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2017/02/28

「死にゆく人と共にあること」 マインドフルネスによる終末期ケア J・ハリファックス<2>  さとりサマーディにて<15>

<1>からつづく

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「死にゆく人と共にあること」 マインドフルネスによる終末期ケア<2>
J・ハリファックス (著),    井上 ウィマラ[監訳] (翻訳),    中川 吉晴 (翻訳),    浦崎 雅代 (翻訳),      & 2 その他 2015/4 春秋社 単行本(ソフトカバー): 352ページ
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<14>からつづく

さとりサマーディにて

<15>        目次 

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1)どこに書いておこうかな、と考えたが、この本のタイトルが目についたので、ここにメモしておくことにする。

2)「死にゆく人と共にあること」 。この本の内容はどうであれ、あるいは、ほかの人のそれなりの考えはともあれ、私のイメージを書いておこう。

3)このタイトルの中には、死んでゆく人と、その人と共にある人、と、二つの立場が書いてある。おそらくは、通常の読者は、この後者、共にある人、のほうに自らの立ち場をとるだろう。

4)そして、死んでゆく人は、これから一人になるのであり、未知なる世界へと旅立つ恐怖をもっているのだし、また、その肉体は大地へと、自然へと帰るのだ、というイメージがある。

5)自分は、その人と共にあって、その恐怖や苦しみを共にし、あるいは軽減したり、励ましたりする立場なのだ、と考えがちである。

6)本当だろうか?

7)このイメージは、「チベットの死者の書」や「枕経」などのように、病や老いで死のうとしている人の傍にいて、「怖がらなくてもいいよ」、「大丈夫だよ」、と声をかけている、という映像となる。

8)本当だろうか?

9)まず、傍らにいて、声をかけている自分は、本当に死について知っているだろうか。大丈夫だよ、心配ないよ、と声をかけることができるほどに、何かを体験しているだろうか。

10)そしてまた、死にゆく人は、恐怖におののいているだろうか。共に誰かといたい、と願っているだろうか。

11)確かに、耐え難い肉体的な苦痛の中にいる人もいるだろう。何かを失うことに心をさいなまされている人もいるだろう。しかし、人は魂レベルにおいては、ひとり旅立つことの意味を、知っているのではないだろうか。

12)共にいる人は、肉体の痛みをとってあげたり、食事の介助をしたりはできるかもしれない。まったくの暗闇にいるような気分になっている人に対して、やすらぎやなぐさめの声をかけることはできるであろう。

13)しかし・・・・・・・

14)最近、ちょっと不思議な体験をした。

15)そのタイミングでは、やはり、死にゆく人と、共にある人がいて、私は共にある人の側だった。自分が死んでゆくなんて、思ってもいないし、死にゆく人に何か役立つことはないか、と心を痛めていた。

16)ボディ体や、マインド体、エーテル体やら、なにやらが仮にあるとして、アストラル体なるものもあったとする。

17)その時、私は、その人の肉体の近くにはいなかった。ちょっと離れていて、すこしづつ近づいていくタイミングだった。

18)私はその人のアストラル体に入っていこうとした。コンタクトしようとしたのだ。

19)不思議な了解があった。

20)その人は恐怖していなかった。深く混沌とした無意識の世界に落ちてしまっていたわけではない。生きていて、覚めていた。肉体的には、ほとんど不自由な状態で、食事もままならず、名前を呼びかければ、かすかに反応する程度。でも、生きていた。覚めていた。

21)私はその人の純粋な意識の世界へチューニングした。その時の吸引力は素晴らしかった。魅力的だった。つまり、私もまた、日常の雑多な意識の中から、より純化された意識の世界へと上昇し始めたのである。

22)この時において、死にゆく人はマイナスの存在であり、共にある人は、介助するプラスの存在、という今まで思い込んでいた図式は、壊れた。

23)その人は、私を待っているわけでもなく、自らの領域をもっているわけでもない。しかし、ある位置にいて、私と同化しようとしていたことは間違いない。

24)私も同化しようとした。そして、そこに、彼我の境界線があるわけではない。その人のこころが見えた、というわけではない。もちろん、私の心が見透かされた、とかいうものではない。

25)誰の部屋、彼の部屋、というようなへだたりはない。イメージでいうなら、それぞれの廊下を歩いてきて、ある瞬間から大きな部屋に入ってしまったような状態だ。そして、そこに私の肉体があるわけでもなければ、その人の肉体があるわけではない。ある種の、脱個の状態に、私はなっていたのだ。

26)さて、原題に戻る。「死にゆく人と共にあること」。共にある人は、死にゆく人に対して、優越はしていない。おそらく、死にゆく人も、決して絶対的に優越しているわけでもないだろう。もちろん、劣等的立場にあるはずはない。

27)厳に死にゆく人は、幾つかのレベルで死に直面しようとしているのは事実であるし、その人と共にある、ということは、その事実を共に体験する機会にもなるということである。

28)もちろん、チューニングするレベルにもよる。しかし、共にある人は、死にゆく人と共にあることによって、たぐいまれなる体験をする機会を得ることができるということである。

29)マインドフルネスによる終末ケア。この言葉の中では、十分表現されていないニュアンスがある。人間関係の間柄には、「お守り」と「リード」という例えがあった。おそらく、共にある人は、あるレベルにおいては「お守り」をしているのは事実であろう。

30)しかし・・・・・

31)別なレベルでは、おそらく、それより上位レベルでは、死にゆく人は、共にある人を「リード」しているのだ。

32)つまり、マインドフルネスに深く入ったとして、その意識の中で存在する終末ケアでは、死にゆく人は、決して「助けられる人」ではなく、また、共にある人は、決して「助ける人」ではない。

33)そして、おそらくこの二人の人は、人として、二つの意識には分割されていない。

34)「死にゆく人と共にあること」。それは、死にゆく人も、共にある人も、その意識を純化させる、稀な機会である。終末ケア、という重苦しさから、解放された、終末プレゼント、とさえいえるような、ギフトでもあるのだ。

35)ある体験から、言葉としては、このようにメモしておく。

「さとりサマーディにて」<16>へつづく

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