「オン・ザ・ロード1972」<6>線路
「オン・ザ・ロード1972」
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p
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<6>線路 目次
1)前回、汽車に乗ったのは小学校6年になってから、と書いたが、線路そのものの思い出は他にいくつかある。
2)おそらく6歳ころの記憶。長町から秋保温泉にかけての秋保電鉄というものがあった。田んぼの中を走る一両編成のディーゼル車だ。途中で下車して西多賀国立病院に入院していた父親に面会した。
3)父親が入院する時は、ハイヤーで布団を積んでいったような記憶があるが、当時はハイヤーなんて珍しかった。面会には市営バスで長町まで行き、そこから秋保電鉄に乗った。往復するだけでも一日行事だった。
4)物のない時代で、裏庭のニワトリ小屋から卵を取ってきて新聞紙に包み、イチジクを砂糖で甘く煮て、甘露煮にしたものをお見舞いに持参した。父親は、長期療養中ゆえ、ほとんど何もプレゼントしてくれたことはない。
5)唯一覚えているのは、病室の入院患者友達に編んでもらったというビニール針金で編まれた、小さな小箱である。同じものが兄にもプレゼントされ、年長だった姉には、この二倍の大きさで赤と白のツートンカラーで編まれていた。
6)おそらく就学前だったと思うのだが、一時期手元にあったが、なくなっていた。ところが仕舞いのいい兄が長年補完してくれていて、大人になってから戻ってきたものである。唯一の父の遺産。これに私は何をいれたらいいのだろう。
7)この空っぽの函を見るとき、私はいつも中学時代の初恋のことを思い出す。ようやくカード交換ができるようになったとき、あの人はクリスマスプレゼントをしてくれた。プレゼントと言っても、かなり簡素なもので、郵送されてきた。それは小さく折りたたまれた紙袋だった。「これにみんなからもらったプレゼントをいれてね」とプリントしてあった。
8)ブッタは王舎城に還ったとき、息子ラーフラに唯一渡したものは、托鉢碗ひとつだった。それは実に質素ではあるが、ブッタのすべての愛が詰まった遺産だった。その所以を知っているから、私は、それになぞらえて、この父からの唯一のプレゼントを今でも宝物として大事にしている。
9)姉弟それぞれにプレゼントされた小箱には父の直筆で名前が書いてあった。この名前は父が私に残した一回だけの書である。生きていたら、今年100歳になったであろう父だが、45歳で、小中学生の子供三人を残して旅立った。
10)線路と言えば、もうひとつ、市電の路面電車を思い出す。街の中に連れていってもらうというのも、ほんとうに回数が少なかったが、年に一度の七夕祭りには、必ず連れていってもらった。七夕の仕掛け七夕などもすごかったが、私には、路面電車がとても興味深かった。
11)あの頃、路面電車の信号機は手動だった。大きく曲がる通りの角には、UFOのような見張り台が、電柱の上にような位置に取りつけてあり、踏切番のような職人たちが、人通りと車と人を裁いていた。
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