「クリフォード・ブラウン」天才トランペッターの生涯 ニック・カタラーノ /「ホワイトアルバム」 転生魂多火手伝 <4>
「クリフォード・ブラウン」―天才トランペッターの生涯
ニック・カタラーノ (著), 川嶋 文丸 (翻訳) 2003/06 音楽之友社 単行本: 278ページ
No.3908★★★★☆
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「ホワイトアルバム」 転生魂多火手伝
<4>ジャズシーン 目次
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1)この本を読み始める前に、Dについてこれまで知り得た断片的な情報を整理しておこう。
・1931~1953
・アメリカ黒人、ネイティブアメリカン(チェロキー)の血も引く。
・白人家庭の住み込みサーバントとして、家族で住む。
・主人は外交官に近いような立場にあり、戦後のヒロシマの放射線調査に参加した科学者でもある。Dがのちに日本にくる縁にもなった。
・長じてルートセールスマンになる(ボーリング場の油担当)。
・ボーリングは調べてみると、歴史が古く、古代遊戯につながっていくようだ。
・東海岸から西海岸に向けて横断中の事故。(直線コース)
・断片的ではあるが、ケルアックの「路上」にもつながっていく。
2)ブラウニーは、「運転していたパウエル夫人は疲れきって、ほんの少しの判断ミスをしたのかもしれない。」(「ジャズメン死亡診断書」小川 隆夫p33)というきっかけで交通事故に巻き込まれた。だが、Dの場合は、他者から見た場合、そしてD本人も、原因は同じような「判断ミス」と見られがちだが、それは違う。はっきりしているのだ。
3)答えはいくつかの手がかりの中にあるが、まずはこの本にある。
4)Dもまた、そのバルドソドルの中で、了解はしていたのだ。そのまま行ってしまうのか、とどまり、もう一度肉体に戻るのか、分かれ道はあった。しかし、Oのほうも、まだ準備はできていなかった。待つことにしたのだ。そして、もうひとつの肉体を必要とした。
4)それ以前、Dはフランスにいた。1908年頃。カリール・ジブランと、ハイル・ナイーミの友情は、アメリカに移ってから、ということになっているが、実は、二人にはわずかにフランス時代というものがある。この時点で直接出会っていたか、どうかは別にして、この周辺にDは生息していた。
5)この二人の周辺にまつわる話には、神智学協会の陰がまとわりつく。クリシュナムルティが「発見」されるのは、その直後の話。
6)さて、本文。
7)姉のレラは回想する。「クリフォードは最年少、私はそのすぐ上だったので、彼と私はとても仲がよかったわ。いつも一緒に遊び、一緒に泳ぎを覚え、一緒にボーリングをやり、一緒に耳に入った水を外に出すやり方を習ったのよ」p30「ウィルミントンのブラウン家」
8)まずは、ブラウニーとボーリングのつながりがでてきた。
9)クリフォードがまだ幼かったころのある日、ジョー・ブラウン(引用者注・父)はエステラの生まれ故郷メリーデルで買った中古の大型キャデラックを走らせていた。p32同上
10)ということは、1930年代の中古のキャデラックだろう。イメージとしてはこんなところか。
11) 彼(ケニヨン・キャンパー)はYMCAの内部の様子をいまも明確に覚えている。そこにはスイミング・プール、体操場、ボーリング・レーン、ダンス場、それにエル・トロカデロという名の一種のティーンエイジャー用ナイトクラブまであった。p49「ボイジー・ロワリーとハワード・ハイ・スクール」
12)ケニヨン・キャンパーはブラウニーが通ったハワード・ハイスクールの生徒会長をつとめた真面目な生徒(1946~7年頃?)。ここにもボーリングが登場している。
13)ブラウニーと仲間の三人が楽しく語り合いながら車を走らせていると、突然、一匹の鹿が道端から飛び出してきた。鹿を避けようとして急ハンドルを切った車は、スリップしてコントロールを失い、横転、大破した。
運転していた仲間とそのガールフレンドは即死し、ブラウニーともうひとりの同乗者は瀕死の状態で病院に運ばれた。知らせを受けて枕元に駆けつけたクリフォードの家族や友人たちは、彼が重体で、持ちこたえるかどうか予断を許さない状態だと知らされた。
神に祈りながら待っていた家族に、ようやく診断の結果が告げられた。クリフォード・ブラウンは両脚と胴体の右側を何ヵ所も骨折していた。体全体にギブスをはめて骨格を再構成する必要があり、いつ退院できるかわからないとのことだった。(中略)
この惨事から間もなく、サム・ターナーが別の車の事故で亡くなった。p71 「死の淵からの生還」
14)1950年6月6日の夜のこととされる。この時代はモータリゼーションが発達したわりには、安全装置が発達しておらず、事故死が日常化していたのかもしれない。
15)(1951年頃)人々は、資産家の家に生まれた彼女(アイダ・メイ・トーマス)がクリフォードを乗せてキャデラックを運転しているのを目にするようになる。彼女はブラウニーより、かなり年上だった。p86「リズム・アンド・ブルース」
16)この本にでてくる車はほとんどがキャデラックだ。資産家の娘が乗っていた1950年代のキャデラックとすれば、こんな雰囲気だったのだろうか。
17)バンドの知名度が広がり、ブラウニーにとってようやく未来への展望が開かれようとしているときになっても、彼は依然として事故の後遺症に苦しんでいた。(ヴァンス・)ウィルソンはバンドのメンバーがリムジンに乗っていたときの光景を覚えている。「そこには9人ほどが乗っていた。彼と私は真ん中の席に座っていた」 p92同上
18)ここに車名はないが、1950年代のジャズメンたちが9人も乗ることができたリムジンとは、どんなものだったのだろう。
19)ブラウニーから電話が入った。彼がアイダ・メイのキャデラックを運転していたら、氷の塊に乗り上げて車がスピンしてしまったのだ。p92 同上
20)ブラウニー自身も盛んに運転していたようだ。
21)仕事先に出かけるとき、ブラウニーはできるだけバンドのバスではなく、アイダ・メイのキャデラックを使っていた。p94 同上
22)こんなには大きくなかっただろうけど、ジャズメンが多くのスタッフや楽器機材を同時に運ぶとしたら、このくらい大きかったかもしれない。少なくとも、当時のハイウェイをこのようなバスがビュンビュン飛ばしていたことだろう。
23)ブラウニーは大胆にもレイ・ノーブルのスタンダード<チェロキー>をレパートリーに選んだ。これはチャーリー・パーカーが<ココ>というタイトルで吹き込み、彼の代表的な演奏として有名になった曲であり、その後ジャズ・ミュージッシャンによるこの曲の演奏は、必ずパーカーのレコーディングと比較されるようになった。p107「1953年6月 ジャズ・シーンに登場」
24)ここに初めてチェロキーが登場する。ブラウニーにとってチェロキーはあくまで演奏曲というレベルのことで、それ以上の深い意味はなかったかもしれない。いずれにせよ、この時代からブラウニーはトップ・プレイヤーとして浮上していくのであり、直接的になんの関係がなかったにせよ、Dはこのあたりでその人生を終える。
25)クリフォード・ブラウンとマックス・ローチが1954年にロサンジェルスに向かったとき、この伝説的ナミュージッシャンからグループに誘われて、謙虚なブラウニーといえども興奮が湧き上がるのを抑えきれなかったに違いない。p147「バートランドの夜」
26)この後ふたりは東海岸から西海岸に移動する。
27)カリフォルニアにやってきたマックス・ローチとクリフォード・ブラウンは、すぐに共同でアパートメントを借りた。それにはいくつかの理由があったが、最大の理由は、彼らが一緒に創り出そうとしている音楽について、じっくりと時間をかけて話し合う必要があったからだ。アパート面とは音楽を聴くための部屋となり、同時にリハーサル・スタジオになった。p150「カリフォルニア---マックス・ローチとラルー」
28)ここにキーワード「東海岸から西海岸へ」を見つけることができた。Dもこの途上にいたが、たどり着かなかった。二人はやがて東海岸に戻ることにはなるのだが・・・。
29)<チェロキー>はこのセッション(1955/02/25)においてもっとも大きな称賛を浴びた曲だった。事実、それに充分値する内容である。この曲を、このような速いテンポで演奏し、これだけの成功を収めたミュージッシャンは、それまで誰もいなかった。p203「イースト・コーストへの帰還『スタディ・イン・ブラウン』」
30)「チェロキー」はもはやブラウニーを代表する曲となった。
31)クリフォード・ブラウンが、リッチーとナンシーのパウエル夫妻と一緒にフィラディルフィアを発ってシカゴに向かったのは、その日の深夜だった。ブラウニーは最初、自分で運転していたが、途中でパウエルと交替し、バック・シートで仮眠をとっていたと、ローチは考えている。
しばらくして、かねてからのローチの忠告に反し、リッチーに代わってナンシーがハンドルを握った。その夜は激しい雨が降っており、ペンシルヴァニア・ターンパイクは雨のために極端にすべりやすくなっていた。
それはペンシルヴェニア州ベッドフォード近くでガソリンを補給したあとのことだった。時刻は真夜中を少し過ぎていた。運転はナンシーがしていたものと思われる。ガソリン・スタンドを出発して間もなく、かなりのスピードで車を走らせていた彼女は、カーブを曲がりきれず、ガードレールに激突した。
車は道路を飛び越え、ルート220を見下ろす陸橋の橋脚の台座に突き当たったあと、障壁を超えて75フィートの高さの堤防から転落した。
クリフォード・ブラウンj、リッチーとナンシー・パウエルの三人は即死した。6月28日つけの「ベッドフォード・ガゼット」紙に載った記事によると、過去数週間、ターンパイクのこの近辺では事故が何件か続発しており、8人の死者を出していたという。p247「1956年--最後の飛翔」
32)D=ブラウニーという構造は完全に崩れている。しかし、Dの背景を知るうえで、ブラウニーを追うことは有用である。Dは優れたミュージッシャンでなかったばかりか、特に優れた才能を若くして発揮していたということない。また、Dはブラウニーほどタイトな真面目な青年ではなかった。そこそこにやんちゃであった。
33)大家族でそれぞれの好みの教会に通っていたブラウニーの家族に比すれば、Dはもっと傾向性があり、内向性が強かった。彼の眼は東洋を見ていた。そして、この二つのエネルギーを大きく分けるのは、白人男性Wがいるか、いないか、という分水嶺である。
34)Dサイドから見れば、やはりジャズ一辺倒ではなく、むしろビートニクに偏った傾向性があった。今後、そちらのサイドからレンズを修正してみることが必要だろう。
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