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2017/02/12

OSHO 「瞑想―祝祭の芸術」<7>

Ma<6>からつづく

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「瞑想―祝祭の芸術」 <7>
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 1981/03 めるくまーる 単行本 440ページ

 死とは、表面的な生、取るに足らぬいわゆる「生」からの扉だ。そこには扉が在る。その扉を通り抜けたら、あなたはもうひとつの生に達する。より深い永遠の生、死なき生、不死なる生に----。 

 だから、実際死ぬこと以外の何ものでもないいわゆる「生」と呼ばれるものから、人は死という扉を通り抜けてゆかねばならない。そうしてはじめて、人は、本当に実在的で活動的な生、不死の生に到達するのだ。 

 しかし、その「扉は非常に意識的に通らなければならない。私たちはこれまで何回も死んできた。が、人は死ぬとき必ず無意識になる。あなたは死を非常に恐れているから、死が訪れる瞬間あなたは無意識になる。 

 あなたは無意識状態でその「扉」を通り抜ける。それからふたたび生まれ、同じナンセンスがそっくり始まる。そしてまたしてもあなたは死とかわかわらない。 

 生よりむしろ死のほうにかかわる人は、「扉」を意識的に通るようになる。それこそ瞑想によって意味さえていることだ。はっきり意識して死という扉を通こと----。意識的に死ぬということこそ瞑想だ。 

 しかし、あなたは死を待つことはできない。また待つ必要もない。なぜなら死は常に存在するからだ。死はあなたの内部に存在する扉だ。それは遠い未来に起こるものではない。それはあなたが到達しなければならないような外部のものではない。それはあなたのなかにあるひとつの扉なのだ。 

 死という事実を受け入れ、それを感じ、それを生き、それを意識するようになるやいなや、あなたは内なる飛び粗を通して落ちはじめる。その扉が開く。そしてその死の扉を通して、あなたは永遠なる生を一瞥しはじめる。死を通してはじめてhとは永遠なる生を垣間見ることができる。 

 ほかに方法はない。したがって実際のところ、「瞑想」として知られているものはすべて意志的な死にほかならない。内なる深化、内なる沈潜、内なる下降、表面から離れて深淵へと入ってゆくことにほかならない。

 むろん、その深淵は暗い。表面を離れた瞬間、あなたは自分が死ぬように感じるだろう。生の表面を自分自身だとみなしてきていたからだ。表面の波はただ水面の波ではない。あなたはその水面の波と自己同化してしまっている。あなた自身が水面になっているのだ。 

 だから水面を離れるとき、あなたは単なる水面を離れるだけではない。あなたはあなた自身を、あなたの存在証明を離れる。過去や心(マインド)、記憶を離れるのだ。あなたは死んでゆく・・・・・。

 そしてあなたにこの意志的な死を死ぬ用意があってはじめて----深く自分を超えて進み、自己を離れて表面を超越しはじめて-----あなたは真実(リアリティ)に到達する。そしてその真実は永遠だ。p216 OSHO 「全面的な欲望:無欲への道」

<8>につづく

 

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