<9>からつづく

「Mindfulness in the Modern World」 How Do I Make Meditation Part of Everyday Life? <10>
OSHO 2014/04 Griffin 英語 ペーパーバック 254ページ (Osho Life Essentials) 目次
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しかしながらどの社会もあなたが直接見ることを許さない。それはやってきて勝手に解釈を与え、あなたはそれに化かされる。この僧侶は毎朝言ったものだ。「他人に化かされるな」。そして彼は返答した。「はい、師よ、私は誰にもだまされはしません」。
このことは常に覚えておかれるべきだ。なぜなら他人はまわり中にいて、彼らは細部にわたってあなたを化かそうとしているからだ。そして今や他人はかつてないほど強力だ。広告宣伝を通じて、ラジオ放送を通じて、新聞紙を通じて、テレビ放送を通じて、あなたを操作しようとしている。
アメリカでは、市場全体がいかにあなたを購買者として化かすかで成り立っている。どのようにあなたが他人のマインドの中に考えを創り出すかにかかっている。さぁ、幸せになろうとしたら、二台の車があなたのガレージに必要だ。アメリカでは二台の車がガレージなくてはならない。誰も、「もしあなたが一台の車で幸せでなかったら、どのようにしてあなたは二台の車で幸せになれるというのかね?」と聞かない。
もし一台の車で50パーセント幸せだとしても、あなたはどうして二台の車で幸せになれるというのだろう? 一台の来るmであなたが不幸せなら、あなたは二台の車で二倍不幸になるに違いない。算術は簡単だ。
しかし広告宣伝、プロパガンダ、社会全体が他人を操作することで成り立っている。幸せは、市場の中の商品かなにかのようだ。あなたはそれを追い求め、それは獲得するべく強要される。追跡することで幸せになるのだろうか? 幸せは商品ではない。それは物ではない。それは生きることの質、注意深い生き方の結果なのだ。あなたはそれを追いかけることはできない。その道ではない。
アメリカの新聞を見ていては、あなたは失い続けるだろう。幸せは金銭を使って追い求めることができるようなものではない。彼らはあなたに何かが失われているような感じを創り出す。そのためあなたはそれを求めて働きだし、金を稼ぎ、買いに走る。
そしてその時あなたはあなたがそれを欲しがっていると感じている。しかしその感じは、決して深いものではない。なぜなら、あなたがそれを欲しいと感じる前に、なにか新しい欲しいものがマインドに入ってきて、それから彼らはあなたをあなたの目の前につるすのだ。
あなたは丘の上の家が欲しくなる。あるいはあなたが夏の休暇をしなければならないと思う。あるいはヨットが欲しくなる。いつでも何かが魅力的に見えてくる。そしてその時からあなたは幸せになる。彼らはあなたを死ぬまで引っ張り続けるだろう。あなたが死ぬまで、これらの広告宣伝や、プロパガンダが、あなたを引っ張り続けるのだ。
この僧侶は正しい。この注意深さはあなたのものになるべきだ。あなたは他人に化かされてはならない。社会すべては搾取のために存在し、他人を搾取し続けている。そしてこの搾取は市場においてのみならず、寺院でも、教会でも、シナゴーグにもある。それはどこにでもある。なぜなら聖職者もまたビジネスマンだからだ。
あなたは平和を必要とし、あなたは平和について聞き、「私たちところに来れば、私たちはあなたに平和を上げましょう」という人々がいる。あなたが至福について聞けば、あなたに至福を販売する準備ができている人々がいる。マハリシ・マヘッシュ・ヨギのように西洋で成功した人々がいたとしても、東洋では成功しない。インドでは誰も聞いていない。誰も相手にしない。
しかしアメリカでは、すべての種類のナンセンスが聞かれる。あなたが正しいプロパガンダに乗り、すべてが正しい宣伝マンたちに接触するのなら、それはもいいだろう。 しかしマハリシ・マヘッシ・ヨギなどは、まるで内なる静寂を直ちに獲得できるかのように話したり、一週間以内に瞑想を見つけることができるとか、15分間座ってマントラを唱えればあなたは永遠に幸せになれる、と語っている。
そしてアメリカ人のマインドは。広告宣伝に毒されていて、すぐに引っかかり、黒山の人垣ができる。その群衆は変わり続けるが、いつでも人だかりができている。そして、何事かが起きているかのように見える。まるで寺院や教会まで店舗になってしまう。
瞑想は追い求めることができないばかりか、誰もあなたにそれを与えることはできない。あなたはそれを自ら得なければならない。それは外にある何かではなく、それは何か内なるものであり、成長し、それは内なる覚醒から成長するものなのだ。
あなた自身の名前に呼びかけなさい。朝に、夕に、昼過ぎに、眠くなったらいつでも、あなた自身の名前に呼びかけなさい。そして呼びかけるだけではなく、それに答えるのだ。大声で言いなさい。他人を恐れないことだ。あなたは充分他人におびえてきた。彼らはいつもあなたを恐怖の中で殺している。恐れないでいなさい。市場にいても、覚えておきなさい。
あなた自身の名前を呼びなさい。「おい、いるかい?」。 そしてそして答えるのだ。「はい、います。師よ」。
人々は笑わせておきなさい。彼らに化かされてはならない。体験されるべきことは注意深くあることだけだ。期待したり、人びとに期待されたり、ではない。なぜならこれは彼らの罠の一つだからだ。期待することによってあなたを忠犬にしてしまう。彼らは言う「私たちはあなたに期待している。頼むから忠犬でいてほしい。それだけだ。社会に従えば、社会はあなたに期待するだろう」。
これは相互交換だ。あなたはもっと死んでしまえば、社会的はもっと期待するするだろう。あなたがもっと自分を生きるとすれば、社会はあれこれ問題を創り出してくるだろう。
キリストはなぜに殺害されたのだろう? それは彼が生きた男だったからだ。彼は子供時代にこう呼ばれていたに違いない。「キリストよ、他人に化かされてるなよ」。そして彼は化かされなかった。だから他人は彼を殺害した。なぜなら彼はゲームの一部ではなかったからだ。
ソクラテスは毒を盛られ、そして殺された。マンスールもまた殺害された。そこに牢獄から脱走した人々がいたとして、あなたが何を言ったとしても、彼らを説得することはできない。彼らは牢獄の中には戻らない、彼らは大きくひらかれた空のような自由として知られる。OSHO p11~14/254 (13~15/198)
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