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2017/02/17

OSHO 「瞑想―祝祭の芸術」<9>

<8>からつづく

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「瞑想―祝祭の芸術」 <9>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 1981/03 めるくまーる 単行本 440ページ

 無意識というものは、実際は無意識ではない。むしろ、それはただ意識が減少したものに過ぎない。だから、意識と無意識の違いは、単に程度の差なのだ。その二つは対局のものではない。その二つは関係し合い、結合されている。 

 論理の間違った体系のために、あらゆるものが対極に分裂している。論理はこういう、「肯定か否定か、光か闇か」。論理に従うかぎり、その中間などない。しかし、<生>とは白でもなければ黒でもない。むしろ、広大は灰色のひろがりなのだ。  

 だから、私が「意識的」あるいは「無意識的」と言ってもその二つが互いに対立しているということではない。フロイトにとっては、意識は意識、無意識はあくまで無意識だ。つまり、それは白と黒、肯定と否定、生と死のあいだの違いなのだ。だが、私が「無意識」というとき、それは「意識が減少した状態」ということだ。また、「意識」と言うときは、「無意識が減少した状態」ということを意味している。それらは重複し合っている。 

 どうしたら無意識に出会えるだろう? フロイトに関するかぎり、その遭遇はありえない。もしフロイトにどうやって無意識と遭遇するのかと尋ねたとしても彼はこう答えたに違いない。
 「それは馬鹿げている。あなたは無意識に遭遇することはできない。もし遭遇したとしたら、それはもうすでに意識だ。というのも、遭遇するということは意識的な現象だからだ。
 

 一方、私にどうやって無意識と遭遇するのかと尋ねたら、こう答えるだろう。
 「無意識に遭遇するための道はある。」
 私にとって、第一に銘記されなければならないことは、無意識とは単に「意識が減少した状態」だということだ。だから、あなたがもっと意識的に成長すれば、それに遭遇することはできる。
 

 第二に、意識と無意識は固定した境界ではないということだ。その二つは、ちょうどあなたの眼のなかの瞳孔のように、たえず変化していいる。光が多ければ瞳孔は狭まるし、暗くなればそれは広がる。外界との光と絶えず均衡を保っているのだ。同じように、意識もたえず変化している。実際、肉眼の現象から類推して意識現象を理解することは非常に要領を得ている。なぜなら、意識こそ内なる眼であり、魂の眼だからだ。だから、ちょうど肉眼のように、あなたの意識もたえまなく拡張したり収縮したりしている。 

 たとえば、怒っているときには、あなたはより無意識になる。いまや無意識がより広がって、あなたのなかのごく小さな部分しか意識として残っていない。ときには、その小さな部分さえ消えて、完全に無意識になる。一方、突然の事故の場合-----路上で突然事故が起こりそうになるのを感じて、あなたが死の淵にのぞむような場合-----あなたは完全に意識的になり、無意識な部分はまったくなくなる。突如として、心(マインド)全体が意識的になる。だから、この変化はたえず起こっている。 

 私が「意識」あるいは「無意識」と言うとき、その二つのあいだに何か固定した境界線があるというつもりで言っているのではない。そういうものは何もない。それは変動する現象だ。それは、あなたがより意識的でないか、あるいはより意識的であるか、あなた次第なのだ。あなたは意識をつくり出すことができる。あなた自身を鍛錬し、訓練して、もっと意識を増大させることもできるし、逆にもっと意識を減少させることもできるのだ。 

 もしあなたが、意識を減少させるように自分を鍛錬したら、あなたは絶対に無意識とは遭遇できない。実際、それに遭遇することなどできなくなってしまうに違いない。誰かが麻薬や酒類を吸引するとき、その人は自分の心(マインド)がすっかり無意識になるように訓練しているのだ。眠りに入るときには、あるいは催眠術をかけられたり、自己催眠をかけたりするとき、あなたは意識を失う。 

 たくさんの方法があって、無意識をさらに増大するのに役立つようなその方法の多くは、宗教的な修行として知られてさえいる。退屈を誘うようなものはすべて無意識を生み出す。p357OSHO「鏡の凝視」

<10>につづく

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