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2017/03/25

「オン・ザ・ロード1972」<5>

<4>からつづく

Jkk1
「オン・ザ・ロード1972」
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p
★★★★★

<5>汽車                 目次 

1)我が家と高館山を大きく二つに分けるように、その間には東北本線の線路が走っていた。小学生当時は蒸気機関車が当たり前で、今でも電車を汽車と言ってしまう。汽車の煙が当たり前にたなびくのが我がふるさとの風景だった。

2)その線路の向こうには、線路と並走するように、東(あずま)街道が走り、また線路と我が家の間には、国道が走っていた。つまり、我が家の周辺は実は、交通流通の大動脈の要所にあり、戦後の高度成長に向けて、次第にその風景を変貌させようとしていた。

3)高舘山から閖上に向かって直線的に走っていたのは、浜街道と言われていた生活道で、一番近くのバス停の名前になっていた。浜街道、今考えれば、なかなか意味深い名前である。東街道、国鉄線路、国道4号線を断ち切るように浜街道が一直線に山から海に向かって走っているのである。

4)そして、私が生まれて成長し始めた時期、あらたに国道4号線がいっぱいになり、補完としてバイパス道路ができるようになったのである。このバイパスが我が家のすぐ側を走ることになった。その工事が始まったのは私が小学3年生の頃だった。

5)まったくのどかな農村風景、その田園に大型トラックが出入りするようになり、山や川から砂利を運び込んできた。時あたかも、東京オリンピックに向けて、日本は根本からその姿を変えようとしていた。

6)このバイパス道路工事は長い間時間がかかった。おそらく二年か三年かかったのではなかっただろうか。ちょうどその通路にあたった隣家は、我が家の本家でもあったので、移転するのが大変だった。

7)トロッコ工事も続き、ちょうど学校で芥川龍之介の「トロッコ」などを学んでいたので、実に興味深く眺めていた。大型工事車両も入り、ダンプが何台も何台もやってきた。道路に埋設するパイプ類も実に興味深かった。

8)学校にプールもなかった時代であり、夏休みは近くの川でよく泳いだものだが、その川がどんどん大型橋工事で泳げなくなった。その分、小学校にはプールができた。このプールが間に合わない間、同学年の男の子は、海に泳ぎに行って、おぼれて亡くなった。

9)実は、このバイパス工事の完成が、私をして旅へと誘っていたのだった。工事は一気に進むものではなかった。ゆっくりゆっくり進んだ。モータリゼーションが一気に進む前のことであり、走る車も限られたものだった。物流はまだまだ線路を走る蒸気機関車が担当しており、トラックの物流は限られていたのである。

10)ついでに書いておけば、高速道路は、ずっとあとのことで、私たちは雀の森時代に、そのインターチェンジの工事のための測量工事の助手のアルバイトをしたものだ。新幹線は、1981年のアメリカコミューンを訪ねるために上京した時に、初めて乗った。

11)バイパス工事は一気に進んだわけではない。部分部分が少しづつできた。我が家からみれば北部にあるあの名取老女と関連のある烏宮の屋敷も移転を余儀なくされた。部分部分が田んぼの中に砂利道を作り、できた部分からすこしづつつながっていった。

12)砂利道時代から、自転車や歩行者、原付バイクなどが、すこしづつ利便的に使用していた。つながってからも一気に舗装されたわけではない。砂利道で1キロ、2キロとつながり、やがて5キロ、10キロとつながっていった。

13)その頃、自転車やバイクで旅する若者が登場してきた。道路サイドに、大型店舗用の埋め立て地にテントを張った若者がいた。興味津々の小学3~4年の私たちは、遠巻きにしてその若者を眺めていた。

14)つづいて山形から高校生のサイクリング車がやってきた。その日は雨だったので、我が家の農家の庭にテントを張らせてほしい、という。親たちは、それはかわいそうだ、と言って、本宅に入れ、食事を出し、風呂にいれ、布団を出して泊めてやった。これが、私と旅との最初の接触だったかもしれない。

15)やがて、このバイパスも舗装され全線開通し、東京オリンピックも開催され、日本はもう戦後ではない、というキャッチフレーズのもとに、経済成長路線をまっしぐらに走り始めた。

16)その頃まで、私はまだバス以外の交通機関に乗ったことがなかった。親戚はほとんど足で歩いていけるところにあり、遠くの親戚などなかった。最初に覚えているのは、隣の駅にあった竹駒神社のお祭りに行った時、祖父が載せてくれた蒸気機関車だった。小学六年生になっていた。

<6>につづく

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