OSHO 「瞑想―祝祭の芸術」<8> さとりサマーディにて<11>
さとりサマーディにて
<11>さとりサーマディにて 目次
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「瞑想―祝祭の芸術」 <8>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 1981/03 めるくまーる 単行本 440ページ
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サマーディはひとつの隙間(ギャップ)として始まる。だが、それは決して終わらない。
通常、隙間(ギャップ)は始まると必ず終わる。つまり、境界線---始まりと終わりがある。が、サマーディは隙間(ギャップ)として始まり、それから永遠につづく。そこには至り着く終わりはない。だから隙間(ギャップ)が生じて、しかも終わることがなければ、それはサマーディだ。が、始まりと終わりのある純然たる隙間(ギャップ)だったら、それはさとりだ。サマーディとさとりの違いはそこにある。
もしそれがただの一瞥、ただの隙間(ギャップ)でしかなく、その隙間がまた見失われるなら----もし、さるものが括弧でくくられ、その括弧が完結していたら(あなたはちょっとのぞきこんではもとに戻り、跳びこんではもとに戻る)、もしあることが起こってもまた失われるのなら----それはさとりだ。
さとりは一瞥、サマーディの一瞥だ。が、サマーディそのものではない。サマーディとは<智>の、はてしなき<智>の始まりなのだ。OSHO p290<さとり>と<サマーディ>の相違
サマーディは一瞥ではない。サマーディは死だ。しかし、さとりは一瞥であって死ではない。さとりはさまざまな方法で達成できる! 審美的な体験がさとりの源泉になりうる。音楽がさとりの源泉になりうるし、愛がさとりの源泉になりうる。
そのなかにあっては過去が無意味になってしまうような強烈な瞬間j、あなたが現在に存在している強烈な瞬間----愛、音楽、誌上、あるいは過去が介在せず未来への欲望もない審美的な瞬間----そういったどんな瞬間においてもさとりは可能になる。しかし、これはほんの一瞥だ。
この一瞥が意味深いのは、さとりを得てはじめてサマーディの何たるかを感じとれるからだ。サマーディの最初の味わい、最初のはっきりした香りが、さとりを通して訪れる。さとりが役に立つのはそこだ。ただし、どんなに役に立つものでも、それにしがみつき、それがすべてなのだと思いこむと、邪魔になりかねない。さとりにはあなたをまどわすような至福がある。それにはそれ独自の至福がある。
あなたは未だサマーディを知らないがゆえに、さとりが、あなたに訪れる究極的なものになってしまう。そしてそれにしがみつく。が、しがみついたら、あなたは以前は助けになったものや友だちだったものを、障害や敵に変えてしまいかねない。だから人は、さとりには危険がつきまとう可能性があるということに、目覚めていなければならない。あなたがこのことに気づいていれば、さとりの体験は役に立つ。OSHO p293 同上
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