「オン・ザ・ロード1972」<8>自転車
「オン・ザ・ロード1972」
「時空間」創刊号 1972/11/20 時空間編集局 ガリ版ミニコミ 102p
★★★★★
<8>自転車 目次
1)生まれて物心ついて、気づいた時に、わが家には自転車が二台あった。ひとつは農作業や搬送などに使われる運搬車というものだった。そもそものボディが頑丈で、しかも前のタイヤはリヤカーと同型の太いタイヤが使われていた。
2)というのも、ハンドルの前に大きくて頑丈な荷台があり、そこに荷物を積んで運ぶのである。当時の米の俵は60キロあった。つまり、現在スーパーなどで流通している30キロ詰めの袋の二倍。通常、おんな子供ではとてもとても運転操作はできなかった。
3)もう一台は、軽快車。いわゆる標準の自転車よりも細身のボディが使われており、スポーティだった。いつも乗っているのは、町の議員などをしていた祖父で、当時としては相当におしゃれな自転車だった。
4)地区の家々に、自転車はほとんどなく、今のマイカーよりも希少価値があった。1960年代の前半のことである。家庭内にはほとんど機械類はなかった。あるとすれば、ミシンである。そもそもミシンとはマシンのことで、もともとはソーイング・マシーンが正式な名称である。しかるに、家の中にはマシンは一つしかなかったので、ミシンと言えば、だれでも分かった。
5)だが、それだって、最近、お嫁さんでやってきた若い女性のいる家庭に限られていて、わが家にはなかった。昭和34年、正田美智子さんは皇太子と結婚した。今や、皇后から上皇后となるお方である。あの頃から、日本の高度成長が始まった。
6)私が中学生になったのは昭和41年。自転車は珍しいものではなくなっていた。我が家にも上の姉兄達用の自転車がいろいろ揃うようになってきた。でも、どうしたことか、私に回ってくるのは、いつも上の姉兄たちが使ったあとの、おさがりだった。
7)小学校より中学校のほうが自宅に近かった。通学するのは10数分ほどの距離なのだが、朝起きるのが遅くなった。飯をかっこんで遅刻ギリギリに学校に駆け込むのがいつもの私のスタイルだった。
8)本当は自転車通学は許されない距離ぎりぎりだったのだが、遅刻なりそうになると、中古のボロボロの自転車を持ち出して、始業ベル直前に校門に飛び込んだ。そんな風景が毎日の風景になってしまった。
9)そんな事情がだんだんと公になり、毎日毎日、ぎりぎりに飛び込んでくる私の自転車こぎ風景を、朝掃除の準備にかかっている全校生徒が廊下や教室の窓から見ていて、みんなで囃した。あの頃、いつの間にか、私の中古自転車はニックネームをもらい、なんと、それはロールスロイス、というものだった。由来は確かではないが、自転車屋の息子ススム君のネーミングだった。
10)高校生になると、学校までは徒歩と国鉄の列車を使うことになった。ディーゼル車と蒸気機関車がほとんどで、それこそあの煙をかぶりながら、デッキのマドを開いて手すりにすがって満員列車に飛び込んだ。片道ほとんど1時間かかった。
11)しかし、これもまた遅刻ギリギリに駅に飛び込むので、乗り遅れることが多くなり、それが判明すると、今度は列車に乗り込むのをあきらめて、一気に自転車でパイパス沿いに猛ラッシュすることになる。それでもちょうど一時間かかるので、どちらでも同じ時間がかかったことになる。
12)バスケットクラブにいる間は体力温存のために列車通学をしていたが、二年生になると新聞部に移籍したので、自転車で通学することが多くなった。この時使っていたのは、3学年上の兄のおさがりのサイクリング車。セミドロップハンドルがカッコよかった。
13)このおさがり自転車が私の最初の旅の伴侶となる。ドン・キホーテにとってのロシナンテ、という役どころだろうか。
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