「シンキング・マシン」 人工知能の脅威ーコンピュータに「心」が宿るとき ルーク・ドーメル
「シンキング・マシン」 人工知能の脅威ーコンピュータに「心」が宿るとき
ルーク・ドーメル (著), 新田 享子 (翻訳) 2017/03 エムディエヌコーポレーション 単行本: 272ページ
No.4020★★☆☆☆
1)「コンピュータに『心』が宿るとき」。このサブタイトルを見て、すぐに連想するのは、レイ・カーツワイルの「スピリチュアル・マシーン コンピュータに魂が宿るとき」(2001/05 翔泳社)。
2)「シンキング・マシン」と、「スピリチュアル・マシーン」を比較した場合、明らかにスピリチュアル・マシーンのほうが高度であることがわかる。心が宿る、より、魂が宿るほうが、はるかに重く大きなテーマであることは間違いない。
3)しかし、それにしても、この本においても、レイ・カーツワイルにも触れているし、シンギュラリティを意識して書いているわけだから、ここまで本歌取りするかな。心が宿る、というコピーは日本独自のもののようだ。
4)もっとも「スピリチュアル・マシーン」のほうとて、原題はThe Age of Spiritual Machines: When Computer Exceed Human Intelligenceだから、必ずしも魂が宿る、とは言っていない。インテリジェンス(知性)を超える、と言うにとどめている。この辺りは翻訳者の田中三彦のワザが光っている、と言うべきか。あるいは、先走っていると、いうべきか。
5)おそらく、ここまでのシンギュラリティ追っかけを10数年間してきて、まず一読者として言えることは。シンキング・マシーンとしてコンピュータが「思考」を持つことはあり得るだろうが、人間のような魂を持つことはあり得ないだろう、というところ。
6)魂やスピリチュアル、という言葉の概念を大きく変えれば、微妙になってはくるが、実際に現在のところでは、思考はデジタルに置き換えることは可能であるだろうが、魂はあり得ない、ということになる。
7)だから、言ってスピリチュアル・マシーンまでだ。コンピュータは、スピリチュアル・ヒューマン足り得ない。機械には持ちえないからこそ、魂がある。魂があるからこそ、人間足りうる。
8)ただはっきり言って、現在においても、一見するとすでに魂を失い、心を失ってしまっている生物としての人間は数多く存在するので、人間だれもが、魂を持っているとはいいがたい。あえていうなら、人間は魂を回復するポテンシャルを持ってはいるが、見失っている者のほうがはるかに多い、ということになる。
9)あえて当ブログではレイ・カーツワイルのシンギュラリティ仮説に賛成するかと言えば、シンギュラリティによって、さらに人間の可能性があらわになってくるということだ。機械に任せることができるものがあれば、それは機械にやってもらったほうが、効率もよく、精度も高く、経済的で、人類の利益に帰すことが多い。
10)洗濯機は、女性の過重労働から解放した。自動車や飛行機は、人類の移動に寄与した。通信はコミュニケーションの円滑さをより促進した。シンキング・マシーンは、計算や理論的結論付けなどに、多いに役立ってくれるだろう。
11)この本においては、結論としては、極めて懐疑的にまとめられている。わからない、予測できない、ということである。その通りだと思う。そんなこと最初から分かっているのだ。予測できないからこそ、レイ・カーツワイルは、現在のところまでのデータをもとに仮説を立てた。そして、あれから20年近く経過して、その仮説が真実味を帯びてきた、ということだ。
12)だが、今後どうなるかなんて、だれにもわからないのだ。
13)ただ、分かっていることは、私は最長でもあと数十年でこの世に居なくなるし、ひょっとすると明日すら保証はされていない、ということだ。その間に、私という魂は、機械によっては置き換えることはできないだろう。
14)当ブログにおいて、暗躍している転生魂多火手において、仮に未来生があるとするならば、何世か重ねたあと、その結論を見ることになるかもしれない。そして、その時、この当ブログの書き込みを何等かの形で見つけるかもしれない。その時のために、現状をメモし続けておく。
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