなのだ。・・・・・24/198

<16>につづく

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