「WRED(ワイヤード)VOL.30」 特集「Identity デジタル時代のダイヴァーシティ 〈わたし〉の未来」 <3>
「WIRED (ワイアード) VOL.30」 / 特集「Identity デジタル時代のダイヴァーシティ 〈わたし〉の未来」 <3>
コンデナスト・ジャパン (著), WIRED編集部 (編集) 2017/12 出版社: コンデナスト・ジャパン雑誌
★★★★★
1)とりあえず、ざっと本文に目を通してみる。思えば、この特集「Identity デジタル時代のダイヴァーシティ 〈わたし〉の未来」は、当ブログ現在進行形の「Mindfulness in the Modern World」と意味的には、ほぼ同義なのである。
2)現代社会をどうとらえるか、はWIRED誌の方がはるかに今日的で世界の動向に詳しい。当ブログとしても現代社会を、いわゆる「デジタル時代」と捉えることにやぶさかではない。現実に進行しているプロジェクトのレポートは目を見張るものがある。
3)されど、WIRED誌における「私」の捉え方に並列するなら、当ブログも一枚噛んでいる「Mindfulness」の方法論が、一歩先に行っているだろう。瞑想とも、スピリチュアリティと言ってもいい。その分野への手の付け方は、まだWIRED誌は確定的ではなかった。あるいは、手をつける気はなかった。
4)パーソナル・コンピューターの「パーソナル」、ソーシャル・ネットワークの「ソーシャル」、さて、その次に何がくるのか、その論議は当ブログでも長い間繰り返してきたが、WIRED誌にとっても、重要であると見える。ただ、それが言葉としては明確になっていない。
5)当ブログとしては、それは「コンシャス」だ、と断定的に明言してきた。コンテナとしてのPC、コンテンツとしてのSNS、そして、コンシャスネスとしての「???」。実はここにおいては、当ブログとて断定的に預言はできない。
6)勢い余って「メタコンシャス 意識を意識する」などと感極まったところで、あの3・11に遭遇したわけだが、その他、「コンシャス・マルチチュード」、「コンシャス・シンギュラリティ」などの試験的打球も打ち放っておいたが、必ずしもヒットしたという兆候はない。
7)そもそも当ブログにおいては、「マルチ」と「シングル」は対局の言葉としてとらえており、あまりにもイメージが両極に拡散してしまっているのではないか、と反省する。
8)マインドフルネス、という言葉使いは当ブログとしては、ちょっと無理あり、古びてはいるが、やはり瞑想、Meditationの方が使いやすい。そういう意味において、地球全体が、文化として瞑想に入っていくタイミングとはどういうものであろうか。
9)おそらくそれのひとつは3・11だった。
10)方法論としては、当ブログの今年の結語は「禅」だ。「ZEN」でもいい。当たり前の、予定調和的な結論だが、収束に向かうと常に逆襲を受けるもの。禅=自力に対置するものとして、なぜか他力=親鸞が登場しつつあるも、当ブログの今日的現状である。
11)他力、大日如来、南無阿弥陀仏、親鸞、法然、浄土宗、浄土真宗。分け入っていけば、またまた原生林の迷路にはまり込んでいく。いやいや、そう入り組んでばかりもいられない。ここは、わがOSHOの「愛と瞑想の二つの翼」で乗り切るしかない。
12)OSHOのLOVEを、絶対他力の「悪人なおもて往生をとぐ」まで読み下せるかどうかは、それこそ「私」にかかっている。枝葉末節に引っかかっていては、新しかるべき地球精神への深化=進化を閉ざしてしまうことになる。くわばらくわばら。
13)WIRED誌(日本語版)。愛すべき一冊。このままフェードアウトするのか。まず、それもよからん。今日は大晦日だ。冥福を祈って、合掌。
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