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2017/06/05

(仮題)瞑想ビューロー日記<3>坐禅会

<2>からつづく

(仮題)瞑想ビューロー日記

    目次

<3>坐禅会

1)月一の早朝坐禅会のあと、茶粥をいただきながら、思った。主宰者は同じだが、別院における土曜午後の坐禅会もまた月一であり、生活のリズムになりつつある。

2)生活に坐禅を取り入れる、という意味ではかなり恵まれた環境にある。伝統ある施設における正当な指導者。開放性、清潔性、自由性。至近性。

3)恵まれている。されど、恵まれていればいるほど、人はより深みへとまた何かを求め始める。只管打坐。ただ坐る。それでいいのだが、そう簡単にいかないのが、人間の常である。

4)その伝統性、正当性、自由性、とみられるそのものに瑕疵はないのか、と、チェック機能が働きだす。

5)伝統性。凝縮の過程におけるクリスタライゼーションが残した伝統でありながら、そのガラパゴス性、不変性、が逆に足かせとなってはいないか。

6)正当性。伝統が培う優れた指導者たち。その設備、そのシステム、そのネットワーク。具体性、現実性。うらやましい限りである。されど、と思う。そこに瑕疵はないのか。

7)その問いは問いとしては存在しない。それを解決するための活動はなにもない。されど、我が感性は、どこまでその流れについていけるのか。そのことと、わが生命が一体化するのかしないのか、今はわからない。

8)わが内なるものとして、より素直な形での思いの中に、まだ形が凝固しない瞑想ビューローという仮称が存在する。

<4>につづく

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