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2017/02/18

「解き明かされる日本最古の歴史津波」<33> 紹楽寺

<32>からつづく


「解き明かされる日本最古の歴史津波」  <33>
飯沼勇義 2013/03 鳥影社 単行本 p369 飯沼史観関連リスト
★ 

 先日急用で高舘那智が丘周辺に出かけた。ちょうど名取熊野三社について思いをめぐらしていた時だったので、あれ、これは呼ばれたかな、と思ったものだった。用を済ませたあと、熊野那智神社、熊野新宮、熊野本宮、紹楽寺、慶蔵院、と回ったのだが、どうもあの日は、写真を撮影しようというエネルギーがでてこない不思議な日だった。

 今日もまた続けて呼ばれたので、今日こそは画像をすこし増やそうと思い、スマホを手にした。

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 新しくできた那智が丘神社から熊野那智神社に向かうと、一番最初に「謎」のお堂が見えてくる。

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 このお堂こそは、名取熊野那智神社開山にも関わる神仏の像が納められて(いた)いる紹楽寺の観音堂ではなかろうか。

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 そう思って参拝するのだが、にわか歴男には判読する手がかりがまったくつかめない。看板や石碑がまったくないのだ。

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 この名取熊野那智神社の開山に関わるところの養老3(719)年に奉納されたとされる「羽黒飛龍権現」とは、いったいどんな神仏像だったのか。あちこち読みのにわか参拝者の記憶は定かではないが、どこかで三十三手観音とも、十一面観音とも聞いたような気がする。

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 熊野那智神社の本殿の裏には、右手からそのご神体の発見者である治兵ェの碑が、そして左手からは例の名取老女の碑が支えるように建てられている。

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 ところで、名取老女の勧請がなったのは、この縁起文を読んでも、保安4(1123)年なのであり、時系列的には、はるかに治兵ェのほうが老女より400年も前であることがわかる。

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 だから、そもそものご神体である羽黒飛龍権現像は、熊野の神々がお越しになるよりはるか前からこの地に鎮座されていたことになり、その像は一体今、どこにあるのだろう、という疑問が生まれてくる。

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 神仏習合、そして廃仏毀釈の時代には、仏教に関わる縁起物はすべて秘匿されてしまったというから、その際に那智神社の中からは排除されてしまった可能性は高い。そして、今日の一番最初に画像を掲げたあのお堂が、別当寺としての紹楽寺の観音堂として建てられ、そこに収められていた、という記述も目にした記憶がある(確かではない)。

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 那智神社裏手の階段を下りていくと、修験者が滞留して修行をしたとされる那智の滝がある。この小さな滝が、熊野那智信仰と取の地をつないだのかもしれないが、実は、名取老女が最初に勧請したのは、高館山より10キロほど南の現在の岩沼市三色吉周辺であった、とする文献も目にした(確かではない)。

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 そもそも、那智が丘団地が開発される前の高舘山の参道は、採石場のある険しい山道のほうであった。小学生時分から私たちはこの山に登ったものであるが、なかなか山深いうっそうとした雰囲気のところであった。

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 しかし最近訪れてみるとかなり雰囲気は一変している。頻繁に通る採石場のトラックは3・11後、更に増えたようにも思うが、この紹楽寺の雰囲気もかなりガラッと変わったのではないだろうか。看板を見ると開山が飛鳥時代(592~710)となっている。

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 しかし、その割には建造物や石碑は、やたらと新しく見える。最近できたお寺のような雰囲気さえある。実は、このお寺は長い間住職のいない無住の寺であったように記憶する(定かではない)。つまり荒れていたのだ(ごめんなさい、そういう印象がありました)。

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 しかるに、いつの頃からか、かなり明るい雰囲気になってきた。その理由はいくつかあるのだろうが、御縁のある和尚さんが、いつの頃からかこのお寺に住むようになったのだ。毎年年賀状をいただきながら、あまり深い関心を抱かぬままに今日まで来てしまったが、実はかなりな変遷があったのではなかっただろうか。

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 なんの深い理解のないまま本堂に近づいていくと、一番先に飛び込んでくるのは、見上げるほどに大きな十一面観音像である。

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 そう、あの治兵ェが閖上の浜で揺りあがった神仏を見つけたとされるあの像こそは、この十一面観音ではなかっただろうか。

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 碑を見ると、治兵ェの文字も、十一面観音の文字も見つかるが、その二つを明瞭につないでいる風には読めない。また、入り口では開山が飛鳥時代であると言いつつ、こちらの碑では、応永20(1413)年などと書いてあるので、私のような歴史音痴の頭にはますます???マークが浮かびあがるのである。

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 いずれにせよ、民話をもとにしたり、自然崇拝の出羽三山の伝承や、あるいは歴史書にでてくる名取老女の話、そして神仏分離により一山が開かれ曹洞宗門下の修行場となったりしたのだ。どこに時間の基軸を置くかによって、かなりあやふやな表現が存在することになるが、逆に言えば、しっかりとした歴史は把握されていない、ということにもなろう。

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 それにしても秘仏とされる十一面観音が今や石碑となってそびえ建ち、街道から丸見えなっている、というのも、皮肉と言えば皮肉なものである。

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 この石碑は分霊されたものだというが、さて本体は山頂にある、とのことだが、どこにあるのだろう。名取熊野那智神社に収められているのか、あるいは、その敷地内にある名称不詳(ごめんなさい)の一説に紹楽寺観音堂と呼ばれるあの荒れた(またまた大変失礼<(_ _)>いたします)お堂の中に、今でも秘匿されているのだろうか(おそらくそれはない)。

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 そしてまた710年代に閖上浜で揺りあがったとされる神仏像も本当はまだ十一面観音とは特定できないでいる。少なくとも名前は羽黒飛龍権現であるとか、聞いてはいるが、どうもあやふやな理解しかできない。

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 少なくともこの紹楽寺境内にある「湯殿山」の古びた石碑が、羽黒山を含む出羽三山との関係浅からぬニュアンスを表現しているかに思える。もっとも湯殿山は、出羽三山の中にはあとから加えられたもので、その位置は以前は月山、羽黒山、そして鳥海山(異説あり)が占めていたとのことである。

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 ところで今回高舘山を参拝して太平洋を望んだとき、ふと気づいて七島観音堂の方向を計ったら、ほぼ真東であることが分かった。距離的に言えば、高館山と太平洋のちょうど中間にあたる(後日地図できちんと確かめてみよう)。

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 高舘山から射られた矢が「矢越の橋」を超えて突き刺さったところに観音堂が建てられたということだが、太平洋(羽黒飛龍権現)→高舘山(十一面観音)→上余田(七島観音)という経緯をたどったとする推測もできないわけではない。なんだかそんなネットワークを発見したような、しなかったような、不思議な気分である。

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 このネットワークには、もっともっと地理的にも、時代的にも、人脈的経緯からも、さらには個人史的にも、深い縁があるような、ないような、感じがするので、まぁ、これからも、不思議BOXのパンドラでも開くような気分で、ゆっくり対応していきたいと思います。合掌

<34>につづく

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